148 天使が助けてくれたみたい
……元の時間軸では、彼は大商会を牛耳る商人だった。
幅広い分野に手を出し、金の流れを手中に収め、王宮の深部にすら出入りを許されている。
吹けば飛ぶような弱小貴族よりも、よほど盤石な地位を築いているのだ。
オルタンシアが生まれる前の彼がどれほどの地位や財を気づいているのかはわからないが、この言い方だと既に幅広い影響力を持っているのだろう。
「私の一存で、こんなちんけな酒場を取り潰すことなど簡単だ。地代を上げるか? 酒の流通を止めるか? どうすればいいと思う?」
「っ……!」
今までは笑みを取り繕っていたベルナデットも、あからさまな脅しに表情を歪める。
「……お戯れが過ぎますわ、デュカスさん」
「すべては君次第だ、ベルナデット。……聡い君なら、どうすべきかわかるだろう?」
オルタンシアは会話をよく聞くために《聞き耳》の加護を使っていたことを後悔した。
それほどまでに、デュカスの粘着質な声は不快極まりなかったのだ。
だがその時、視界の端で動く人影が見えた。
(お父様……!)
オルタンシアの父が、静かに立ち上がったのだ。
(ここで、お父様はデュカスを止めたんだ……!)
彼はデュカスとの間に割って入り、ベルナデットを助けるつもりだろう。
公爵である父なら、方々に働きかけデュカスの横暴を止めることもできる。
ベルナデットは自身を救ってくれた上に、身分を隠して酒場に来ていた父に興味を持ち、二人の交際が始まるのだ。
(でも、変えなきゃ)
父とデュカスの間に因縁を生んではいけない。
「よし、これで……!」
オルタンシアはふぅふぅ言いながら、用意していた物を持ち上げた。
この酒場で用いられている、小さな樽に取っ手がついたタイプのジョッキだ。
この高さから直撃すれば、ただではすまないだろう。
「チロル、行くよ!」
『おう!』
チロルと協力して位置を調整し、オルタンシアは一思いにジョッキを階下へと落とした。
(当たれっ……!)
オルタンシアの手を離れて落下したジョッキは……狙い通りデュカスの後頭部を直撃した。
「へぶぅ!」
情けない声を上げ、デュカスは前のめりにテーブルへと突っ伏すようにして気絶する。
「え…………誰!?」
突然の出来事にぽかんとしていたベルナデットは、弾かれたようにジョッキの落ちてきた頭上を見上げる。
……一瞬、オルタンシアは母と目が合ったような気がした。
だがベルナデットにはオルタンシアの姿は見えていない。
誰もいない踊り場を見つめ、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「あらあら……誰もいない……?」
「天罰だろ! 馬鹿なことばっかりいうから罰が当たったんだよ!」
「歌姫ベルナデットの幸運に乾杯!」
「「乾杯」」
酔っぱらった客たちは、この不思議な出来事を見世物の一つとしかとらえていないようだ。
ベルナデットはデュカスの頭を直撃したジョッキを拾い上げ、しげしげと眺めている。
「本当に不思議ね……ふふ」
彼女はもう一度頭上を見上げ、ふわりと微笑む。
「まるで、天使が助けてくれたみたい」
たとえ自身の存在が母には見えていなくとも、その言葉にオルタンシアの胸は熱くなる。
(私、ママの助けになれたんだ……)
たったそれだけで、こうして過去に来てよかったと思えた。
「よぉし、今日は気分がいいからもう一曲歌っちゃうわ!」
「待ってたよベルナデット!」
「最高だ!!」
再びステージへと向かう歌姫を、酒場の客たちは囃し立てている。
一方立ち上がりかけていた父も、そんな彼女の様子を見て自身の助けは不要だったと悟ったようだ。
「ふぅ……どうやら私の出る幕はなかったようだね」
「まったく、いつ閣下が飛び出すのかとひやひやしましたよ」
「あんな状況を放っておくわけにもいかないだろう。もっとも、歌姫ベルナデットには私などよりもよほど強力な守り手がいたようだがね。だが、あのデュカスという男の横暴は見過ごせないな。こんなことを繰り返されては王都の経済と文化の発展にも悪影響が及びかねない」
「えぇ、我々の方でも手を打っておくべきかと」
「あぁ、戻ったらさっそく対処するか」
父とお付きの者の小声の会話も、《聞き耳》であればばっちり聞こえてしまう。
(よかった。デュカスの方もお父様がなんとかしてくれそう)
デュカスの行動を邪魔したことでまた恨みを買わないか心配ではあるが、ベルナデットが絡まないならデュカスの方もそこまで怨みを募らせたりはしないだろう。
そう信じ、オルタンシアは安堵に胸をなでおろす。
(……できた。私、二人の出会いを変えることができたんだ)
父と母の出会いは阻止され、父とデュカスの因縁もなくなった。
これで、過去に跳んだ目的は達成できたのだが――。
「っ……!」
急にがくん、と体中から力が抜け、オルタンシアはその場に倒れこんでしまう。