119 哀しいことも、つらいことも
(とはいうものの……)
オルタンシアはちらりと横目で、凄まじいスピードで書類に目を通していくジェラールを眺めた。
現在、室内は二人きり。
この平穏な空気を壊したくはないのだが……オルタンシアには、どうしてもジェラールに聞いておきたいことがあった。
「あの、お兄様」
「何だ」
勇気を出して声をかけると、ジェラールは即座に返事をしてくれる。
その顔を見ていると、これからオルタンシアが口にすることで彼を困らせてしまうのではないかと、躊躇しそうになる。
だが……。
(たぶん、今聞いておかないと一生聞けない気がする)
今でなければならないのだ。
なぜか、そう思えてならない。
オルタンシアは大きく息を吸い、勇気を出して口を開いた。
「あの、お兄様……リュシアン――魔神が言っていたことなんですけど……」
ジェラールはじっと黙って、オルタンシアの言葉に耳を傾けている。
これから話すことで、二人の関係が崩れてしまうかもしれない。
自分は、開けてはならない箱の蓋を開けようとしているのかもしれない。
そう頭をよぎったが、それでもオルタンシアは聞きたかった。
「……率直にお伺いします。お兄様、時間が巻き戻る前のことを覚えていますか」
オルタンシアの言葉に、ジェラールは珍しく驚いたように目を丸くしている。
もしもジェラールにまったく心当たりがないのなら、オルタンシアが突然素っ頓狂なことを言い出したと呆れているのかもしれない。
あまりにも手ごたえがなかったらなんとか誤魔化さなければと、オルタンシアは早くも後悔し始めていたが――。
「……すべてを、覚えているわけではない。だが、自分の中に自分の覚えがない記憶が蘇ることがある。きっとそれが……あいつやお前の言う前の記憶というものなのだろう」
その言葉を聞いた途端、オルタンシアの心臓がどくりと大きく音をたてた。
ジェラールは手にしていた書類の束を置いて、まっすぐにオルタンシアを見つめている。
「……お前が泣き叫び、助けを求めるのを、俺はただ見ていただけだった」
「それはっ……!」
オルタンシアは何を言いたいかもわからないままに口を開いたが、言葉が出てこなかった。
まるで泣きだす寸前のように、喉がひりついている。
あの時ジェラールに投げつけられた冷たい言葉が、今もはっきりと耳の奥に残っている。
そんなオルタンシアの様子を見て、ジェラールは平坦な声でぽつりと呟く。
「……あれは、やはり事実なんだな」
「今とは、何もかも状況が違います。だから、だから……」
いったい何と言えばいいのだろう。
オルタンシアはやはり軽率に聞くべきではなかったと、深い後悔に襲われた。
「ごめんなさい、お兄様。お兄様を責めるつもりじゃないんです。ただ、どうしても聞いておきたくて……」
オルタンシアの中のもやもやとした感情に、キリを付けたかったのかもしれない。
だが、誓ってジェラールを責め立てたり、恨み言を言うつもりではなかった。
「ごめんなさい、忘れてください……」
「いや……忘れることなどできるはずがない」
ジェラールが椅子から立ち上がった気配がして、オルタンシアは身を固くした。
義兄がどんな顔をしているのか見るのが怖くて、顔を上げることができない。
少しの間、二人の間に沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、ジェラールの声と暖かなぬくもりだった。
「……済まなかった」
至近距離でそう囁かれると同時に、強く抱きしめられる。
それはオルタンシアを安心させるようでもあり、ジェラール自身が縋っているようでもあった。
「何度も何度も、お前が死ぬところを夢に見た。ただの悪夢だと思っていた……いや、そう思い込もうとしていたのかもしれない」
「お兄様……」
ジェラールが時折睡眠不足気味になっていたことは知っていた。
疲れやストレスが原因だと思っていたが、まさか、彼はずっと……。
「お前を助けようと思っても、体が動かない。それどころか、お前に酷い言葉を投げつけて、見捨てて……もしもあの時に戻れるのなら、俺が真っ先に俺を殺してやりたい」
「お兄様っ……もういい、もういいんです……」
オルタンシアは必死にジェラールを抱きしめ返した。
つらいこともあった。悲しいこともあった。
だが、オルタンシアとジェラールは今こうして共にいられるのだ。
(だから、いいよね)
オルタンシアはそっと、自分の胸の内へと語り掛けた。
そこにいるはずの、一緒に帰って来たもう一人の自分へ向けて。
「今こうして、お兄様と一緒に居られる……私には、それで十分なんです」
「だが――」
「じゃあ、約束してください。これからも、ずっと私の傍にいてくれるって」
甘えるようにそう口にすると、ジェラールは驚いたように目を瞬いた。
「……お前は、それで納得するのか」
「はい。だから、お兄様ももう自分を責めるのはやめてください。可愛い妹からのお願いです」
そう頼み込むと、ジェラールは少しの間逡巡した様子を見せ……静かに頷いてみせた。
「……わかった」
それでも表情に苦渋を滲ませるジェラールを見て、オルタンシアは内心で嘆息する。
(って言っても、きっとお兄様は気にするんだろうな)
根は真面目なジェラールのことだ。
もう気にしないでほしいといったところで、そうすることはできないだろう。
……本当は、こんな話をするべきじゃなかったのかもしれない。
まったく後悔がないと言えば嘘になる。
だが、それでも……オルタンシアは彼にこの話をしてよかったと思っていた。
過去のわだかまりを、本心を隠したままでは、心からジェラールとわかりあうことができないような気がしてならなかったのだ。
(楽しいことも、哀しいことも、つらいことも……全部、はんぶんこだもんね)
愛を、痛みを分かち合うように……オルタンシアとジェラールはそっと二人で寄り添っていた。