142 やっぱり、お兄様は優しい
「……食事を抜いて倒れたそうだな」
オルタンシアが倒れたその夜、部屋を訪れたのは義兄のジェラールだった。
ここ最近《時間跳躍》の負担で食欲がなかったこともあり、倒れた原因は貧血だろうと結論付けられた。
本当の原因がバレなかったのは幸いだが、ジェラールにこうして問い詰められるとどきりとしてしまう。
「……最近、お茶会やパーティーに出ることが多くて少し太っちゃったんです。今までのドレスが入らなくなったら困るから、痩せようと思って――」
とりあえず考えておいた言い訳を並べると、ジェラールは呆れたようにため息をつく。
「愚者の考えだな」
鋭い一言が心に突き刺さる。
ジェラールが無理なダイエットのことを言っているのはわかるのだが、まるでオルタンシアが《時間跳躍》を使って父の死を回避しようとしていることが否定されたような気がして、心が痛んだ。
「倒れるまで食事を抜くのは異常だ。それよりもメニューの変更と運動量を増やすことを考えろ」
「はい……」
ジェラールの的確な指摘に、オルタンシアはしゅんとしてしまった。
偽の言い訳にジェラールが真摯に向き合ってくれていることが、申し訳なく思えてしまう。
「それに……」
何か言いかけ、ジェラールは言葉を止める。
思わず顔を上げれば、彼はじっとこちらを見つめていた。
「お兄様……?」
問いかけると、ジェラールはゆっくりと手を伸ばす。
まるで羽根のようにそっと、彼はオルタンシアの頬に触れた。
「太ったというのは勘違いだ。むしろ今のお前は、以前よりもやつれて見える」
確かな観察眼に、オルタンシアの鼓動が大きく跳ねた。
「そ、そうでしょうか……」
「前に持ち上げた時も体重の増加は感じられなかった。お前は思い込みで健康を害しているに過ぎない」
(すごい、そんなところまでチェックしてるんだ……)
ジェラールの器用さに、オルタンシアは感心してしまった。
オルタンシアはよくチロルを抱っこするが、パメラに「最近ちょっとチロルちゃんが太った気がするんです」と言われるまで気づかないこともよくある。
それに比べれば、常に様々なことに注意を払っているジェラールはさすがだろう。
「どうしても痩せたいというのなら、医師や厨房の担当者に相談してからにしろ。自己判断で食事を抜くな」
「はい……」
「以前騎士団に稽古をつけてもらったことがあるだろう。運動量を増やしたいのなら基礎トレーニングをつけてもらえ」
「はい……」
ごもっともな意見の数々に、オルタンシアは頷くことしかできなかった。
《時間跳躍》の副作用に負けないためにも、騎士団に稽古をつけてもらい体力を培うのはいいだろう。
とりあえず動けるくらいに回復したら、あの副団長に会いに行こうとオルタンシアは決めた。
「……お前が、倒れたと聞いた時」
ぽつり、とジェラールが呟く。
そちらへ視線を向け、オルタンシアは驚いた。
想像よりもずっと、悲痛な表情をジェラールは浮かべていたのだ。
「また、お前を失うのかと思った。……あまり心配をかけさせるな」
そう言って、ジェラールはオルタンシアの頭を撫でる。
その手つきは、泣きたくなるほど優しかった。
(……心配、かけちゃったんだ)
オルタンシアは己の浅慮を恥じた。
父の死を防ぐのは絶対だが、こんな風に周囲に心配をかけさせないようなやり方もあったかもしれない。
「ごめんなさい、お兄様……」
「悪いと思っているなら今後は気をつけろ。お前に何かあれば、俺だけでなくヴェリテ公爵家全体が大騒ぎになるのはわかっているだろう」
「はい……」
ジェラール以前にも、アナベルには思いっきり叱られてしまった。
パメラは「私がついていながら……!」と大泣きするし、他の者にもたくさん迷惑をかけてしまった。
いくら父を守るためとはいえ、オルタンシアは無茶をしてしまったことを大いに反省した。
「駄目ですね、私……」
落ち込みながらそう零すと、頭を撫でるジェラールの手が止まる。
そのまま彼の指先は側頭部を滑るようにオルタンシアの耳をかすめ、頬にたどり着いた。
「お兄様……?」
視線を向ければ、存外真剣な顔でこちらを見つめているジェラールと目が合う。
「お前は、そのままでいろ」
向けられた言葉に、オルタンシアは目を見開く。
「ぇ……?」
「太っただの痩せたいだの些細なことを気にしすぎだ。見るに堪えない場合は周囲が手を打つ。お前が気にして無理をする必要はない」
「でも……」
「俺の言うことが信用できないか」
「そ、そんなことはありません!」
「なら、絶対に独断で無茶なことはするな。わかったな」
念を押すようにそう言われ、オルタンシアは頷く。
(やっぱり、お兄様は優しい)
ジェラールの心を覆う氷は溶け始め、本来彼が持っていた優しさが芽を出し始めているのだろう。
オルタンシアは、その芽を摘みたくはない。
だからこそ、何としてでも彼には幸せになってもらわなければ。
(《時間跳躍》を使いすぎずに、お父様を救う方法……きっと何かあるはず)
やみくもに加護を濫用しても、きっとうまくいかない。
何か、決定的に運命を変えるような手を打たなければ。
ジェラールに頭を撫でられながら、オルタンシアはそう決意した。




