122 それじゃあね、英雄さん
思わぬ言葉に、一瞬、一度目の人生で死ぬ間際に起こった出来事が走馬灯のように頭の中を駆け抜けた。
また、自分は破滅の道へと引き込まれてしまったのかと怯えもした。
だが、オルタンシアがそれでもパニック状態にならずにいられたのは……二度目の人生を通して得た経験で、わかっていたからだ。
……彼は、しっかりと話せばわかる人間だと。
オルタンシアはゆっくりと息を吸い、意を決して口を開いた。
「それは、王家としての申し出ですか」
そう問いかけると、ヴィクトル王子はゆっくりと首を横に振った。
「……いいや、僕の独断だ。ここで君が断れば、すべてはなかったことになる」
オルタンシアはヴィクトルが逃げ道を用意してくれたことに感謝した。
やはり彼は、オルタンシアのことをよくわかってくれているのだ。
……どこかで運命の分岐点が異なれば、彼と共に歩む道もあったのかもしれない。
だがこれからオルタンシアが歩きたいのは、もっと別の道だから。
「……大変ありがたい申し出ですが、お受けできません」
オルタンシアははっきりとそう告げる。
ヴィクトル王子はまるでそう言うのがわかっていたかのように、少しだけ寂しそうに笑った。
「……理由を、聞いてもいいかな」
「私はここで……ヴェリテ公爵家で、お兄様やお父様をお支えしたいんです。これからも、お傍でずっと」
「そうか……君ならそう言うと思ったよ」
その言葉に、オルタンシアは驚いて目を丸くする。
そんなオルタンシアに、ヴィクトル王子はくすりと笑った。
「これでも、今まで君のことを見てきたんだ。君がどういう選択をするかってことくらいは、僕にもわかる」
目の前のヴィクトル王子は、とても優しい目をしている。
その目を見るだけで、オルタンシアは自分がやって来たことが間違いではなかったと肯定されたような気がした。
「初めて会った時からそうだった。君は……いつも、ヴェリテ公爵家の……大切な人たちのことを想っているんだね」
「……はい。私を引き取ってくださったからじゃなくて、一人の人間として、お父様やお兄様をお助けしたいんです」
オルタンシアの言葉に、ヴィクトル王子は深く頷いてくれた。
「……ありがとう、シア。今日、君の想いが聞けて良かったよ。求婚を受けてもらえなかったのは僕にとっては非常に残念だけど……君の選択を、僕は尊重したい」
そう言って、ヴィクトルは手を差し出す。
「これからは……ううん、これからも、友達でいてくれるかな」
……二度目の人生で、初めて出会った時の彼の無邪気な笑顔が蘇る。
最初は、彼の存在そのものを恐れていた。
彼と少しでも関わってしまったら、またあの悲劇が起こるのではないかと怯えていた。
(でも、こんな形もあったんだ……)
一度目の人生とは、まったく違う形で。
オルタンシアは精一杯、彼を支えていきたいと思った。
「……はい、王子殿下」
オルタンシアが手を握り返すと、ヴィクトル王子は嬉しそうに笑った。
「ヴィクトルでいいよ」
「そ、それはダメですよ!」
「あはは、シアは真面目だね」
二人の間には、今までにない穏やかな空気が漂っている。
この空間を、オルタンシアは心地よいと感じていた。
これからは、友人として彼を見守っていこう。
一度目の人生とは違うけど、きっと良い関係を築けるはずだ。
オルタンシアは、そんな夢を見ずにはいられなかった。
◇◇◇
用が済むと、ヴィクトルは静かにオルタンシアの下を後にした。
オルタンシアなら求婚を断るだろうということはわかっていた。
わかっていた、のだが……。
(やっぱり、悔しいな……)
できることなら、一番傍であの子の笑顔を独占したかった。
……初めて会った時から、あの子が自分ではない「誰か」をずっと見ていたことくらい、わかってはいたけれど。
だから……これはちょっとした意趣返しだ。
「わざわざ見送りをありがとう、ジェラール」
ヴェリテ公爵邸の、人目につかない裏口にて。
見送り……という体で追い払いに来たであろうジェラールに、ヴィクトルは笑顔を見せる。
そして……彼にだけ聞こえるように小声で囁いた。
「オルタンシアに結婚を申し込んだよ」
その瞬間、ジェラールは驚いたように目を見開き……次の瞬間、ぶわりとした殺意がヴィクトルに襲い掛かる。
「殿下!」
「いい、手を出すな」
途端に慌てだした護衛を制し、ヴィクトルは視線だけでこちらを殺しそうなジェラールを見つめ返す。
「オルタンシアはなんて答えたと思う? あぁ、あの時のシアはとっても可愛かったな」
わざと挑発するようにそう言うと、ジェラールの指先がぴくりと動いた。
まるで、今すぐにでも剣を手に取りヴィクトルを斬り殺そうとするのを堪えるように。
「答えはシアに直接聞きなよ。……自分の気持ちを見ない振りばかりしてたら、いつの間にか大切なものがいなくなってしまうかもね」
さて、これ以上ここにいると本当にジェラールに殺されかねない。
ちょっとした意地悪も済んだことだし、さっさと退散するとしよう。
「君には感謝してるよ。ヴェリテ家とは、末永く良い関係を築いていきたいと思っている。……それじゃあね、英雄さん」
それだけ言うと、ヴィクトルは振り返らずにその場を後にした。
ジェラールとオルタンシアは本当に血の繋がった兄妹なのか、二人の間には家族愛とはまた別の何かがあるのか、ヴィクトルにはわからない。
ただ……大切な友人――あるいは叶わなかった初恋相手の、幸福を願うだけだ。