158 ホームシック
「あのっ……ジェラール、様……?」
おそるおそる呼びかけると、ジェラールは眉をひそめる。
「……泣いていたのか」
今の自分の状況を思い出し、かっと頬が熱くなる。
……恥ずかしいところを見られてしまった。
せめて少しでも顔が見えないように俯き、オルタンシアはぼそぼそと謝罪する。
「お、お見苦しいところを申し訳ございません……」
ジェラールは何も言わない。
よほど不興を買ってしまったのかと、オルタンシアは冷や汗をかいたが――。
「何故泣いていた。嫌がらせでもされているのか」
「えっ……?」
ジェラールの口から出てきた予想外の言葉に、オルタンシアはぽかんとしてしまう。
そんなオルタンシアの反応をどう思ったのか、ますますジェラールの顔は険しくなっていく。
「使用人の労働環境を改善するのも主家の務めだ。入ったばかりの新人がそんな有り様では、劣悪な労働環境と言わざるを得ないだろう。ヴェリテ公爵家の恥だ」
「ち、違うんです……!」
何やらジェラールがとんでもない勘違いをしていることに気づき、オルタンシアは慌てた。
「これは、その……」
しかし、まさか「元の世界の私の義兄だったあなたに会いたくて」なんて言えるはずがない。
迷った末、オルタンシアは誤魔化すことにした。
「ホームシック、です……」
完全な嘘だと即座にジェラールに見抜かれてしまいそうなので、少しの真実を混ぜてオルタンシアはそう答えた。
ジェラールは少し思案した後、口を開く。
「……お前は孤児院出身だと聞いているが」
(しまった! そうだった!)
この世界のオルタンシアは、孤児院出身ということになっているのだった。
だが「やっぱり嘘でした」などと言えるはずがなく、このまま突き進むしかなかった。
「そ、そうなのですが……やっぱり、孤児院が私にとっての家なので……少しだけ、寂しくなってしまったんです」
おそるおそる、オルタンシアはそう口にする。
意外なことに、ジェラールはそれ以上追及してこなかった。
「…………そうか」
たった一言、彼はそれだけを口にした。
しばしの間、二人の間に沈黙が落ちる。
(叱責はされなかったけど……これ以上お兄様の手を煩わせない方がいいよね……)
そう判断したオルタンシアは立ち上がり、深々と頭を下げる。
「……夜分遅くに失礼いたしました。部屋に戻ります」
「あぁ」
元の世界のジェラールと変わらない端的な返事に、オルタンシアの胸はずきりと痛む。
これ以上ジェラールの傍にいるのがつらくて、オルタンシアは足早にその場を後にした。
だが――。
(あれ、ついてくる!?)
何故かジェラールは、オルタンシアの後をぴったりとついてくるのだ。
(これは監視? 私、監視されてるのかな……?)
これ以上オルタンシアがおかしな真似をしないか、疑っているのだろうか。
まぁ夜中に部屋を抜け出すというよろしくない行為をしたのは自分の方なので、オルタンシアは居心地の悪さを覚えながらそろそろと足を進めた。
なんとか建物の入り口までたどり着き、オルタンシアはそっと背後を振り返る。
ジェラールは相も変わらずオルタンシアのすぐ背後にいて、じっとこちらを見下ろしていた。
ここから先は使用人用の通路だ。さすがにジェラールもついてはこないだろう。
ジェラールがここまでついてきた真意はよくわからないが、無言で立ち去るのも気が引けてオルタンシアはそっと彼に声をかけた。
「それでは、えっと……おやすみなさい」
そう口にしてしまってから、はっと気づく。
(ひえぇぇぇ、やらかした! 今のお兄様にとって私は義妹じゃなくてただの使用人なのに! 「おやすみなさい」だなんて馴れ馴れしすぎだよね……!)
この後に起こるであろうジェラールの冷たい叱責を想像し、オルタンシアは震えあがった。
きっとパメラの冤罪事件の時のように、「使用人の分際で、ヴェリテ公爵家の人間に舐めた口を利くとはどういう了見だ」と糾弾されてしまうに違いない……!
がくがくと足を震わせるオルタンシアを、ジェラールはじっと見つめている。
そして、彼はゆっくりと口を開いた。
「……あぁ」
たったそれだけ言うと、彼はくるりと背を向け去っていく。
オルタンシアはぽかんと口を開けて、暗闇へと消えていくジェラールの背中を見守った。
(…………あれ、怒られなかった?)
ジェラールは何故か、オルタンシアを糾弾することなく去っていったのだ。
オルタンシアが知るジェラール像とはあまりにかけ離れていて、いったい何が起こったのかと混乱してしまう。
(もしかしたらこの世界のお兄様は……元の世界ほど厳しい性格じゃないのかな?)
公爵夫人との仲が険悪ではないことから考えても、元の世界のように心を凍らせてはいないのだろう。
この世界に来てから接したジェラールは一見元の世界と変わらないように見えたが、その実内面は大きく変わっているのかもしれない。
(そうだよね……。この世界で、お兄様は幸せなんだから)
彼が心を凍らせることもなく、仲の良い家族に囲まれて幸せに過ごしているのならなによりだ。
……そのはずなのに、元の世界のジェラールとの差異を感じ、また胸がずきりと痛んでしまう。
(……お兄様の幸せはここにある。だから私も……もう少し頑張ってみよう)
ジェラールと話せたことで、沈み切っていた心が少しだけ浮上したような気がした。
……ヴェリテ公爵家の皆のために。
そう自身に言い聞かせ、オルタンシアはパメラの眠る部屋へと戻るのだった。
◇◇◇
迎えた翌日、マルグリットは朝から大騒ぎだった。
「えー、やっぱりこっちのドレスにする! 似合うアクセサリーを探して!!」
本日、彼女はとある貴族の主催する音楽会に出席予定となっている。
事前に「このドレスにしましょう」と決めていたのだが、当日の朝になってどうやら気分が変わってしまったようだ。
オルタンシアとパメラは必死になってマルグリットを納得させる装いを仕上げ、なんとか送り出すことには成功した。
今日マルグリットに随行するのはパメラだ。
オルタンシアは屋敷に残り、他の仕事に従事することになる。
(さて、本日の仕事は……)
当のマルグリットがいないからといって、もちろん手は抜けない。
さっそく取り掛かろうとしていたその時――。
「オルタンシア!」
いきなりやって来たメイド長に名を呼ばれ、オルタンシアはびくりと肩を跳ねさせる。
(わ、何か怒られるようなことしちゃったかな。もしかして昨夜の出来事が伝わった……?)
ジェラールはあの場でオルタンシアを糾弾するようなことはなかったが、後でメイド長に何があったかを知らせ「使用人の教育はどうなっている」と間接的に叱責しようとしたのかもしれない。
そうだ。きっとそうに違いない。
オルタンシアはびくびくと身を縮こませ、メイド長の雷が落ちるのを待った。
だが、目の前までやって来た彼女の口から出てきたのは意外な言葉だった。
「本日のあなたの仕事は基本的な雑務のみで間違いないですね」
「は、はい……」
「それならば別の職務に従事していただきます。すぐに外出着に着替えなさい」
「えっ……?」
ぽかんとするオルタンシアに、メイド長は咳払いをしたのち……声を潜めて告げる。
「……ジェラール様が視察のお供にあなたをご指名です。くれぐれも失礼のないように随行し、ジェラール様の指示に従いなさい」
「えっ!?」
オルタンシアは驚いてメイド長を見上げた。
だが彼女の顔にも、隠し切れない困惑の表情が浮かんでいる。
(ど、どういうこと……?)
突然の出来事に混乱しつつも、オルタンシアは外出着に着換えジェラールの下へと急ぐのだった。