146 父と母の出会った日に
いつもの吸い込まれるような感覚に耐えながら、オルタンシアは必死に願う。
(どうか、私をママとお父様が出会った日に連れて行って……!)
二人が出会ったのは、オルタンシアが生まれるよりも前のことだ。
そこまで時間を飛び越えるのは初めてなので、ぐるぐるともみくちゃにされるような感覚もなかなか消えてくれない。
(うっ、さすがにきつい……)
ぎゅっと目を閉じ、ひたすらに我慢していると……やがて唐突に放り出された。
「うひゃあ!」
オルタンシアの体は、べしゃっと地面に投げ出される。
「いたたた……」
『シア、大丈夫か!?』
「うん、なんとか……。えっと、ここは……」
なんとか立ち上がり、顔を上げ……オルタンシアは驚愕した。
オルタンシアが立っているのは、建物が密集した裏通り。
目の前にある建物は、すこし古びた酒場だった。
「ここって……」
『シア、知ってるのか?』
「うん……」
オルタンシアは動揺しながらも頷く。
確かに、この場所を知っている。
だってここは――。
(ママが亡くなるまで、一緒に住んでいた場所だから……)
オルタンシアが生まれた時すでに、母はこの酒場に住み込みで働いていた。
母が亡くなり孤児院へ行くまで、オルタンシアもここで暮らしていたのだ。
懐かしい……というよりも奇妙な感覚だった。
オルタンシアが孤児院に行ったのはほんの幼い頃で、成長してからこの場所を訪れる機会は今までなかったのだから。
(そっか。この場所で、ママとお父様は出会ったんだ……)
きっと今の時間軸は、オルタンシアが生まれる前。
ヴェリテ公爵と酒場の歌姫であるベルナデットが出会う日なのだろう。
(私が、二人の出会いを変える……)
そう考えるだけで、体が震えそうになる。
だが、やっとここまで来たのだ。怖気づいている場合ではない。
空を見上げれば、ちょうど夕日が空を茜色に染めている。
日が落ちれば酒場の営業が始まり、夜の舞台が幕を開ける。
それまでに、ある程度準備をしておかなくては。
「行こうチロル。こっちに裏口があるの!」
『おう!』
感傷に浸るのもそこそこに、オルタンシアは駆け出した。
「わぁ、お客さんがいっぱい……」
多くの客でごった返すフロアを眺めながら、オルタンシアは感嘆の声を漏らす。
営業の始まった酒場には、多くの客が詰め掛けていた。
現在オルタンシアがいるのは、屋根裏へと続く踊り場だ。
樽や木箱などが雑多に積み重なったこの場所は客が入り込むことはなく、フロア全体を見下ろすことができる。
(昔も、ここからママのお仕事を眺めてたっけ……)
酒場のスタッフが出してくれたジュースをちびちびと飲みながら、ステージで歌う母の姿を見ていたのを覚えている。
そのまま過去の思い出にふけりそうになったが、オルタンシアは慌てて思考を切り替える。
(だめだめ、私は昔を懐かしみに来たんじゃない。お父様を救いに来たんだから!)
おそらく今夜、デュカスに絡まれる母を父が助け、二人は運命的な出会いを果たす。
オルタンシアの使命は、その出会いを変えることだ。
(デュカスがママに絡んだら、お父様よりも先に何とかすればいいんだよね。……二人はもう来てるのかな)
目を皿のようにして、オルタンシアは酒場の客一人一人の顔を確認していく。
すぐに、目的の人物は見つかった。
(いた! デュカスだ……!)
意地の悪い笑みを浮かべた、蛇のように執念深い目をした男。
前に《時間跳躍》で見た時よりも若いが、はっきりデュカスだとわかった。
「……チロル。あそこにデュカスがいるのがわかる?」
『わかるぞ。前にシアの父親と揉めてた奴で間違いない』
「見失わないように、しばらくあの人から目を離さないで欲しいの」
『任せろ!』
デュカスの監視をチロルに任せ、オルタンシアは今度は父の姿を探す。
(お父様……どこにいるんだろう)
今夜、父がここに来るのは間違いないのだ。
オルタンシアは少し焦りを覚えながらも、必死に父の姿を探す。
すると、酒場の入り口の扉が開き新たな客がやって来た。
「こちらの酒場です! ここの歌姫が本当にもう素晴らしくて……」
「ほぉ、それは楽しみだな」
聞き覚えのある声に、オルタンシアの体がぴくりと反応する。
すぐに、やって来た客の姿が目に入る。
(お父様だ……!)
その場の雰囲気に溶け込むような、普段よりもずっと質素な装いをしているがすぐにわかった。
あれはオルタンシアの父だ。
今よりも若々しい父の姿に、オルタンシアの胸は熱くなる。
(若い頃のお父様って、こんな感じだったんだ……)
表情豊かで、この酒場の雑多な雰囲気にもよく馴染んでいる。
だが現在よりも若い父は、少しだけジェラールに似ているような気がした。
(それはそうか。二人は親子だもんね)
表情豊かで口数の多い父と、無表情で寡黙な兄。
普段はあまり似ているとは思わないのだが、こうしてみると確かに似通った点が多い。
(お父様とお兄様は似ている。私は……)
どこか、二人に似ている部分はあるだろうか。
これから行うことを考えるとむしろ血縁関係がない方が望ましいのだが、それでもどこか寂しさを覚えずにはいられなかった。
一緒にいるのはお付きの者だろうか。
二人は戸惑うこともなく、空いている席に腰を下ろし何やら雑談をしているようだ。
(お父様とデュカスは揃った。後はママが来れば……)
既にフロアは満席近い。
そろそろ、今夜の歌姫のショーが始まるはずだ。
そんなオルタンシアの予想通り、歌姫の登場が告げられる。
「皆さま、大変お待たせいたしました。これより歌姫ベルナデットの登場です!」
(ママ……!)
オルタンシアの心臓がどくりと大きな音を立てる。
すぐに、フロアを横切るようにして一人の女性が姿を現した。
波打つような豊かな髪に、宮廷の貴族たちとは趣の違ったドレス。
颯爽と歩くその姿に、誰もが視線を奪われずにはいられない。
(ママ、ママだ……!)
それは、オルタンシアの記憶にある通りの母親の姿だった。