160 ジェラールの優しさ
オルタンシアが心配したような危険な植物や怪しげな取引が見つかることもなく、気が付けばあらかた植物園を見終わっていた。
(結局なんだったんだろう……?)
ジェラールは何をしにこの植物園へやって来たのだろうか。
ずっと付き従っていたオルタンシアにも、その目的はわからなかった。
(この世界のお兄様には花を愛でる心があるのかな……?)
ぼんやりとそんなことを考えていたからだろうか、オルタンシアは少しの間、ジェラールの行動に注意を払うのを忘れてしまっていた。
「ん!?」
気が付けば、ジェラールが植物園の入り口にある売店の店員と何か話しているのが目に入る。
明らかに、何かを購入している様子だ。
(ひぇー! またやらかしてしまった!)
基本的に貴族がこのように外出した際の店員との交渉は、付き従う従者の仕事だ。
それなのに、ぼけっとするあまり自身の役目を放棄してしまうなんて!
オルタンシアは慌ててジェラールの下へ駆け寄ったが、既に交渉は終わっていたようだった。
店員が笑顔で礼を言い、ジェラールに購入品を手渡していたのだから。
「あ、あの、ジェラール様……」
「もう用は済んだ」
(あわわわわ……)
ジェラールからすれば(商品を購入する)用事は済んだ、という意味だったのかもしれない。
だがオルタンシアには、役に立たないお前の出る幕はない、とでもいうように聞こえてしまったのだ。
(うぅ、何やってるんだろう、私……)
せっかく、ジェラールの役に立てる数少ない機会だったのに。
これでは自身の無能っぷりを晒しただけではないか。
オルタンシアは落ち込みながらも、せめてジェラールが何を買ったのか確かめようと陳列された商品に視線をやる。
(花のブローチだ……)
そこには、美しく精巧に作られた花のブローチがずらりと並べられていた。
ジェラール自身が身に着けるとは思えないので、マルグリットへの土産だろうか。
(マルグリットは愛されてるんだな……)
少しの切なさを覚えつつも、オルタンシアはせめてもとジェラールに申し出る。
「荷物は私が持ちます」
「必要ない」
ばっさりと切り捨てられ、オルタンシアの心はどん底にまで沈み込んだ。
(駄目だ。もう完全に役に立たない使用人だと思われてる……)
これはもう、屋敷へ戻ったら即座に解雇を言い渡されるのかもしれない。
あからさまに落ち込みながらとぼとぼと歩くオルタンシアの方を振り向き、ジェラールは告げる。
「次の場所へ行くぞ」
「はいっ!」
その一言で、オルタンシアは慌ててしゃきっと背筋を伸ばした。
これ以上ジェラールに醜態を見せたくない。
たとえ待っているのが解雇だとしても、今日一日は精一杯ジェラールに尽くさなくては。
いくつか視察先を回ったが、そのどれもが特に危険のない一般的な施設だった。
ジェラールはこの平和な場所にどんな脅威を見出しているのだろうか。
そんなことを考えているうちに、「次が最後の場所だ」と言われ、オルタンシアは気を引き締めた。
(最後の場所に行けば、今まで訪れた場所の意味が繋がる……のかなぁ?)
とりあえず何が起きても対応できるようにしようと、オルタンシアはそわそわと馬車の中から外の景色を眺める。
馬車は王宮近くの貴族街を離れ、オルタンシアが生まれ育った下町の方へと向かっているようだった。
(犯罪者の検挙とか? あわわ、私邪魔にならないかな……)
なんて冷や汗をかくオルタンシアをよそに、馬車は進んでいく。
やがてたどり着いたのは……オルタンシアにも覚えがある場所だった。
「ここって……」
――アルノン孤児院。
元の世界で母が亡くなってから公爵家に引き取られるまで、オルタンシアが暮らしていた場所だ。
馬車は確かに孤児院の前で止まり、ジェラールの目的地がここであるのは確実だった。
(ここってそんなに危ない場所だったの!?)
ジェラールがここにやって来たということは、そうなのだろうか。
嫌な想像が頭を駆け巡り、オルタンシアは蒼白になる。
そんなオルタンシアに、ジェラールはそっと声をかける。
「……中に入るか?」
「えっ!?」
急に声を掛けられ、オルタンシアはびくりと身を竦ませる。
そんなオルタンシアの反応に、ジェラールは不思議そうに目を瞬かせた。
「ここはお前の育った場所なのだろう」
「はい…………」
ジェラールの質問の意図を測りかねながらも、オルタンシアは小さく頷く。
オルタンシアをじっと見つめながら、ジェラールは続けた。
「ホームシックだと言っていただろう。会いに行けばいい」
「ぁ…………」
その時になってやっと、オルタンシアはジェラールの意図を察することができた。
ジェラールが一人で泣いていたオルタンシアを見つけたあの夜、オルタンシアがなんとか誤魔化そうと「ホームシックです」と口にしたのを、ジェラールは覚えていたのだ。
(もしかして、私を元気づけようとここへ連れてきてくださったの……?)
……あの時と、元の世界のジェラールがシャングリラの花をたくさん植えてくれた時と同じだ。
オルタンシアがとっさに口にした言葉を正面から受け止め、こうして行動に移してくれる。
元の世界のジェラールと今のジェラールには大きな違いがあるが、それでも冷たく見えて優しい部分は同じなのだ。
そう意識した途端、オルタンシアの目からはぽろりと涙が零れ落ちる。
オルタンシアの涙を目にしたジェラールは、珍しく動揺したように目を見開いた。
「……おい、なぜ泣く」
「も、申し訳ございません。嬉しくて……」
「嬉しい? まだ孤児院の中に入ってもいないのに何が嬉しい」
「えっと……ジェラール様が、そこまで私を気遣ってくださったのが嬉しいんです」
素直にそう口にすると、ジェラールは少しだけ気まずそうに視線を逸らす。
「……主家の者として、当然の義務だ」
ぶっきらぼうに発せられた言葉にも、オルタンシアは確かな温かさを感じ取ることができた。
(この世界でも、お兄様は優しい)
いち使用人のことをここまで考えてくれるなんて、きっと他の家では難しいだろう。
オルタンシアは涙を拭い、ジェラールに微笑んでみせた。
「ジェラール様のお気遣い、心より感謝いたします。ですが……孤児院には寄りません。このまま出発してください」
「何故だ。泣くほど帰りたかったのだろう」
「それは、えっと……」
きっとこの世界のオルタンシアは、ヴェリテ公爵家に就職するまで孤児院で育ったのだろう。
だが今のオルタンシアにはそのあたりの記憶がないのだ。
下手に中に入って誰かに会えば、すぐにぼろが出てしまいそうだった。
「……会ってしまえば、ますます気持ちが引寄せられてしまうような気がするんです。今の私はヴェリテ公爵家に奉公する使用人です。だから、もっと立派になるまで帰りません」
なんとかそう誤魔化すと、ジェラールはしばしの間なにか考えるようなそぶりを見せる。
だが、納得はしてくれたようだ。
「…………わかった」
そう言うと、ジェラールは御者に公爵邸へ戻るように指示をした。
その様子を見て、オルタンシアは安堵に胸をなでおろす。
(この世界のお兄様は元の世界のお兄様と違う部分は多いけど……根っこの部分は同じなのかもしれない)
元の世界のジェラールとの差異を見つけるたびに、もう大好きな義兄には会えないのだと悲しくなってしまう。
それでも、元の世界の彼と似た部分を見つけるたびに、こうして嬉しくなってしまうのも確かなのだ。
「ジェラール様は、お優しいのですね」
ぽつりとそう口にすると、ジェラールは驚いたように目を見開いた。
「……そんなことを言われたのは初めてだ」
返ってきた言葉に、今度はオルタンシアの方が目を丸くする。
泣いていた使用人のために植物園や育った場所である孤児院へ連れてきてくれるなど、優しさがなければできることではない。
「俺が言えたことではないが、お前は変わっているな」
そんなジェラールの言葉に、オルタンシアは微笑んだ。
自分でも数奇な人生を歩んでいる自覚はある。
変わっていると言えば、変わっているのかもしれない。
だが、それは――。
「同じですね、私たち」
「同じ……?」
ジェラールの問いかけに、少し逡巡しながらもオルタンシアは続けた。
「……ジェラール様も、貴族の中では変わっていらっしゃる御方だと思います。あっ、もちろん悪い意味ではなく良い意味でです! こんな風に使用人のことを気遣ってくれる御方は、他にいないと思います」
オルタンシアの言葉に、ジェラールは少し照れたように視線を逸らした。
そんな反応が嬉しくて、オルタンシアはついつい言ってしまう。
「ジェラール様が私のことを変わっているとお思いになるのでしたら……きっと、私たちは一緒なのだと思います」
普段だったら、こんな出過ぎたことは言えなかっただろう。
だがジェラールの優しさに触れ、オルタンシアの気分は高揚していた。
……元の世界のようにとは、いかないけれど。
少しでも、ジェラールとの繋がりができるような気がしたのだ。
「……やはり、お前は変わっている」
視線を逸らしたまま、ジェラールはそう呟く。
さすがに気分を害してしまったかと、オルタンシアは少しだけ慌てたが――。
「今のは、悪い意味ではなく良い意味でだ」
続いて発せられたジェラールの言葉に、オルタンシアの表情はぱぁっと輝いた。
オルタンシアの大好きな義兄であって、そうではない人。
いまだに彼とどう接すればいいのかはわからないが、少しだけ前進できたような気がしたのだ。