154 一番、お兄様の幸せを奪っていたのは
結局、温室でふてくされていたマルグリットが見つかったのは晩餐にほど近い時間になってからだった。
二人で何とか不機嫌なマルグリットを宥めすかし、食堂へと連れて行く。
ぶすっとしていたマルグリットだったが、食堂へ足を踏み入れた途端ぱっと表情を輝かせた。
「お父様!」
彼女が駆け寄った先には、この屋敷の主――ヴェリテ公爵その人が既に席についていたのだ。
元の世界と変わらないその姿に、オルタンシアの心臓がどくりと大きく音を立てる。
(お父様だ……)
彼は柔和な笑みを浮かべて、駆け寄ってくるマルグリットに声をかけた。
「私の可愛い娘、今日も君は元気いっぱいだね」
「だってお父様に会えたんですもの! 今日はお仕事で不在だと聞いていたのにどうして?」
「珍しく仕事が早く片付いたんだよ。だったら大切な家族と晩餐を共にするのは当然だろう」
「やったぁ! お父様大好き!」
ぎゅっと父に抱き着くマルグリットの姿に、オルタンシアの胸は締め付けられる。
(今のお父様にとっての「娘」は、私じゃなくマルグリット……)
二人の間にぎこちなさなどは見受けられない。
……もう、オルタンシアにもわかっていた。
マルグリットはオルタンシアとは違う、ヴェリテ公爵夫妻の「本当の」娘なのだ。
血のつながりもないのに引き取られたオルタンシアはしょせん偽物の公爵令嬢。
……これが、あるべき正しい形なのだ。
「まぁ、マルグリット。はしたないわ。あなたも年頃なのだからもっと慎みを持たなくては」
きゃっきゃとはしゃぐマルグリットの様子に、公爵の隣の席についていた公爵夫人が眉を顰める。
だがそんな夫人にも、公爵は鷹揚に笑った。
「いいじゃないか、カトリーヌ。ここにいるのはヴェリテ家の者ばかりだ。マルグリットだってたまには子どものようにはしゃぎたくなるものだろう」
「まったく、あなたはいつも甘すぎます」
「娘の可愛さゆえにそうなってしまうのさ」
ヴェリテ公爵夫妻のやりとりからは、不仲な様子は伝わってこない。
むしろ、円満だと言っても差支えはないだろう。
部屋の隅に控えながら、オルタンシアはすっと手足の先が冷たくなるような嫌な感覚を味わっていた。
(ここは、元の世界とは全然違う……)
オルタンシアは縋るように、公爵夫妻の向かいの席に着くジェラールにちらりと視線をやった。
彼はオルタンシアもよく知る何を考えているのかわからない無表情で、両親と妹のやりとりを眺めているようだった。
いつもは不安になるようなその無表情が、今のオルタンシアには有難かった。
「さて、いつまでもおしゃべりしていてはせっかくの料理が冷めてしまう。マルグリットも席に着きなさい。そろそろ晩餐を頂くとしよう」
「はぁい」
父にそう言われ、マルグリットは素直にジェラールの隣の席に着く。
すぐに始まった晩餐の場での主役も、もちろんマルグリットだった。
「お父様聞いて! 今度シャルモン伯爵が主催する音楽会に出席することになったのよ! 伯爵夫人はお洒落な方だって有名じゃない? だから新しいドレスが欲しいの!」
「まぁマルグリット。この前仕立てたばかりじゃない」
「もぉお母様! そのドレスはこの前の夜会で着たばかりなのよ? 同じドレスを着まわしてるなんて噂されたら恥ずかしいわ!」
「ふふ、マルグリットはお洒落さんだね。……どのブランドをご所望かな?」
「もちろんソルシエールよ! 私だけに似合うドレスを特注するの!」
「わかった、そのように手配しよう」
「やったぁ! ありがとうお父様!」
嬉しそうにはしゃぐマルグリットを愛し気に見つめる公爵は、今度はジェラールの方へ視線を向けた。
「ジェラール、最近の仕事の方はどうだい?」
「特段大きな問題は起こっていません。情勢も安定しています」
「ねぇお兄様、黒鷲団は他の騎士団みたいに公開演習はないの? 私のお友達が見たいって言ってるのよ」
「そのようなものはない」
「えー!? お兄様の権限で何とかならないの?」
「マグリット、ジェラールを困らせるのではないわ。ジェラールも、立派なお仕事に従事しているのは誇らしいけど大きな怪我など負わないかどうか心配ね……」
「そのようなヘマはしません」
ジェラールの口数は少ないが、家族に話を振られればきちんと応対していた。
……公爵とも、夫人とも、マルグリットとも。
良好な関係なのが伺える。
その様子を部屋の隅から眺めるオルタンシアは、もう見ないふりはできなかった。
……まるで絵に描いたような、理想の家族像が目の前にある。
ジェラールや父の幸せはここにあったのだ。
(……お兄様の幸せを見つけたいなんて、どれだけおこがましかったんだろう)
まるで、心の柔い部分をガラスの破片でぐちゃぐちゃにされたような気分だった。
……本当は、元の世界でだってこんな幸せはあったはずなのだ。
それを、壊したのは。
ジェラールや父から幸福を奪った元凶となっていたのは――。
(私とママの存在なんだ……)
目の前の幸せな光景が象徴する通り、ヴェリテ公爵夫妻の仲がこじれない道もあったのだ。
……ヴェリテ公爵と、酒場の歌姫ベルナデットが出会いさえしなければ。
オルタンシアみたいな偽物の公爵令嬢を迎え入れなくても、皆に愛される本物の公爵令嬢が生まれていたのだ。
オルタンシアは誰よりも、ジェラールに幸せになってほしいと願っていた。
だが――。
(一番、お兄様の幸せを奪っていたのが私なんだ……)
そう現実を突きつけられ、オルタンシアは頭の中が真っ白になってしまった。