164 勘違いしちゃだめよ
「あっ、お兄様!」
晩餐へと向かう道中、ジェラールの姿を見つけたマルグリットは嬉しそうに駆け出した。
仕事で屋敷にいないことも多い彼だが、今日は家族と晩餐を共にするのだろう。
ジェラールも足を止め、駆け寄ってきたマルグリットに視線を向ける。
「今日はご一緒できるんですね! 嬉しい!!」
マルグリットは甘えた態度を前面に出し、ジェラールを見つめている。
その様子を、マルグリットの後ろに控えながらオルタンシアは見守る。
(さすがは生まれながらの公爵令嬢。甘え方も上手だな……)
二度目の人生が始まった時、なんとかジェラールと仲良くなろうと可愛い子ぶっていたのを思い出す。
あの時の必死に「可愛い妹」を演じていたオルタンシアに比べれば、今のマルグリットは天然の可愛い妹だ。
きっとジェラールも、内心ではマルグリットのことが可愛くてたまらないはずで――。
(あれ?)
だがオルタンシアの予想を裏切り、ジェラールの反応は淡白なものだった。
「そうか」
たった一言それだけ言うと、マルグリットから視線を外す。
これが元の世界のジェラールで、オルタンシアが同じように声をかけたのであれば、頭を撫でるなり会話を続けるなりしたと思うのだが……。
そんなことを考えていると、不意にジェラールの視線がこちらを向く。
(わっ!)
オルタンシアは驚いたが、ここで視線を逸らすのも不敬だ。
すぐにジェラールの方から視線を逸らすだろうと、あくまで平静を装い視線を合わせ続ける。
だが――。
(な、長い……)
ジェラールはなかなかオルタンシアから視線を外さなかった。
まるで視線を逸らしたら負けだとでも言うように、じっとこちらを見つめ続けているのだ。
(うぅ、もしかして私の格好がどこかおかしいのかな……?)
ヴェリテ公爵家の使用人たるもの、いついかなるときもきちんと身だしなみを整えるべし……というのは雇われた当初に教わったことだ。
もちろんオルタンシアも気を付けているつもりだが、ジェラールがここまで視線を外さないとなると何かやらかしてしまったのかもしれない。
(ひー、何だろう……。マルグリットお嬢様には何も指摘されなかったけど……)
ついにオルタンシアは、ジェラールの視線に耐え切れなくなり俯いてしまった。
だがそれでも、じっとこちらに注がれる視線は消えない。
気まずい空気を破ったのは、ジェラールの注意を引こうとするマルグリットの声だった。
「お兄様!」
ぐい、と腕を引っ張り、マルグリットはジェラールの視線を自分の方へと呼び戻した。
「今日のドレス、お兄様にお見せするのは初めてでしたよね! どう思います!?」
そう言って、マルグリットはジェラールの眼前で踊るようにくるりと回ってみせた。
ふわりとドレスの裾が舞い上がり、その美しさに誰もが感嘆せずにはいられないだろう。
……ジェラール以外は。
「既に似たようなものを何十着も持っているだろう。増やすだけでなく手放すことも覚えろ」
おそらくマルグリットが想定したのとは真逆の答えに、彼女の愛らしい笑みが一瞬固まる。
だがすぐに、マルグリットは憤慨するように頬を膨らませた。
「もぉ! そういうことじゃなくて! 似合うとか可愛いとか思わないんですか!?」
「知るか。そのくらいは自分で判断しろ」
「お兄様の意地悪!」
血のつながった兄妹ゆえの気安い会話……なのだろうか。
いつになく塩対応のジェラールに、マルグリットは憤慨したように走り去ってしまった。
「お嬢様っ……!」
ぽかんとしていたオルタンシアも、慌ててマルグリットの後を追おうと足を踏み出した。
だがその途端、その場に残っていたジェラールから制止するような声が飛ぶ。
「待て」
その声が耳に届いた途端、オルタンシアはぴたりと足を止めた。
いくらオルタンシアがマルグリットのお付きのメイドだとしても、次期公爵であるジェラールの言葉を無視することなどできはしないのだ。
ぎこちない動きでジェラールの方へと向き直るオルタンシアに、再びジェラールの視線が向けられる。
「……あれから、何か困ったことはないか」
叱責でも、忠告でもなく。
それどころか優しさすら滲ませた穏やかな声で、ジェラールはそう問いかけてきた。
「……!?」
まさかそんなことを聞かれるとは思わず、オルタンシアは驚いてしまう。
……ジェラールはオルタンシアのことを気遣ってくれている。
だが前回同じことを言われた時から、それほど時間は経っていないのだ。
「だ、大丈夫です……」
質問の意図を測りかねながらも、オルタンシアはそう口にする。
その答えに、ジェラールは少しだけ不満そうに眉根を寄せた。
「本当か」
「ほ、本当です!」
「無理はしていないか」
「していません!」
ジェラールから見て、オルタンシアはそんなに危なっかしく見えるのだろうか。
そう思うと、情けなさがこみ上げてくる。
「……マルグリットはあの通り我儘だ。お前が苦労することもあるだろう」
「はい……」
「少しでも困ったことがあれば俺に言え。遠慮は必要ない」
「あ、ありがとうございます……」
前と同じようにオルタンシアの肩に手を触れ、念押しするようにジェラールは囁いた。
「何かあったら俺に言え。いいな」
「…………はい」
小さな声でこくりと頷くと、ジェラールは食堂の方へと歩き去っていく。
その後ろ姿をぼぉっと見守っていたオルタンシアだったが、マルグリットが走っていったのが食堂とは反対方向だったことを思い出しはっとする。
(お嬢様を探さなきゃ!)
慌ててジェラールとは反対方向に足を進め、最初の角を曲がった途端、オルタンシアは慌てて足を止めた。
「お嬢様!」
角を曲がってすぐに廊下に、マルグリットが座り込んでいたのだ。
「お嬢様、どこか具合でも悪いのですか? すぐに医師を呼んで――」
「待って」
俯いていたマルグリットが顔を上げる。
その途端、オルタンシアはぞっとした。
彼女の表情には、確かな怒りとこちらに対する敵意が滲んでいたのだから。
「お兄様と、何を話していたのよ……!」
その言葉で、オルタンシアは察する。
(お嬢様、ここから見ていたんだ……)
先ほどのジェラールとのやりとりを、彼女はしっかり見ていたのだろう。
背筋を冷や汗が伝い、心臓が嫌な音を立てる。
「……ジェラール様は、私にマルグリットお嬢様をお支えするよう命じられました」
なんとかそう誤魔化すと、マルグリットは怪しむように表情を歪めた。
「…………本当に?」
こちらを疑うようなマルグリットの視線に、オルタンシアは必死にこくこくと頷く。
「そう…………」
納得していないような声色だったが、それでもマルグリットは立ち上がった。
「ねぇ、オルタンシア。……勘違いしちゃだめよ」
マルグリットの視線がこちらを向く。
その瞳に宿る冷たい炎に、オルタンシアは思わず息をのんだ。
「お兄様はお優しい方だけど、あなたはただの使用人なのよ。変な勘違いはせず、きちんと節度をわきまえなさい」
「……承知いたしました」
オルタンシアは震える声でそう返し、必死に頭を下げた。
……これ以上、マルグリットの顔を見ていられなかったのだ。
「……さて、それじゃあ食堂に向かいましょうか」
そう口にして、マルグリットはすたすたと歩き出す。
オルタンシアは嫌な汗をかきながらも、静かにその後を追う。
……どこかで、均衡が崩れ始めた。
そんな予感がしてならなかった。




