159 本来の距離
「来たか」
果たしてジェラールは、メイド長の言うとおりにオルタンシアのことを待っていた。
半信半疑でやって来たオルタンシアは、まさか本当にジェラールが自身を待っていたのに驚いてしまう。
「あの、ジェラール様……」
「なんだ」
「視察のお供とのことですが……私でよろしいのでしょうか……」
元の世界では父や兄の役に立ちたいと思い、いろいろ勉強していたが、それでも視察の役に立てるかと言ったら自信はない。
ましてや、今のオルタンシアは孤児院出身の新人使用人。
視察に連れて行ったところで、建設的な意見を出せるような人材ではないのだが――。
ぽつりと疑問を零すオルタンシアを、ジェラールはじっと見下ろしている。
ドキドキしながら答えを待つオルタンシアに、彼はゆっくりと口を開いた。
「いい機会だ。問題ない」
「…………?」
いったい何が「いい機会」なのかはわからないが、彼が問題ないと言ったからには本当に大丈夫なのだろう。
(私が知らないだけで、ヴェリテ公爵家の使用人たるもの王都の内情を知っておくべき……みたいな研修があるのかな)
きっとそうなのだろう。
でなければ、ジェラールがわざわざ視察にオルタンシアを連れて行く理由がない。
(さすがはヴェリテ公爵家……使用人教育もしっかりしてるんだ……)
オルタンシアはあらためて自分が育った家の方針に感心する。
「行くぞ」
「はいっ!」
さっさと馬車に乗り込むジェラールに遅れないように、オルタンシアも慌てて後に続いた。
「…………」
馬車の中は重苦しい沈黙に支配されていた。
今回ジェラールに同行するのはオルタンシア一人だけのようで、当然馬車に乗っているのもジェラールとオルタンシアの二人きりだ。
(う、気まずい……)
ジェラールは何も言わず、じっと窓の外の景色を見ているようだった。
オルタンシアはそんなジェラールの様子をちらちら伺いつつ、居心地の悪さに身を縮こませていた。
元の世界のジェラールも決して口数が多いわけではないが、少なくとも彼と打ち解けられた後はこんな風に気まずさを感じることはほとんどなかった。
一緒に馬車に乗っているときはたいていオルタンシアの方から彼に話しかけていたし、オルタンシアが話しかければジェラールは必ず応えてくれていた。
だが、今は――。
(私はただの使用人。元の世界みたいに、気軽に話しかけることもできないんだ……)
こんなに近くにいるのに、彼の存在を遠く感じてしまう。
まるで二人の間を見えない壁が隔てているかのようだった。
(でも、これが私とお兄様の本来の距離なんだよね……)
公爵家の跡継ぎとして生まれ、何もかもが高貴で優秀なジェラール。
場末の酒場の歌姫の娘として生まれ、孤児院で育った庶民のオルタンシア。
元の世界では運命のいたずらで兄妹として出会うことができたが、そうでなければこの距離が正しいのだ。
そう、正しい。そうわかってはいるのだが……こみ上げてくる寂しさを、無視はできなかった。
馬車は通りを進み、やがては目的地と思わしき場所へとたどり着いた。
だが馬車を降りた途端、オルタンシアは驚きに目を丸くする。
「王立植物園……?」
広大な自然公園と、その中に位置する巨大な温室。
植物の保護と研究を目的として建設された、王立植物園だ。
(ここで視察ってどういうこと? 実は怪しい研究がされていたり、危ない取引が行われていたりするってこと……?)
瞬時に嫌な妄想が脳裏を駆け巡り、オルタンシアは真っ青になった。
元の世界では邪神崇拝教団への潜入を行ったり、ジェラールの仕事が危険なものであることはオルタンシアも承知している。
だがなぜ今、自身がここに連れてこられたのかわからなかった。
情けないことに、今のオルタンシアは何の役にも立てそうにない。
運命が変わり、オルタンシアが女神の洗礼を受けたという事実も消えたからか、今のオルタンシアはまったく加護を使えなくなってしまったのだ。
とてもじゃないが、ジェラールの危険な任務に何か役に立てるとは思えなかった。
(もしかして危ない時は盾になれってことかな!? そうだよね、私にはそのくらいしかできそうにないし……)
そんなことを考えながら、オルタンシアは何も言わずに足を進めるジェラールの後に続くのだった。
ジェラールは心なしかいつもよりも緩いスピードで、庭園の小路を進んでいく。
意外なことに彼は目的に一直線に向かうのではなく、他の客と同じように様々な花を観賞できるコースを進んでいた。
(…………? この中に怪しい植物がないか確認してるのかな?)
せめて何かの役に立てないかと、オルタンシアもじっと美しく咲く花々を観察した。
だがどこを見ても、おかしな部分はないように見える。
いったいジェラールは何を探しているのだろうと考えながら花を眺めていると、不意に意外と傍にいたジェラールが口を開いた。
「……お前は」
「はっ、はいぃ!」
急に声を掛けられ、オルタンシアは素っ頓狂な声を上げて飛び上がってしまった。
だがそんなオルタンシアの奇行も意に介すことなく、ジェラールは続ける。
「花が好きなのか」
「…………え?」
思いもよらぬ質問に、オルタンシアはぽかんとしてしまう。
(花? 花が好きかって……私に聞いているの?)
ジェラールの視線はまっすぐにオルタンシアに注がれている。
少なくとも、今の質問を投げかけた相手がオルタンシアなのは間違いないだろう。
しかし何故、ジェラールはオルタンシアが花が好きかどうかなど気にするのだろうか。
そんな困惑が伝わったのか、ジェラールは更に補足してくれた。
「あの晩、花壇の前で泣いていただろう。人目を忍んで泣きたいだけなら、あの場所を選ぶのは不自然だ」
「ぁ…………」
夜に部屋を抜け出したときのことを言われているのだと悟り、オルタンシアはどきりとしてしまった。
なんとかうまい言い訳をしようとしたが、何も思いつかない。
切羽詰まったオルタンシアは、とりあえずこくこくと頷いておいた。
「そうか……」
ジェラールは納得したように頷くと、再び問いかけてくる。
「花の中では何を好んでいる」
まるで尋問のようなやり取りに焦りつつも、オルタンシアは奇妙な懐かしさを覚えていた。
(そういえば、公爵家に引き取られてすぐの時も同じようなことがあったっけ……)
まだジェラールとどう接していいのかわからなかったオルタンシアが勢いで発した「庭園で綺麗な花を見つけたんです」という言葉を真に受け、ジェラールは希少なシャングリラの花を花壇一杯に植えたのだ。
その時のことを思い出し、無意識のうちにオルタンシアはぽつりと呟いていた。
「シャングリラの花……」
元々は、ただ高価で珍しい花だとしか思っていなかった。
だがジェラールがオルタンシアのためにシャングリラの花を植えてくれて、彼と心を通わすことができて、シャングリラはオルタンシアにとって特別な花となったのだ。
「シャングリラ……? 目にする機会があったのか」
そんなジェラールの呟きが耳に入り、オルタンシアははっとした。
(しまったぁ! 今の私は孤児院出身の庶民で、シャングリラの花なんて見たことがあったらおかしいよね……!)
そもそもシャングリラの花を個人で所有しているヴェリテ公爵家が例外中の例外なのだ。
ここ王都でもヴェリテ公爵家の他では、王宮やこの植物園の特別温室にしか存在しないのだから。
「ず、図鑑で見たんです! 本物は見たことがないんですけど! すごく綺麗だなって!!」
オルタンシアは必死に誤魔化した。
ジェラールはそんなオルタンシアをじっと見下ろしていたが、やがてぽつりと呟いた。
「…………そうか」
それだけ言うと、ジェラールは再び歩き出す。
オルタンシアは質問の意図を測りかねつつも、遅れないように後を追うのだった。