165 お兄様の幸せのため
それから、マルグリットの態度は変わった。
……あからさまに、オルタンシアに冷たく当たるようになったのだ。
「オルタンシア、今日はあなたに大事な仕事を任せたいの。いいかしら」
マルグリットの瞳に宿った意地の悪い光に、オルタンシアはぞくりとする。
だがこちらはヴェリテ公爵家に雇われている身。
公爵令嬢であるマルグリットに対し、拒否権などあるはずがなかった。
「……なんなりとお申し付けください、お嬢様」
「ありがとうオルタンシア! それじゃあ……私の大切なドレスを綺麗にお洗濯してくれる?」
そう言って、マルグリットはオルタンシアを衣裳部屋へと誘う。
「これとこれと……これもお願い! あっ、念のためこれも!!」
マルグリットが指し示すドレスを、オルタンシアは次々とより分けていく。
これだけの量となると、かなりの重労働になりそうだ。
「それじゃあ、何人か応援を呼びますね!」
状況を見ていたパメラが、当然のようにそう提案する。
ヴェリテ公爵家には主に洗濯を担当するメイドもおり、こういった作業の際には彼女たちの手を借りるのが普通だった。
だが、その途端マルグリットは目を吊り上げた。
「駄目よ!」
まさかの制止に、オルタンシアもパメラもびくりと体を跳ねさせてしまう。
「だってこれは私の大事なドレスなんだもの! 他の洗濯物と混じるようなやり方は絶対ダメ!」
オルタンシアはちらりと横目でパメラの様子を伺う。
パメラは明らかに困惑しきった顔をしており、いくらわがままなマルグリットでも普段からこんなことを言うわけではないようだった。
「オルタンシア、あなたを信頼しているからこそあなた一人に任せたいのよ。できるわよね?」
挑発するような笑みを浮かべて、マルグリットはそう口にする。
……確実に、彼女はそれが無理難題だということがわかっているのだ。
「ですがお嬢様、オルタンシア一人でこの量は無謀です。やはり応援を――」
「黙りなさい、パメラ! 私の言うことが聞けないの!? ……オルタンシアはお兄様に気に入られるくらい『優秀』なんだもの。このくらい余裕よね?」
有無を言わせぬ口調で、マルグリットはそう迫る。
優しいパメラはなおもマルグリットを思いとどまらせようと口を開きかけたが、オルタンシアはそれより早く了承の言葉を口にした。
「承知いたしました、お嬢様」
……これ以上渋れば、オルタンシアだけでなくパメラまでつらく当たられてしまう。
それだけは絶対に避けたかった。
「ふふ、あなたならそう言ってくれると思っていたわ。よろしくね」
マルグリットは上機嫌にそう言い残すと、パメラを引きずるようにして去っていく。
残されたのはオルタンシアと、洗濯を命じられた大量のドレスだけだ。
「……やるしかない、か」
とても今日一日でマルグリットの命じた仕事を完遂できるとは思えなかったが、だからといって放棄することもできない。
失敗するのは目に見えているが、それでも叱責されるのはオルタンシアだけだ。
(……パメラに迷惑がかからなければ、それでいいわ)
そう自分に言い聞かせ、オルタンシアはさっそく作業に取り掛かるのだった。
洗濯場へ赴き、細心の注意を払いながらマルグリットのドレスを洗っていく。
居合わせた他のメイドは「こっそり手伝うよ」と申し出てくれたが、オルタンシアはその申し出を固辞した。
もしも露見したときに、彼女たちにまで咎が及ぶのは避けたかったのだ。
生地を傷つけないように気を付けながら、丁寧にドレスを扱う。
体力だけでなく気力も必要となる作業だ。
幸いなのはマルグリットが所持するドレスの数があまりにも膨大で、ほとんど袖を通されたことのないドレスには目立った汚れもないことだろう。
それでも、手を抜くわけにはいかない。
オルタンシアは懇切丁寧に、水を吸って重くなったドレスを清める。
煮沸消毒用に大量の湯を沸かしていると、くらりと眩暈がした。
(駄目、こんなところで倒れている場合じゃないんだから……)
熱気でくらくらしながらも、オルタンシアは汗だくになって作業を進める。
昼食は抜いた。夕食にもきっと間に合わないだろう。
それでも、音を上げるわけにはいかないのだ。
(これもヴェリテ公爵家の……お兄様の幸せのため……)
オルタンシアが言うことを聞けば、マルグリットも機嫌を直してくれるかもしれない。
ジェラールとマルグリットの間に軋轢を生みたくはない。
ましてや、オルタンシアがその原因だなんて耐えられない。
(大丈夫。私はお兄様がいなくても頑張れる。頑張れる、から……)
洗ったドレスを干すころには、既に日は沈みあたりには宵闇が広がっていた。
微かな灯りを頼りに、ずっしりと重いドレスを一枚一枚干していく。
(朝までに乾いてくれるかな。そうしたらアイロンをかけて……)
最後の一枚を干し終えた時、気が抜けてしまったのかもしれない。
「あっ」
疲労が限界に達していたオルタンシアの体は、糸が切れたように崩れ落ちたのだ。
地面に叩きつけられることを覚悟して反射的に目を瞑ったが、痛みが襲ってくることはなかった。
「……何をしている」
目を開けたオルタンシアの視界に映ったのは、少し焦ったような表情でこちらを見下ろすジェラールだったのだ。