136 過去の因縁
(だ、誰かが怒ってるのかな……)
おそるおそる部屋の中を覗き込み、オルタンシアは息をのむ。
(お父様……!)
部屋には二人の男性がいた。
そのうち一人は見知らぬ者で、おそらく先ほどの怒鳴り声の主だろう。
そしてもう一人は……オルタンシアの父だった。
(お父様、今と変わらない……。ということは、これは近い未来?)
オルタンシアは緊張しつつ、二人の会話に耳を澄ませる。
「残念だが、私はあの時のことを後悔していないよ」
「貴様が! 貴様のせいで……! 私なら必ずやベルナデットを幸せにしてやったというのに……!」
(え、ママ?)
会話の途中で聞こえてきた名前に、オルタンシアの心臓が跳ねる。
「ベルナデット」というのはオルタンシアの母親の名前だ。
(いや、そんなに珍しい名前じゃないし、きっと偶然……)
そう自分に言い聞かせ、オルタンシアは話の続きに耳を傾ける。
怒鳴る男に、父は侮蔑したような視線を向けている。
「……幸せにしてやった、か。随分と上からの物言いだな」
「場末の酒場の女だぞ? 私の下へ来れば不自由ない暮らしをさせてやった!」
「ベルナデットはそんなことを望む女性じゃないよ。彼女は富や名誉などよりもずっと大切なことを知っていた」
そう語る父の目は優しく、まるで愛しい相手のことを語っているかのようだった。
オルタンシアはその目を知っていた。
……時折、父はオルタンシアに昔の母の話をしてくれることがある。
その時と、同じ目をしていたのだ。
(ということは、この「ベルナデット」ってやっぱり私のママ……?)
父ともう一人の男は、オルタンシアの母のことを巡って揉めているのだろうか。
ぐるぐると思案するオルタンシアの前で、怒鳴る男は更にヒートアップしていく。
「黙れ! 貴様は私とベルナデットのことを邪魔した挙句、責任を取りもせずに彼女を捨てた甲斐性なしだ!」
「何度も相応の待遇を用意しようと持ち掛けたさ。だが彼女がそれを望まなかった。無理やり彼女を鳥かごに閉じ込めてもあの美しい歌が聞けなくなるだけだろう」
「ただの言い訳だ! 私の下へ来れば幸せにしてやったのに!」
「ベルナデットは自由を愛していた。そして、お前を愛さなかった。その事実を受け入れるべきだな」
「っ……!」
「この話は終わりだ、デュカス。私も忙しいのでね」
父が椅子から立ち上がり、オルタンシアの方へとやってくる。
オルタンシアは慌てたが、父はオルタンシアの真横を素通りして立ち去ってしまった。
(あ、そっか。今の私の姿は見えていないんだ……)
安心したような、寂しいような……そんな複雑な気分で、オルタンシアはため息をついた。
さて、これからどうしようか。
父はどんどんと遠ざかっていく。
父の死の原因を探るのなら、このまま追いかけるべきだろうか。
そう考え、オルタンシアも踵を返そうとしたとき――。
「……ふざけるなよ」
部屋の中から地を這うような低い声が聞こえ、オルタンシアは思わずびくりと身を竦ませた。
見れば、先ほど父にデュカスと呼ばれた男がぞっとするほど冷たい目で、薄ら笑いを浮かべていた。
「あの男、どれだけ私の邪魔をすれば気が済む……。いつもそうだ! あいつさえ、あいつさえいなければ……」
ドン! とデュカスが勢いよくテーブルを殴りつけ、振動が空気を揺らす。
傍から見ているだけで震えあがってしまうような、苛烈な怒りだった。
(この人は、お父様を恨んでいるんだ……)
二人の間に何があったのかはわからない。
だが伝わってくるのは、凄まじいほどの怨恨だ。
「くっ、くくく……」
(えっ!?)
先ほどまで怒り狂っていた彼が急に笑い出し、オルタンシアは思わずぎゅっとチロルを抱きしめる腕に力を籠める。
「あの男が邪魔ならば、消してしまえばいい。お誂え向きの手札も手に入ったことだ。ヴァルドールで発見されたばかりの新種の毒ならば……」
ぶつぶつと呟くデュカスに、オルタンシアはさぁっと目の前が暗くなるような心地を味わった。
(毒……? そんな、まさか……)
一度目の人生で、父の死因ははっきりとはわからなかった。
病死だとは言われていたが、原因が特定できなかったのだ。
だがもしも、まだこの国では知られていない新種の毒を盛られたのだとしたら……。
(この人が、お父様を……!)
そう考えた途端、ぐにゃりと視界が歪む。
強烈な浮遊感と気持ち悪さに襲われ、その場に立っていられなくなる。
『シア! 大丈夫か!?』
腕の中のチロルの声も、だんだんと遠くなる。
ぐらりと世界が揺らいだような気がして目を閉じた途端、オルタンシアの意識は暗闇へと吸い込まれていった。