149 眠りと目覚め
『シア、どうした!?』
「わ、かんな……」
慌てて声をかけてきたチロルにそう返しながら、オルタンシアははっとした。
(嘘、まさか……)
嫌な予感に、全身からざっと血の気が引いた。
――『オルタンシア。《時間干渉》は他の加護とは違い、とても危険な力です。安易な干渉は人や世界の運命、更には存在自体を揺らがしかねません』
女神様は、きちんと忠告してくれていた。
――『シアは二人の子どもなんだぞ。もし過去を変えてシアの父親と母親が仲良くなる機会がなくなったら……シアはどうなるんだ』
チロルだって、そう言っていた。
オルタンシアだって危険な賭けであることはわかっていた。
それでも、覚悟を決めてここに来たのだ。
計画通り父とデュカスの因縁を断つことには成功したが……その代償を払う時がやって来たのだろう。
(私……お父様の本当の子どもだったのかな)
オルタンシアが父と母の実の子であれば、二人の出会いがなくなれば当然オルタンシアの存在も消える。
そう理解したとき、不思議と焦りはなかった。
重い体を引きずるようにして、再びフロアを見下ろす。
母は上機嫌にステージで歌っており、父はそんな母を遠巻きに眺めていた。
そんな二人の姿を満足げに眺め、オルタンシアはずりずりと体を引きずりながら階段を下りる。
『シア! どこに行くんだ?』
「とりあえず、外に……。その後は……」
オルタンシアの存在が消えてしまうのならば……その前に、最後に公爵邸に行きたい。
そんな思いに駆られるようにして、オルタンシアは外へと続く扉を開く。
(今の私にとって、あの場所が「家」なんだ……)
だから、最後に帰りたかったのかもしれない。
この時代の公爵邸に行っても、ジェラールやパメラ、アナベルなどの馴染みの人物には会えないかもしれない。
それでも、目指さずにはいられなかった。
既にすっかりと日は暮れ、裏通りは宵闇に包まれている。
一歩、また一歩と重い体を叱咤して、オルタンシアは公爵邸の方角へと向かう。
だが、すぐに限界が来てしまった。
「あっ……」
足がもつれたかと思うと、前のめりに転んでしまう。
どさりと地面に体が投げ出され、立ち上がろうとしたがもう力が入らなかった。
(ここまでか……)
顔を上げたが、遥か彼方の公爵邸は見えなかった。
『しっかりしろ! シア!!』
チロルは慌てたようにオルタンシアの周りをぐるぐるとまわっている。
そんなチロルを呼び、オルタンシアは懇願した。
「ねぇ、チロル……聞いてくれる?」
『聞く! 何でも聞くからしっかりするんだ!!』
「あのね、私がいなくなったら……お兄様とお父様のことをよろしくね」
『何言ってるんだシア! そんなこと言うな!』
必死にオルタンシアの頬をぺろぺろと舐めるチロルに、そっと手を伸ばす。
『諦めるな! まだ何か方法が――』
そんなチロルの声も、だんだんと遠くなっていく。
ふわふわの毛並みを撫でながら、オルタンシアはゆっくりと目を閉じた。
(お兄様、どうか幸せになってくださいね……)
父を救うことはできた。
できればあの優しい義兄が幸せになるのを傍で見届けたかったが……その願いは叶わないようだ。
『シア! 駄目だ! シア!!』
必死に叫ぶチロルの声も、だんだんと小さくなっていく。
まるで眠りに落ちるように、オルタンシアの意識はすっと闇に飲まれていった。
◇◇◇
ヒヒン! と馬のいななきが耳に入り、オルタンシアははっと目を覚ます。
途端に耳に飛び込んでくるのは、馬車が石畳を行き交う音や、人のざわめき声だ。
(ここって……外?)
はて、自分は何故どこかの通りにいるのだろうか。
確か意識を失う前は――。
「っ……!」
そこでやっと今の状況を思い出したオルタンシアは、がばりと身を起こす。
(私、まだ消えてない!?)
過去に干渉し、父と母の出会いを変えた。
その結果、二人が恋人同士になることはなく、二人の子どもであるオルタンシアの存在も消えたのかと思ったが……。
(私がまだ存在できているってことは、私はお父様の本当の子どもじゃなかったってこと……?)
あまり、ショックはなかった。
元々疑ってはいたのだ。父が初めてオルタンシアを孤児院に迎えに来てくれた時から、自分は彼の本当の子どもなのだろうか……と。
たとえ血がつながっていなかったとしても、父がオルタンシアのことを家族として迎え入れ、大切にしてくれていることには変わらない。
オルタンシアも、父と兄のことを誰よりも大事に思っている。
だから……いいのだ。
(でも、ということはお父様を守れたうえで私も消えなかったってことでいいんだよね!?)
もしかしなくても、一番最良の結果を掴み取ることができたのだろうか。
だとしたら嬉しいのだが――。
「ここ……どこだろう」
どうやらオルタンシアは、どこかの通り建物と建物の間の狭い空間に倒れていたようだ。
よいしょ……と建物の隙間から抜け出し、付近を見渡す。
道の形状や雰囲気からして、おそらくは王都のどこかなのだろう。
だが意識を失う前までいた、あの酒場の近くではなかった。
「そもそも、今はいつなの……?」
過去に跳んだままなのか、現在に戻って来れたのか。
それすらもわからないのだ。
それに……。
「私、こんな服着てないよね……?」
オルタンシアが身に着けているのは、まるで町娘が着るような質素な衣服だった。
公爵邸の衣裳部屋の中にこのような服が入っているのは見たことがないし、着替えた覚えもない。
なんとなく気味の悪さを覚えつつも、オルタンシアは足を踏み出した。
(とにかく、公爵邸に帰ろう!)
大きな通りに出れば王宮の方角もわかるだろうし、王宮の場所がわかれば公爵邸の場所もわかる。
「……そうだ! チロル!!」
一緒にいたあの子はどこに行ったのだろう。
オルタンシアは何度か呼びかけてみたが、チロルからの応答が帰ってくることはなかった。
(ここにはいないのかな……? 公爵邸に戻って、それでも見つからなかったらあらためて探しに行かなきゃ)
何はともあれ、オルタンシア一人でうろうろするよりも皆の協力を仰いだ方が確実だ。
不安な気持ちを落ち着けるように息を吸い、オルタンシアは歩き出した。