147 懐かしい歌声
客の歓声に笑顔で手を振りながら、歌姫ベルナデットはステージへと進んでいく。
オルタンシアもその懐かしい姿に見惚れていたが、はっと我に返り父とデュカスの様子を確認した。
デュカスはまるで獲物を狙うような目つきで、一心にベルナデットに視線を注いでいる。
その執念深さを感じさせる視線に、オルタンシアは思わずぞくりと背筋が冷たくなった。
(怖っ……。ママ、あの人になびかなくて正解だよ……)
もしかしたらオルタンシアの父親があの人だったかもしれない。
一瞬でもそう考えてしまい、オルタンシアは心底嫌な気分になった。
(それよりお父様は……)
慌てて思考を切り替え、今度は父の様子を伺う。
父は興味深そうに、ベルナデットの姿を目で追っていた。
(たぶん、この時はまだ二人に面識はないんだよね)
今夜、デュカスに絡まれたベルナデットを父が救うという出来事が起こる。
それをきっかけに二人は親密になり、やがて恋人関係になるのだろう。
(私が、それを変える)
何度も何度も考え下した決断のはずなのに、今になってオルタンシアは自分がとんでもないことをしようとしているのでは、と怖くなってくる。
……今ならまだ、引き返せる。
(……なに弱気になってるの! 今日起こる出来事を止めないと、お父様がデュカスに恨まれちゃうんだから!)
そうなってしまってはもう遅い。
あの陰湿な男はどれだけ時間が経っても、どんな手を使ってでも父を殺そうとするのだから。
(ここで原因を断たないと、未来でどれだけあがいても無駄になる)
震える手をぎゅっと握り締め、オルタンシアは何度も何度も自分にそう言い聞かせる。
階下では、ステージにたどり着いたベルナデットがにこやかに一礼したところだった。
会場が静まり、皆の視線が歌姫へと吸い寄せられる。
ベルナデットはそんな状況に怖気づくこともなく、悠々と歌い始めた。
(ママの歌だ……)
オルタンシアが覚えているのと同じ、美しく澄んだ歌声だった。
(懐かしいな、ママ……)
オルタンシアがうまく眠れない夜、母は決まって歌を歌ってくれた。
「ごめんね、子守歌はよく知らないのよ」と笑う彼女は、それこそ様々な歌を歌ってくれたものだ。
酒場で好まれる甘い恋の歌、船乗りや商人が景気づけに歌う歌、昔やって来た旅の一座に教えてもらったという異国の歌……。
母が聞かせてくれたたくさんの歌は、オルタンシアの記憶の中に息づいている。
だがこうして久しぶりに本物の歌声を聞くと、懐かしさで胸がいっぱいになってしまう。
『シアの母親、すごいな』
「……うん。そうなんだ」
チロルがぽつりと漏らした声に、オルタンシアは嬉しくなる。
オルタンシアは母のことが大好きだ。
彼女はオルタンシアが幼いころに亡くなってしまったが、それでもたくさん大切なものを残してくれた。
それが、今もオルタンシアを支えてくれているのだから。
一曲、二曲とベルナデットの歌は続いていく。
オルタンシアも懐かしいその歌声に、うっとりと聞き惚れていた。
やがて最後の曲が終わり、彼女が一礼すると、フロアは拍手と歓声に包まれた。
(いよいよだ……!)
この後、歌姫は各テーブルを周り客と交流する。
デュカスが動くとしたら、その時だろう。
(デュカスのテーブルはあそこね……)
彼の視線は相も変わらず、執拗にベルナデットを追っているようだった。
「ベルナデット、今日も最高だったよ!」
「王国一の歌姫だ!」
「ふふ、ありがとう」
賞賛を贈る客たちに、ベルナデットは愛想よく応えていく。
中には言い寄ろうとする者もいるが、するりと交わしていく様は見事だった。
(わぁお、さすがはママ……勉強になるな)
感心しながらオルタンシアが見守る中、ベルナデットはいよいよデュカスのいるテーブルへと差し掛かった。
「ルマールさん、また来てくださったのね! あらモーリス、仕事の調子はどう? アドルフもいるじゃない! この前奥さんと市場で会ったのよ」
馴染みの客一人一人に声をかけ、愛らしい笑顔を振りまいていく。
彼女が皆に愛されるのは歌声と容姿だけではなく、こういった地道な交流も大きな要因なのだろう。
そのせいで、デュカスのような厄介な輩に目をつけられてしまったのかもしれないが……。
「ベルナデット」
焦れたようにデュカスが声をかけ、ベルナデットの体が一瞬硬直する。
ずっと見ていたオルタンシアにはすぐにわかった。
いつも奔放な彼女にしては珍しく……緊張しているのだと。
「まぁデュカスさん! お会いできて嬉しいわ!」
だがそんなそぶりは欠片も見せずに、ベルナデットは蠱惑的な笑みを浮かべてデュカスの方を振り向いた。
その態度を見る限り、彼とはこれが初対面ではないのだろう。
「今夜の舞台はどうでした? 楽しんでいただけたかしら」
「あぁ、とても。……できればこの後は、二人きりで楽しみたいところだがね」
近づいてきたベルナデットの腰を、デュカスが抱き寄せる。
「あらあら、魅力的なお誘いですけどごめんあそばせ。今夜のアンコールは受け付けていないのよ」
ベルナデットはやんわりとデュカスの腕を外そうとしたが、デュカスはますます彼女の腰を引き寄せた。
「いつまでそうやって焦らすつもりだ? 駆け引きはもう十分だろう」
「あらやだ、そこが楽しいんじゃない」
「……いい加減にしろ、ベルナデット。私が誰なのかわかっているのか?」
デュカスの声が一段と低くなり、その場の空気がぴりついていくのがわかった。