118 この穏やかな時間が
後で気が付いたのだが、オルタンシアが目覚めたのは懐かしき公爵邸の自室だった。
リニエ公爵邸に赴いたオルタンシアはそこでリュシアンに刺され、異空間に連れ去られ、ジェラールによって助けられた後、元の世界へ戻ってきたが……その際にリュシアンに刺された傷が元で、意識を失ってしまったらしい。
少し、血を流しすぎたようだ。
数日間意識が戻らず、生命の境をさまよっていたのだとか。
おそらく女神アウリエラの助力がなければ、そのまま命を終えていただろう。
(でも、一応終わったんだよね)
世界を混沌の渦へと叩き落とすであろう魔神は、ジェラールが木端微塵に粉砕してしまった。
とりあえずは、世界を救えたのだ。
大役を成し遂げたというのに、オルタンシアにはいまいちその実感がないのだった。
ずっと寝ていても退屈なので、呻きながら体を起こそうとすると……。
「寝ていろ」
ベッドの傍らで書類に目を通していたジェラールが、目ざとく気づいてオルタンシアをベッドに押し戻してしまった。
「だって、寝てばかりだとつまんないんです」
「つまるつまらないの問題ではない」
「むぅぅ……」
会話を続けながらも、ジェラールの手はよどみなく書類を裁いていく。
彼が自分をひどく心配してくれているということがわかっているからこそ、オルタンシアは強く出られなかったのだ。
(それに私、ひどい勘違いもしてたしね……!)
オルタンシアがリニエ公爵邸に乗り込んだあの夜。
オルタンシアはジェラールが魔神に心を乗っ取られかけて、王位簒奪を目論むリニエ公爵に同調してしまったのだと思っていた。
だが実際は……ジェラールは単に、リニエ公爵に同調した「振り」をしていただけだというのだ。
(まさか、騎士団の機密捜査だったなんて……!)
ジェラールの所属する「黒鷲団」は、あまり表には出ない後ろ暗い案件を受けもつ特殊な部隊だ。
リニエ公爵は王家の縁戚。並の人間ではおいそれと手が出せない相手である。
だからこそジェラールは、職務を全うするために魔神崇拝者の振りをしてリニエ公爵に近づいていたのだ。
それなのにオルタンシアが周囲をうろちょろして、さぞや迷惑だったことだろう。
(まぁ、結果的に魔神は倒せたし、ヴィクトル王子も無事救出できたし、よかったのかな……? 私がお兄様の邪魔をしなければ、もっとスムーズに進んでいたのかもしれないけれど……)
そう考えると、どうにも申し訳なく思えてならない。
オルタンシアはおずおずと、傍らのジェラールに謝った。
「ごめんなさい、お兄様……」
「なんのことだ」
「私、お兄様に屋敷でおとなしくしてろって言われたのに、言うことを聞かずに邪魔ばっかりして……」
オルタンシアの言葉に、器用に書類を裁いていたジェラールの手がぴたりと止まる。
彼は真剣に何か考え込んでいるように黙り込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「いや……正直に言えば、お前がいて助かった」
「え、本当ですか? どんな部分で?」
「もしもお前が現れなければ、俺は王子を……」
ジェラールはそこで言葉を切ると、小さくため息をつく。
「…………いや、なんでもない」
少しだけ言いよどんだジェラールに、オルタンシアは首をかしげる。
彼の実力なら、オルタンシアがいなくとも問題なくヴィクトル王子の救出に成功していただろう。
「お兄様なら、私がいなくてもヴィクトル王子を救出できましたよ」
元気づけるようにそう言うと、ジェラールは少しだけ渋い顔をした。
……あまり、触れてはいけない話題だったのだろうか。
オルタンシアは慌てて、話を逸らそうと口を開く。
「そういえばパメラが教えてくれました。ヴィクトル王子を救出したお兄様を、皆が救国の英雄だって持て囃しているって。……お兄様、こんなところにいていいんですか?」
オルタンシアが目覚めてから、ジェラールはほぼつきっきりでオルタンシアの傍にいてくれる。
大好きな兄が傍にいてくれるのは嬉しいのだが、実際はそんなことをしている場合じゃないだろう。
公爵位を持つものによる王位簒奪を目的とした王子誘拐事件と、それを解決した英雄ジェラール。
本来なら、それこそ騎士団で事後処理に追われたり、なんなら英雄として称えられる式典なども執り行われるのかもしれない。
だがジェラールは、断固としてオルタンシアの傍を離れなかった。
日に何度も、公爵家の使用人が「騎士団の方がお見えで……」「王家からの使いの方が……」と呼びに来る。
だがジェラールは必ずオルタンシアに「少し席を外す」と言って、本当に少しの時間で戻ってくるのだ。
(……いやいや、お兄様がこんなところにいていいわけないよね!)
「あの、お兄様……私なら大丈夫です。だから、王宮や騎士団へ行かれた方がいいんじゃ――」
「その必要はない」
ジェラールの意志は鋼のように頑なだった。
こうなってしまっては、騎士団だろうが王家だろうが彼の意志を曲げることはできないのかもしれない。
(すごいなぁ。国でも随一の精鋭騎士団や、王家ですらお兄様に敵わないなんて)
普通なら騎士団での立場やヴェリテ公爵家の地位などを人質に、無理やりジェラールを動かしそうなものだが……。
ジェラールは己の地位や立場に固執しているわけではない。
たとえそれらを人質にされたとしても、簡単に捨ててしまえるだろう。
むしろ、王家や騎士団の方がジェラールを必要とし、彼の機嫌を損ねないように必死になっているのかもしれない。
(たぶん、お父様がうまく取り繕ってくれてるんだろうけどね)
オルタンシアが目覚めてから、父はすぐに駆け付けてくれた。
――「よかった、オルタンシア。本当によかった……!」
いつも飄々として余裕な態度を崩さない父が、息を切らせ、髪を乱しながらやって来たかと思うと、必死な表情でオルタンシアを抱きしめ涙を見せたのだ。
その時オルタンシアは、父に愛されているのだということを実感した。
血が繋がっているのかどうかはわからない。いや……たとえ他人だったとしても彼はオルタンシアの父で、オルタンシアは彼の娘だ。
はっきりと、そう感じた。
そんな父はジェラールの代わりに屋敷を開け、今頃方々で事情説明に明け暮れていることだろう。
事態が落ち着いたら、存分に労わってあげなければ。
「ふ、ふふふ……」
思わず笑みが零れてしまうと、ジェラールが怪訝な目をこちらへと向ける。
「何がおかしい」
「いいえ、おかしいというか、なんというか……」
オルタンシアが義兄と目を合わせ、そっと微笑んだ。
「幸せだなぁって」
何もかもが解決したわけじゃない。
今後のことだって、不安はたくさんある。
けれど、今だけは……この穏やかな時間がずっと続けばいいのにと思ってしまうのだ。