145 皆の幸せのために
翌日、既にオルタンシアは心を決めていた。
(今夜、時間跳躍でお父様とママの出会いを変えに行く。……もしかしたら、こんな風にここで過ごすのは最後になるかもしれない)
だからこそ、できる限り心残りがないようにしたかった。
「おはようございますお嬢様! 本日のスケジュールは……」
「アナベルのレッスンでしょ。ロベールの授業でしょ。それが終わったらテリエ卿のところに行って、それから――」
「わぁ、いつになく過密ですね……。お嬢様はお倒れになったばかりですし、無理はなさらない方が……」
心配そうにそう言ってくれたパメラに、オルタンシアは微笑む。
「大丈夫よ、パメラ。それから……パメラと一緒にゆっくりお茶をする時間も欲しいな、と思ってるの。用意してくれる?」
今日一日でできることには限界がある。
だがそれでも、世話になっている皆に会っておきたかった。
「お嬢様……!」
パメラは感極まったように目を潤ませている。
もっと話していたいが、今日はやることが多いのだ。
オルタンシアは意を決して立ち上がると、パメラに声をかけ部屋の外へと飛び出した。
「それじゃあ、行ってくるね!」
「はぁ、さすがに疲れたな……」
なんとか予定していたスケジュールを終え、部屋に戻って来た時にはへとへとに疲れ果てていた。
久々のテリエ卿のトレーニングであちこち筋肉痛になった上に、「皆に会えるのも今日が最後かもしれない……」と思うと涙を耐えるのも大変だった。
(でも、皆と思い出が作れた)
これでもう心残りはない……といえば大嘘になる。
だが、心の準備は整った。
(……行こう)
オルタンシアは気を落ち着けるように息を吸い、立ち上がる。
その様子を見て、チロルが足元へ寄ってきた。
『シア、本当にやるつもりなのか?』
そんなチロルの頭を撫でながら、オルタンシアは頷いた。
「……うん、もう決めたの。やっぱり、どうしてもお父様を助けたいから」
そう言うと、チロルは苦悩するように小さな唸り声を上げた。
『うー、シアがそう決めたのなら仕方ない、けど……』
オルタンシアの手に頭をこすりつけるチロルが、ぽつりと呟く。
『僕は、嫌だぞ。シアがいなくなるなんて……』
オルタンシアはそっとチロルを抱き上げ、頬ずりをした。
「……ありがとう、チロル。でも、私だってお父様がいなくなるのは嫌なの」
父とオルタンシアが両方助かる可能性だってあるのだ。
だから、最初から父を諦めるよりもその可能性に賭けてみたかった。
「大丈夫、きっと大丈夫だよ……」
チロルに……もしくは自分自身に言い聞かせるように、オルタンシアはそう呟く。
「…………よし!」
決意が鈍る前に《時間跳躍》を使おうと、オルタンシアは意識を集中させる。
だがその時――。
「っ……!」
コンコン、と部屋の扉を叩く音が聞こえたのだ。
「は、はーい!」
反射的に扉を開けたオルタンシアは、その向こうに立っていた人物に驚いてしまった。
「お兄様!?」
ジェラールはいつも通り感情が読めない瞳で、じっとオルタンシアを見下ろしている。
「入るぞ」
「あっはい、どうぞ……」
彼とは晩餐の場で会ったばかりだ。
その時は特におかしな様子もなかったのだが、何かあったのだろうか。
室内へと足を踏み入れたジェラールは、後ろ手に扉を閉める。
そわそわと出方を伺うオルタンシアの前で、ジェラールの瞳がゆっくりとこちらを向く。
「あの、お兄様……何か……?」
おずおずと声をかけると、ジェラールはそっと口を開いた。
「今日一日、お前の様子がおかしかったと何人かから報告があった」
「っ……!」
オルタンシアとしてはいつも通りにしていたつもりだったのだが、あまりうまく取り繕えてはいなかったようだ。
「え、えへへ……そうかな……」
オルタンシアは思わず視線をそらしてしまう。
兄の何もかもを見透かすような瞳に見つめられると、うまく隠し事ができるきがしないのだ。
ジェラールは背を屈め、まっすぐにオルタンシアと視線を合わせる。
オルタンシアも今にも泣きだしそうな顔で、彼を見つめ返した。
「また、何か悩んでいるのか」
その声色の優しさに、本当に泣きたくなってしまう。
「……ねぇ、お兄様」
気が付けば、オルタンシアの口からはぽつりと言葉が零れ落ちていた。
「もし、私が急にいなくなったら、お兄様は――」
「は?」
ガッ、と強く肩を掴まれ、オルタンシアはびくりと身震いをする。
真正面では、先ほどまでは穏やかにこちらの様子を伺っていたジェラールが据わった目をしていた。
「今、なんと言った?」
「た、例えばの話です! 全然そんな予定はないんで大丈夫です!」
なんとかそう誤魔化すと、オルタンシアの肩を掴む力が弱まる。
「……いきなり何の話だ」
「本当に例えばの話で……そう! 心理テストです! だから深く考えないで答えてください!」
ジェラールはなおも不審そうな顔をしていたが、黙って聞いてくれているようだ。
「ある日突然、お兄様の前から私が消えちゃうんです。そうしたら、お兄様は……」
考えるのが怖い。聞くのが怖い。
だが……たとえこの世界からオルタンシアが消えるとしても、彼の心の片隅にでも残りたかった。
「私のこと、覚えていてくれますか……?」
その言葉に、ジェラールは驚いたように目を見開く。
かと思えば、彼は大きくため息をついた。
(うっ、くだらないって呆れられたかな……)
さすがに誤魔化し方が下手過ぎただろうか。
オルタンシアは後悔し始めたが――。
「忘れるわけがないだろう」
話を逸らしたり、馬鹿にしたりすることもなく。
まっすぐにオルタンシアの目を見つめ、ジェラールはそう答えたのだ。
「お前みたいな者を、忘れられるわけがない」
「えっと……それってどういう意味ですか?」
「真面目な性格かと思えば、時々今のようにわけのわからないことを言う」
「うっ……」
わけのわからないことを言っている自覚は十分にあったので、オルタンシアは反論できなかった。
「ただの心理テストだということは理解したが、そもそもお前が突然いなくなることなどありえない。……昔のように、どこぞの輩がお前を誘拐でもしようものなら必ず相応の報いを受けさせる」
「わぁ……」
かつて邪神崇拝教団に誘拐され、ジェラールが助けに来てくれた際の凄惨な光景を思い出し、オルタンシアは表情をひきつらせた。
「それは、ちょっと……あんまり頻繁に見たい光景じゃないですね……」
「ならば馬鹿なことを考えるな」
言い聞かせるように、ジェラールはそう口にする。
「不確かな未来を必要以上に案じても仕方がない。それに、お前がどこに消えようとも……」
そっとオルタンシアの肩に置いた手に力を込め、ジェラールは告げた。
「必ず迎えに行く」
そのたった一言の言葉に、オルタンシアの鼓動が大きく高鳴る。
ジェラールの言葉には、確かな重みがあった。
だって邪神崇拝教団のアジトにも、魔神の領域にさえオルタンシアのために来てくれたのだから。
「……ありがとうございます、お兄様」
ジェラールの言葉で、抱いていた不安が、恐怖が消えていく。
彼との繋がりが確かなものだと実感できたから、もう大丈夫だ。
「お兄様のおかげで元気が出ました! さすがはお兄様ですね!」
「……それで、心理テストの答えは」
「えっと……次に会った時にお伝えします!」
ある意味、願掛けだ。
また、ジェラールに会えるように……と。
そんな願いを込めて、オルタンシアは微笑む。
オルタンシアが纏う雰囲気が明るくなったのにジェラールも気づいたのだろう。
「……お前はたまに、どうでもいいことをごちゃごちゃと考えすぎる傾向がある。悩む暇があるのならさっさと寝た方がいい」
「ふふ、そうですね。今夜は早く寝ることにします」
オルタンシアの言葉を受け、ジェラールはくるりと踵を返し扉に手をかけた。
「おやすみなさい、お兄様」
そっと声をかけると、彼が振り返る。
「……おやすみ」
それだけ言うと、ジェラールはさっさと部屋を出て行った。
その背中が見えなくなるまで、オルタンシアはじっと兄の姿を見つめ続けていた。
(……ありがとうございます、お兄様。私、絶対にお父様を救ってお兄様を幸せにしてみせますから)
意を決して、ジェラールが出て行った扉に背を向ける。
『シア、行くのか……?』
今までじっと様子を見守っていたチロルが、心配そうに足元にじゃれついてきた。
「うん、やるよ」
皆が幸せに暮らせる未来のために、オルタンシアはやらなければならないのだ。
「お父様とママの出会いを変えて……運命を変えてみせる!」
自身を鼓舞するようにそう口にし、オルタンシアは《時間跳躍》を発動させた。