152 ヴェリテ公爵夫人
(え、お母様?)
果たしてそれはいったい、誰のことなのだろうか。
そんなオルタンシアの疑問に答えるように、静かに扉を叩く音が耳に届く。
「失礼いたします。奥様がいらっしゃいました」
顔をのぞかせた使用人の言葉に、マルグリットはぱっと表情を輝かせる。
「お母様が来てくださったわ! すぐにあなたのことを紹介するわね!」
嬉しそうなマルグリットとは対照的に、オルタンシアは冷や汗をかいていた。
元の世界では、ジェラールの母が亡くなってからずっと「ヴェリテ公爵夫人」の座は不在となっていた。
となると、マルグリットの言う「お母様」とは何者なのか。
息をのむオルタンシアの視線の先で、ゆっくりと扉が開かれる。
そこから姿を現したのは、一人の女性だった。
「っ……!」
その瞬間、オルタンシアは口から心臓が飛び出そうなくらいに驚いた。
オルタンシアは彼女のことを知っていた。
といっても、直接面識があるわけではない。
……ヴェリテ公爵領の、領主館の一角。
そこに、一枚の肖像画が飾ってあるのだ。
描かれているのは美しい女性――オルタンシアが公爵家に引き取られる前に亡くなった、公爵夫人だ。
(そんな、どうして……)
今、オルタンシアの目の前に現れたのは、まさにその肖像画に描かれていた女性だった。
「お母様!」
やって来た女性に、マルグリットは嬉しそうに立ち上がる。
「聞いて、お母様! この子、私のメイド募集の話を聞いて来てくれたみたいなの! 孤児院で育って、身寄りもなくて、すごく可哀そうな子なのよ! うちで雇って――」
「マルグリット、そうやって一方的にまくし立てるのは淑女らしくないといつも言っているでしょう」
諫めるような言葉だったが、その声色は優しい響きを帯びていた。
女性はマルグリットのすぐ隣に腰を下ろす。
彼女の視線がこちらを向き、オルタンシアの鼓動が早鐘を打つ。
「さて……あなたがマルグリットの言っていたメイド志望の子で間違いはないかしら」
「は、はい……」
気圧されるようにして、オルタンシアは頷く。
彼女はその涼やかな瞳にオルタンシアを映したまま、静かに口を開いた。
「わたくしはヴェリテ公爵家当主が妻、カトリーヌと申します。マルグリットが何を言ったのかは存じませんが、使用人の雇用については私の管理下にあります。まだ雇用すると決まったわけではないので、誤解のなきよう」
最初の言葉があまりに衝撃的で、続く内容はほとんど頭に入らなかった。
(ヴェリテ公爵夫人……お兄様のお母様が、生きてらっしゃるの……?)
あまりに元の世界と違いすぎて、うまく目の前の現実を飲み込むことができない。
これも、運命が大きく変わった影響なのだろうか。
公爵夫人は冷静に、オルタンシアの素性についての質問を口にした。
それに一つ一つ答えつつも、オルタンシアの頭の中ではずっと同じことがぐるぐると巡っていた。
(この世界では公爵夫人が亡くなっていない……。お父様とお母様が恋人同士にならなかった、この世界では……)
まるで底なし沼にはまってしまったかのように、振り払おうとしてもそのことばかり考えてしまう。
そんなオルタンシアの意識を現実に戻したのは、マルグリットの嬉しそうな声だった。
「ね、お母様! 私オルタンシアが気に入ったの! 雇ってあげて? お願い!」
精一杯母親に甘えるようにしてねだるマルグリットに、公爵夫人カトリーヌは少しだけ困ったように眉根を寄せた。
次に彼女の視線が向いたのは、ずっと黙って成り行きを見守っていたジェラールの方だった。
「そうね……ジェラールはどう思ったかしら」
その反応に、オルタンシアはどきりとしてしまう。
元の世界では、すでに亡くなっていたとはいえジェラールと彼の母親の関係は最悪だった。
公爵夫人は一方的な思い込みで幼いジェラールにつらく当たり、そのせいで彼は成人した今でも心を凍らせ続けているのだ。
オルタンシアはドキドキしながらジェラールの反応を伺う。
彼は動揺することもなくオルタンシアをちらりと見たかと思うと、今度は公爵夫人の方へ視線を移した。
「……特段、問題はないかと。問題行動を起こすようには見えず、何よりもマルグリットが気に入っているのなら傍に置いてやってもいいのでは」
ジェラールは、あっさりとそう言ってのけた。
何のわだかまりも、確執も感じさせないごく普通の会話だった。
そんなジェラールの態度に、オルタンシアは衝撃を受けていた。
(もしかしてこの世界では、お兄様と公爵夫人の仲は良好なの……?)
公爵夫人が生きていて、ジェラールとも折り合いが悪いわけではない。
……まるで、理想の世界のようだ。
「そうね、わたくしもそう思っていたわ。……オルタンシア」
公爵夫人の視線がこちらを向き、オルタンシアは無意識に背筋を正す。
「あなたを正式に使用人として雇用いたします。ヴェリテ公爵家に仕える者としての自覚を持ち、その名を汚すことのないように努めなさい」
「は、はいっ……! ありがとうございます……!」
オルタンシアは慌てて頭を下げた。
……正式にヴェリテ公爵家の使用人として働くことが決まってしまった。
ほんの少し前まで、オルタンシアが「公爵令嬢」として過ごしていたこの場所で。
(これで、よかったのかな……)
とりあえず衣食住には困らなさそうなのは有難いのだが、オルタンシアはそう思わずにはいられなかった。
オルタンシアがよく知っているようで、何もかもが異なっている世界。
果たしてこの場所でうまくやっていけるのかどうか、オルタンシアには自信がなかった。
すぐにメイド長が呼ばれ、オルタンシアは彼女に続いて退室する。
「ふふ、後でいっぱいお話しましょ!」
別れ際に、マルグリットは嬉しそうにそう言った。
彼女はまさに天真爛漫を形にしたような少女だ。
一目で愛されて育ったのだということが伺える。
(元の世界では、お父様と公爵夫人はうまくいっていなかった。公爵夫人はお兄様につらくあたって、お兄様は心を凍らせてしまった。でも……この世界はそうじゃないみたい)
先ほどの公爵夫人とジェラールのやり取り、それに二人に甘えるマルグリットを見れば、家族仲がうまくいっているのは一目瞭然だ。
(ほんの少しだけ、運命を変えたつもりだった。それなのに、こんなに大きく変わってしまうなんて……)
女神は忠告してくれていた。
オルタンシアだって、父を救えたことに後悔はない。
だが……まるで自分一人だけが世界からはじき出されたような、喪失感と寂寥感を覚えずにはいられなかったのだ。