150 ヴェリテ公爵令嬢
「はぁ、はぁ……やっと……」
公爵邸へと続く見慣れた通りにたどり着き、オルタンシアは一息つく。
あれから大通りに出て、すぐに王宮の方角はわかった。
だがどうやらオルタンシアが倒れていたのは公爵邸がある貴族街からは遠く離れた場所で、ここに来るのに思ったよりも時間と体力を消費してしまった。
それでも慣れた場所にたどり着き、オルタンシアは安心したと同時にあることに気づいた。
(あっ、あの銅像は……!)
通りに建っている銅像は、オルタンシアが幼い頃にはなかったものだ。
確かオルタンシアが領地から戻ってくるほんの少し前にできたと聞いている。
ということは、今は《時間跳躍》で跳んだ過去ではなく、きちんと現在に戻ってこれたのだろう。
嬉しくなって、オルタンシアは足の疲れも忘れて駆け出した。
すぐに、大きな公爵邸の姿が見えてくる。
正門の前には、部外者の侵入を防ぐ門番が二人、立っている。
いつもオルタンシアが馬車で外出する際には、「いってらっしゃいませ」と笑顔で挨拶してくれるのを覚えている。
オルタンシアは二人に駆け寄り、声をかける。
「あのっ、中に入れてもらってもいいですか?」
何故オルタンシアがたった一人で公爵邸の外にいたのかは説明が難しいが、いつもの門番なのだ。
オルタンシアは中に入れてもらえると信じて疑わなかった。
だが、返ってきたのは肯定の言葉ではなく――。
「……何者だ。まずは名を名乗れ」
「え……?」
まるで不審者を見るような目つきで見られ、オルタンシアは動揺してしまう。
(ど、どういうこと……? もしかしたらいつもと違う服を着てるから私だって気づかれてない?)
「オ、オルタンシアです!」
「オルタンシア……?」
慌てて名乗ると、二人は互いに顔を見合わせる。
「オルタンシア……聞いているか?」
「いや、そのような名前の来客があるとは聞いていない」
(まさか、私が公爵令嬢のオルタンシアだって思われてない!?)
確かに父や兄と比べると、オルタンシアにはなんというか「貴人オーラ」みたいなものが欠けている自覚はある。
普段は衣装で誤魔化せているが、もともとは下町の酒場の娘。
美しいドレスを脱いでしまえば、「公爵令嬢」に見えないのも仕方ないのかもしれない。
「えっと、その……ヴェリテ公爵の娘のオルタンシアです」
オルタンシアは意を決して、そう主張してみた。
だが、返ってきたのは――。
「……何をわけのわからないことを言っている。公爵令嬢はそんな名ではない」
「えっ……?」
いったい、何を言っているのだろう。
予想外の言葉に、オルタンシアは呆然としてしまう。
(「オルタンシア」が公爵令嬢の娘の名前じゃないって、どういうこと……?)
いくら何でも、ヴェリテ公爵家に仕える者がオルタンシアの名を知らないはずがないのだ。
混乱し、何も言えないオルタンシアに、二人の門番は互いに顔を見合わせた。
「どうする?」
「公爵令嬢を騙る詐欺にしてはあまりにお粗末だが……念のため治安隊に引き渡すか」
「ま、待って! 違うんです!!」
門番の口から出てきた言葉にオルタンシアは慌てた。
目の前の二人は、完全にオルタンシアを不審者として扱っている。
(どうしてこうなったの? いったい何が起こってるの……?)
その時、焦るオルタンシアの耳に聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「何をしている」
その声が聞こえた途端、オルタンシアはぱっと顔を上げた。
だって、その声を間違えるはずがない。
顔を上げた視線の先には……オルタンシアの想像通りの人物がいた。
(お兄様……!)
大好きな義兄――ジェラールが、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
その姿を見て、オルタンシアは一気に安堵した。
ジェラールならばすぐにオルタンシアを中に入れてくれるだろう。
だが、オルタンシアがいつものように呼びかけようとしたその時――。
「おに――」
「ねぇお兄様、いったいどうしたのかしら」
オルタンシアの声は、別の声によってかき消されてしまった。
信じられない思いで、オルタンシアは声の方へ視線を向ける。
ぴょこり、と小動物のような動きで、ジェラールの背に隠れていた一人の少女が姿を現す。
ジェラールと同じ銀の髪に、宝石のような蒼の瞳を持つ美しい少女だ。
年のころは、おそらくオルタンシアと同じくらいだろう。
彼女は普段オルタンシアが身に着けているような、品の良いドレスを身に纏っている。
……オルタンシアには、まったく見覚えのない人物だった。
(誰……? それに今、「お兄様」って……)
わけのわからない状況に呆然とするオルタンシアを尻目に、少女がどんどんとこちらへ近づいてくる。
「ねぇ、何があったの? この子はだあれ?」
少女に声をかけられ、二人の門番はぱっと背筋を正す。
そして、オルタンシアに対する時とは打って変わって丁寧な態度で口を開いた。
「失礼いたしました、マルグリットお嬢様」
「この者は公爵邸に押し入ろうとした不審人物です。名を尋ねたところ、『公爵令嬢のオルタンシア』などとわけのわからないことを言っており……」
「ふぅん、変ねぇ。この屋敷の公爵令嬢は私一人なのに」
少女の口にした言葉に、オルタンシアは足元ががらがらと崩れていくような絶望を味わっていた。
最後の望みをかけてジェラールへ視線を向けたが……彼は、オルタンシアの方を見ていなかった。
彼の視線は、「公爵令嬢は私一人なのに」と言った少女に向けられている。
……まるで、いつもジェラールがオルタンシアにそうしていたように。
(まさか、これって……)
さすがのオルタンシアも、じわじわと理解せずにはいられなかった。
今ここでの「ヴェリテ公爵令嬢」はオルタンシアではない。「マルグリットお嬢様」と呼ばれている目の前の少女なのだ。
どうしてこんなわけのわからないことになっているのか……。
幸か不幸か、オルタンシアには心当たりがあった。
――『オルタンシア。《時間干渉》は他の加護とは違い、とても危険な力です。安易な干渉は人や世界の運命、更には存在自体を揺らがしかねません。当然、あなたにかかる負担も大きい』
――『あなたなら悪用する危険はないと信じていますが……どうか気を付けて。運命というものは、一つの事象が変われば大きく変わっていくものです』
女神の忠告が脳裏をよぎる。
オルタンシアは《時間干渉》を使い、父と母が出会う運命を変えた。
父をデュカスの間の手から守るためだったが、結果的に……もっと大きく運命が変わってしまったのかもしれない。
(私が《時間干渉》を使ったせいで、元の世界が大きく変わっちゃったの……?)
今の公爵令嬢だという少女と、彼女を見つめるジェラールの姿に大きく心を揺さぶられながら、オルタンシアはそう悟るほかなかった。