162 お兄様なのにお兄様じゃない
それから数日が過ぎた。
オルタンシアは相変わらずパメラと共に、授業から逃げ出すマルグリットを捜索したり、機嫌を損ねたマルグリットを宥めすかしたり、なにかと彼女のわがままに振り回される生活を送っていた。
今も歴史の授業から逃亡したマルグリットを、屋敷中を駆け回りながら探し回っている最中だ。
(お嬢様、どこへ行ったのかしら)
マルグリットはもはや逃亡のスペシャリストと言ってもよいほどであり、新米のオルタンシアはもちろん慣れたパメラであってもなかなか見つけられないのだ。
まさかこんなところにはいないだろうと思いつつ、美しく剪定された生垣の裏を覗いていると……不意に背後から声をかけられた。
「何をしている」
「ひゃあ! ……ジェラール様!?」
驚いて背後を振り返ったオルタンシアは、そこに立っていた人物に更に驚愕してしまった。
ジェラールがいつもように何を考えているのかわからないミステリアスな目をして、じっとこちらを見つめていたのだから。
「え、えっとですね、あの……」
オルタンシアはなんと説明すべきか迷ってしまった。
素直に「授業から逃げ出したマルグリットお嬢様の捜索中です」と答えるのは、彼にマルグリットの悪行を告げているようで気が進まなかったのだ。
「……マルグリットお嬢様が授業のお時間にお気づきでないようなので、お探ししている最中です」
オブラートに包みつつ、オルタンシアは愛想笑いを浮かべてそう口にする。
だがジェラールには、その言い方だけで正確に事実が伝わってしまったようだ。
「あいつはまた授業から逃げたのか」
「あぅ……」
項垂れるオルタンシアに、ジェラールは小さくため息をつく。
「お前が来る前からの常習犯だ。あいつにはヴェリテ公爵家の人間だという自覚が足りていない」
ジェラールの零した言葉に、オルタンシアは何も言えなかった。
……たとえ、自覚がなかったとしても。
彼女はれっきとしたヴェリテ公爵家の一員だ。
……オルタンシアのような偽物の公爵令嬢ではなく。
俯いて黙り込んだオルタンシアをどう思ったのか、ジェラールは自然と話題を変える。
「……あれから、ここでの生活に差し障りはないか」
気遣うようにこちらへ向けられた言葉に、オルタンシアは驚いて顔を上げる。
こちらを見下ろすジェラールの瞳には、確かに心配の色が宿っていた。
(ジェラール様……まだ私のことを心配してくださっているんだ)
そう意識しただけで、涙が出そうなほどに胸が熱くなる。
彼の優しさに触れるたびに、立場も忘れて縋りたくなってしまう。
だが、それは許されない。
この世界でそれが許される立場なのは、オルタンシアではなくマルグリットなのだから。
オルタンシアはこみ上げてくる激情をぐっと堪え、笑顔を浮かべてみせた。
「ジェラール様が孤児院を見せてくださったおかげで、気持ちが切り替えられました。……本当に、ありがとうございます」
感謝を述べるオルタンシアを、ジェラールは相変わらず何を考えているのかわからない表情で見つめている。
「……そうか」
ジェラールはぽつりとそう零した。
……これで、彼は納得してくれただろうか。
オルタンシアのことをただの使用人として、気にかけるようなこともなくなるのだろうか。
オルタンシアはそう予想していたが――。
「……俺には、まだお前が無理をしているように見える」
「ぇ……」
ジェラールの告げた言葉に、オルタンシアの心臓がどくりと音を立てた。
……見破られて、いた。
本当は完全に気持ちの切り替えができていないことを。
元の生活――オルタンシアにとっては元の世界への未練が断ちきれていないことも、ジェラールは察していたのだろう。
途端に表情が取り繕えなくなったオルタンシアに、ジェラールが一歩近づいてくる。
「お前は――」
彼が続きの言葉を口にしようとしたその時だった。
「っ……!」
突如、鋭い頭痛が走る。
それと同時に、頭の中で誰かの声が聞こえたような気がした。
誰かが、呼ぶような声が……。
思わずふらついたオルタンシアを、慌てたようにジェラールが支える。
「どうした。何があった」
「も、申し訳ございません……少し、頭痛と立ち眩みが……」
また彼に心配をかけてしまった。
頭痛もすぐに消えたので、オルタンシアは慌ててぶんぶんと両手を振って何事もないことをアピールする。
「もう大丈夫です! お手間を取らせてしまい申し訳ございません……」
「体調が悪いのなら休んでいろ。倒れる寸前の使用人を酷使するような体制を敷いているのなら是正する必要がある」
「いえ! 本当に! 一時的なものなので! 本当に大丈夫なんです!!」
なおも休ませようとするジェラールに、オルタンシアは必死に抗った。
入ったばかりで問題ばかり起こし、役に立たない使用人だと思われたくなかったのだ。
「……わかった」
ジェラールはそんなオルタンシアの態度に納得したのか、はたまた不毛なやり取りを続けるのが面倒になったのかはわからないが、やっと頷いてくれた。
「ただ、マルグリットを探すのなら屋敷内にしろ。あいつはなんだかんだで屋敷の中にいることが多い」
「……ありがとうございます、ジェラール様」
頭を下げるオルタンシアの横を、ジェラールはすっと通り過ぎようとする。
だが一度足を止め、彼はそっとオルタンシアの肩に手で触れた。
驚きに息を詰まらせるオルタンシアの耳元にそっと顔を近づけ、ジェラールは小声で囁いた。
「また何か困ったことがあったら俺に言え」
そう言い残し、ジェラールは固まるオルタンシアを置いて去っていった。
オルタンシアはしばらくその場で呆然とし……やがてずるずるとその場に座り込んでしまう。
「はぅ……」
そっと手で触れた頬は、はっきりとわかるほど火照っていた。
ジェラールは屋敷の中を探せと言っていたが、少し熱を覚まさないと誰かに会える気がしない。
(なんというか、お兄様なのにお兄様じゃない……)
この世界のジェラールはオルタンシアの兄ではないので、当たり前と言えば当たり前なのだが、義兄のジェラールと接する時とは異なる胸の高鳴りを覚えずにはいられなかった。
(私、変だよね……。たとえ血がつながってなくて、この世界では義兄妹ですらなくても、お兄様はお兄様なのに……)
今までとは少し違う、ジェラールに対する温かな感情。
初めて感じる気持ちに、オルタンシアは戸惑いを覚えずにはいられなかった。
……その姿を、他者に見られているとも知らずに。
「……なにあれ。どういうこと?」
オルタンシアが座り込んでいる場所の上方……隠れていた客室のバルコニーから一連のやり取りを見ていたマルグリットは、唖然としながらそう呟くのだった。