137 出会うことがなければ
「うっ、はぁ……」
酷い眩暈と吐き気に襲われながら、オルタンシアの意識は浮上した。
だんだんと目が慣れてきて、周囲の景色が見えてくる。
ここは先ほどまでいた王宮ではなく、公爵邸の中のオルタンシアの私室だ。
「私、帰ってきたの……?」
ぼんやりとそう呟くと、傍らに身を寄せていたチロルがぺろぺろとオルタンシアの頬を舐めた。
『大丈夫か、シア? 僕がわかるか?』
「うん、大丈夫だよチロル。でも……」
とんでもない事実を知ってしまった。
《時間跳躍》で跳んだ先が過去か未来かはわからないが、おそらくはそう現在と離れてはいにない時間軸だろう。
(できれば未来であってほしいな……)
もしもあれが過去だとしたら、既に父が毒を盛られている可能性もあるのだ。
そう考え、オルタンシアはぞっとした。
(大丈夫、今のお父様は元気だもん。きっと間に合うはず……!)
そう自分に言い聞かせ、ふらつきながら身を起こす。
(なにはともあれ、情報は得られた)
父の死は、父に恨みを持っている者――デュカスという男による毒殺だった。
だがこの国では知られていない毒だったため、死因が特定されなかったのだ。
このままでは一度目の人生と同じく、父は亡くなってしまうだろう。
だがオルタンシアは未来を知ることができた。
父の死を防ぐことも、きっとできるはずだ。
「一番確実なのはあのお父様と揉めていたあのデュカスって人を逮捕してもらうことだろうけど……」
まだ何もしていない状態で、そう持っていくのは難しいだろう。
となると――。
「お父様に毒に気を付けてもらう、かな」
父が毒を口にすることがなければ、運命は変わるはずだ。
そのためには、あの男が口にしていた毒の特性についてしっかりと調べなくては。
「ヴァンドールで発見されたばかりの新種の毒……」
先ほど聞いた言葉を、忘れないように書き留める。
うっかりパメラがこんなメモを見つけてしまったらその場で卒倒しかねないので、見つからない場所に隠しておくのも忘れずに。
(私にできるかな……。ううん、できるかどうかなんて考えてちゃ駄目。やるしかないんだ……!)
後ろ向きになりそうな思考を、無理やりに奮い立たせる。
今からでも動き始めたいが、今は深夜。
とりあえずは眠りにつき、明日から対策に乗り出そう。
(でも、眠れる気がしない……)
とりあえず横にはなってみたが、やはり眠気はやってこなかった。
ぎゅっと目を閉じると、父とあの男が揉めていた光景が脳裏に蘇る。
(ベルナデットって、やっぱり私のママなのかな……)
場末の酒場の歌姫で、父と懇意であったらしいベルナデットという女性……。
考えれば考えるほど、オルタンシアの母だとしか思えなかった。
(話の感じからすると、あのデュカスって人もママのことが好きだったけどママは応えなかったってことなのかな)
それはよくわかる。
オルタンシアの母は恋多き女性であったが、あのような傲慢なタイプの男のことは嫌っていた。
母があの男でなく父――ヴェリテ公爵を選んだのはよくわかるのだが――。
(……もしかしたら、お父様があの男の人に恨まれて亡くなる原因が、私のママだったのかも)
そう考えると、ぐっと気が重くなる。
考えても無駄だとわかっていても、考えずにはいられない。
(もしもママと出会うことがなければ、お父様があんな風に亡くなることもなかったのかな……)
結局その夜は一睡もできずに、夜明けを迎えたのだった。
◇◇◇
「ねぇロベール。ちょっと聞きたいことがあるんだけどいいかな?」
そう声をかけると、青年――ロベールがこちらを振り返る。
彼はリュシアンの後任として、最近公爵家に雇われた青年だ。
軽薄そうなリュシアンとは違い、見た目も性格も真面目で実直。
ジェラールの補佐だけでなく、オルタンシアの公爵家での仕事の教師も引き継いでくれたのがありがたい。
「どうかなさいましたか、お嬢様」
「えっと、あのね……できれば皆には秘密にしてほしいんだけど……」
不思議そうな顔をして近づいてきたロベールの耳に口を近づけ、オルタンシアは声を潜めて囁く。
「ヴァンドールで発見された新種の毒って知ってる……?」
その声が届いたのか、ロベールは驚いたように目を丸くする。
そして、オルタンシアに問いかけてきた。
「誰か消したい相手でもできましたか。でしたら毒に手を出すよりも、兄君に直接申し上げた方がよろしいかと」
「ちがーう! 私が使いたいんじゃなくて! えっと、最近そういう話を風の噂で聞いて、ちょっと怖いなって思って……」
オルタンシアは必死に、自分が毒を使いたいのではなくその対策がしたいということを説明した。
「毒の特性がわかれば対策の仕様もあるでしょ? でも大々的にそういう話をしたら悪用しようとする人も出てきそうだし、できればこっそりその情報が知りたいなーって」
「なるほど」
ロベールが納得してくれたようなので、オルタンシアはほっとした。
「ね、情報通のロベールならわかったりしない?」
甘えたようにそう口にすると、ロベールの肩がぴくりと動いた。
彼は有能な文官だ。
だが何よりも驚くべきなのは、その情報通っぷりだ。
いったいどこから情報を仕入れてくるのかオルタンシアは知らないが、彼は下町の店の噂話から上流貴族の浮気事情まで何でも把握しているようなのだ。
余計な情報を知ってしまうのは逆に恐ろしいので、オルタンシアはあまり彼に尋ねたことはないが……きっと彼ならば、新種の毒についても教えてくれるだろうという確信があった。
「重ねて聞きますが、本当にお嬢様自身が毒を使うつもりはありませんね? 言っておきますが、毒なんかよりもジェラール様にお任せした方が確実に相手を消すことができますよ」
「ひぇぇ……違うから大丈夫だよ! 誓って私は誰かに毒を盛ったりはしません!」
そう宣誓すると、ロベールは少しだけ表情を緩めた。
「……承知いたしました。数日かかりますが、必ずやお嬢様の必要とする情報を提供してみせましょう」
「ありがとう、ロベール! あ、これお父様やお兄様にも秘密にしてね。危険なことに関わるなってとめられるかもしれないし……」
「わかりました。公爵様からはお嬢様に何かを頼まれた時は、お嬢様に身の危険が及ばない限りは聞くように言われておりますので」
「えへへ、よろしくね」
ロベールが了承してくれたので、オルタンシアは安堵した。
後はうまい具合に父を毒殺から守る手立てが見つかるといいのだが。
(きっと大丈夫だよ。だって、魔神のことだって何とかなったんだから。今回だってきっと大丈夫……!)
祈るような気持ちで、オルタンシアは何度も何度も自分にそう言い聞かせた。