157 この世界のジェラール
大きなトラブルもなく、ヴェリテ公爵家での日々は過ぎていく。
新米の使用人としてマルグリットに仕えるようになったオルタンシアは、大きなミスなどは犯していない。
むしろ、「初めてなのに覚えがいい」と褒められるくらいだ。
(だって、ずっとパメラや皆がどんなふうに働いていたか見てきたんだもの)
傍から見れば順調すぎるくらいだろう。
だがその実オルタンシアは、日々胸の内で大きくなる虚無感を見ないふりはできなかった。
――「マルグリット、私の可愛い娘」
――「ふふ、マルグリットがそう言うのなら仕方ないわね」
――「マルグリットお嬢様を一人前の淑女に育て上げるのがわたくしの責務ですので」
――「お嬢様はちょっとわがままだけど、だからこそ皆に愛されているのかな~」
この屋敷の中心は、いつもマルグリットだ。
皆がマルグリットの奔放さに眉をひそめたり苦言を呈しつつも、それでも彼女を愛さずにはいられない。
オルタンシアがヴェリテ公爵家のためを考えるのなら、公爵家の中心である彼女に誠心誠意仕えるのが一番だ。
……そう、わかっているのに。
(どうして、こんなに苦しいんだろう……)
寂寥感や虚無感が、日々雪のように胸の内に降り積もっていく。
それだけじゃない。マルグリットが皆に可愛がられている場面を見るたびに、お門違いな思いを抱かずにはいられないのだ。
(そこは、私の場所だったのに)
これは、まぎれもない嫉妬だ。
そう気づいた時、オルタンシアは愕然とした。
(私……マルグリットに嫉妬してるの? ただの部外者でしかない私が……)
公爵とベルナデットが出会わなければ、公爵家には平穏で温かな幸せがあった。
公爵の血を引いていないオルタンシアが、養女となるのがそもそもおかしかったのだ。
これが、正しい世界。
皆が幸せになれる、理想の世界。
そう、何度も何度も自分に言い聞かせた。
それでも、身勝手な想いを抱いてしまう。
(帰りたい……)
帰りたい。オルタンシアが育ったあの公爵邸へ。
オルタンシアのことを「家族」だと言ってくれた、父と兄がいるあの場所へ。
(帰りたいよ……)
そう思うたびに、オルタンシアは絶望する。
父と兄の幸せよりも、自身のことを考えてしまう自分に。
そして……オルタンシアの帰りたかったあの世界は、もうどこにも存在しないことに。
(私は、もう帰れない)
オルタンシア自身の手で運命を変え、「オルタンシアの育ったヴェリテ公爵家」を消してしまったのだから。
それでも、痕跡を探さずにはいられないのだ。
……何か、元の世界に繋がる物がないかと。
パメラも熟睡する深夜過ぎ。
なかなか眠れずにいたオルタンシアは、むくりと起き上がった。
……そういえば元の世界で邪神崇拝教団に誘拐され、助けられた直後も、こんな風に眠れずにいたのだった。
その時のことを思い出したオルタンシアは、そっとベッドを抜け出て床に足をつける。
あの日の行動をなぞるように、オルタンシアの足は自然とある場所へと向かっていた。
幸いにも誰にも見つかることなく、建物の外へと出ることができた。
心許ない明かりを頼りに、オルタンシアは一歩一歩足を進めていく。
あの、シャングリラの花が見たかった。
オルタンシアが公爵家に引き取られた時はほんの少ししかなかった花は、ジェラールが「オルタンシアはシャングリラの花が好き」と勘違いしたため花壇を埋め尽くすほどの数に増やされたのだ。
そんなジェラールの少し見当はずれな気遣いを受け、オルタンシアは心からシャングリラの花が大好きになった。
いわばあの花は、オルタンシアとジェラールを繋げてくれたと言っても過言ではないのだから。
(私が公爵家の養女になっていないこの世界でも、ほんの少しならシャングリラの花があるはず……)
そう信じ、オルタンシアは花壇へと足を勧める。
もう少し、あと少し。
だが目的の場所にたどり着いたオルタンシアの目に入ったのは――。
「え…………?」
記憶にある花壇は、一種類の花で埋められていた。
だがそれは、シャングリラの花ではない。
アナベルの淑女教育をきっちりと受けていたオルタンシアには、すぐにそれが何の花なのかわかった。
(これ、マーガレットだ……)
いったいなぜこの花が……と考え、オルタンシアはすぐに気づいた。
(マーガレット――マルグリットと同じ名前の花……)
つまりこれは、公爵令嬢マルグリットのための花壇なのだ。
最後の希望が断たれたような気がして、オルタンシアはぺたんとその場に座り込んでしまう。
――「ここが、お前の居場所だ」
悪夢に怯えるオルタンシアを抱き上げ、ジェラールはそう言ってくれた。
だが、それもすべて消えてしまったのだ。
ジェラールがオルタンシアのために植えてくれたシャングリラの花も。
あの時くれた言葉も。
……二人で過ごした時間も、記憶も、何もかも。
「う…………」
運命を変えて、世界が変わってから、ずっと我慢してきた。
だが、もう堪えきれない。
「お兄様っ……!」
大好きな義兄を呼びながら、オルタンシアは堰を切ったかのようにぼろぼろと涙をこぼした。
会いたい。ジェラールに会いたくてたまらない。
また不器用に頭を撫でてほしい。
オルタンシアは大事な家族だと、ここにいてもいいのだと言ってほしい。
そんな願いが胸の奥から湧き上がって来て、悲しくてたまらなくなる。
零れ落ちる涙と嗚咽は止まらない。
今まで我慢していたすべてを吐き出すかのように、オルタンシアは泣き続けた。
……だから、気づかなかった。
背後から聞こえてくる、こちらに近づいてくる足音に。
「何をしている」
その声が耳に届いた時、オルタンシアは一瞬それが夢か現実なのかわからなかった。
弾かれたように振り返った先にいたのは……。
「お、兄様……」
今にも消えそうなかすれた声で、オルタンシアはそう呟く。
小さな灯りを手に、こちらを見下ろしていたのは……まさにオルタンシアが会いたくてやまなかった人物――ジェラールだったのだ。
記憶の中の光景と、今の状況が重なる。
あの時と同じように、ジェラールは迎えに来てくれたのだろうか。
そんな幻想に取りつかれ、オルタンシアはもう一度義兄を呼ぼうとしたが――。
「お前は……先日マルグリットが連れてきた使用人か」
その言葉に、一瞬でオルタンシアの思考は凍り付いた。
(あぁ、そうだ)
彼はこの世界のジェラールなのだ。
かつてオルタンシアにシャングリラの花を見せてくれた義兄ではない。
なぜ彼がここに来たのかはわからないが、何を勘違いしていたのだろう。
今の彼にとってオルタンシアは妹ではない。本当の妹であるマルグリットに仕える、いち使用人でしかないのだ。
オルタンシアは慌てて涙を拭い、そっと頷く。
夜中に勝手に抜け出したことを咎められるのだろう。
最悪、即刻解雇もあり得る。
オルタンシアはびくびくしながらジェラールの判断を待っていたが――。
「!?」
なんとジェラールは、座り込んでいたオルタンシアと視線を合わせるように屈みこんだのだ。
オルタンシアが幼い頃、確かに義兄のジェラールは何度かそうしてくれていた。
だが、彼が使用人相手にそんな態度を取っている場面は見たことがなく、オルタンシアは混乱してしまった。