117 お兄様の傍に、ちゃんと
(お兄様が、泣いてる……!?)
まるで、天地がひっくり返ったかのような衝撃だった。
ジェラールは常に無表情で、父やオルタンシアでさえわずかな表情の違いから彼の感情を何とか推察できる程度だったのだ。
だがまさか、その兄が。
こんな風に、涙を流すなんて……!
(何があったの!? お腹が痛いの!? そんなわけないよね!!?)
予想もしなかった光景に、オルタンシアは盛大に狼狽した。
そして……ついつい、とんでもない行動に出てしまったのである。
「お、お兄様……泣かないで……」
もう片方の手で、ジェラールの頭を撫でてしまったのだ。
利き手ではない上に、撫でられるのには慣れていても撫でるのには慣れていない。
きっと、とんでもなく不器用ななでなでになってしまっていただろう。
だが、オルタンシアに頭を撫でられたジェラールはそっと顔を上げた。
その顔は、どんな宗教画よりも美しく荘厳に感じられた。
オルタンシアは思わず、息が止まりそうになってしまったくらいだ。
ジェラールは穴が開くほどオルタンシアをじっと見つめ、ぽつりと呟く。
「ここに、いるんだな」
「……はい」
よくわからないながらも、オルタンシアはこくりと頷く。
ジェラールはそっと手を伸ばし、オルタンシアの頬に触れる。
まるで、存在を確かめるように。
その手つきは、とても繊細で優しいものだった。
「……医師は、いつ死んでもおかしくない状態だと言っていた」
「……はい」
リニエ公爵の館に乗り込んだ日からどれだけ時間が経っているのかはわからないが、きっとオルタンシアは危ない状況だったのだろう。
それこそ、女神が次の転生先の提案をするくらいには。
「お前が死ぬかもしれないと思った時、頭の中が真っ白になった。……母が死んだときでさえ、何も思わなかったのに」
ぽつりぽつりと、平坦な声でジェラールが呟く。
その言葉を、オルタンシアはじっと聞いていた。
「今までは、公爵家の跡取りとして責務を全うしてきたつもりだった。これからも、そうするだけだと思っていたが……お前がいなくなると考えただけで、何もかもが無駄だと悟ってしまった」
ゆっくりとオルタンシアの頬を撫でながら、ジェラールは真摯な声でそう囁く。
「お前がいない世界など、何の意味もない」
(あぁ、この人は……)
オルタンシアはそっと頬に触れるジェラールの手に自らの手を重ねた。
人の身に余るほどの、強大な加護を持って生まれた公爵家の跡取り。
そんな彼は、両親の愛をうまく受け取ることができずに歪んだ幼少期を過ごしてしまった。
だからだろうか。
まるで、抜身の剣のように。
触れれば傷ついてしまう、ガラスの破片のように。
ひどく、アンバランスな存在なのだ。ジェラールという人間は。
国を守る剣となる可能性もあれば、すべてを滅ぼす災厄となる可能性もある。
だが、そんな部分もすべてひっくるめて……彼はオルタンシアの大好きな兄なのだ。
(女神様がお兄様を警戒するのもわかるかも。でも……)
少しのはずみで、彼は簡単に人の道を踏み外しかねない。
そんな彼を繋ぎ止める存在になれたことが、オルタンシアは純粋に嬉しかった。
「大丈夫です、お兄様」
ゆっくりと、そう語りかける。
自分はここにいると、ちゃんと帰ってきたのだと、彼に伝えるために。
「私はここに居ます。お兄様の傍に、ちゃんと」
そっと触れたジェラールの手は、いつになく暖かかった。
いや、つい先ほどまで生死の境をさまよっていたのだ。
もしかしたら、オルタンシアの手が冷たかったのかもしれない。
だが、そんな二人の体温が徐々に混ざり合っていく。
それが、なんとも嬉しかった。
「ずっと一緒ですよ、お兄様。これからもずっと、ずっと……」
オルタンシアの言葉を受けて、ジェラールはしばしの間驚いたように固まっていた。
だが、辛抱強く待っていると……彼はかすかに頷いてくれたのだ。
その後に見た光景のことを、きっとオルタンシアは生涯忘れることができないだろう。
「……あぁ」
オルタンシアの言葉を静かに肯定して、彼は微笑んだ。
あのジェラールが、確かに笑顔だと形容できる表情を浮かべて、笑ったのだ。
まるで、厳しい冬を越えた植物がそっと芽吹き花を咲かせるようだった。
オルタンシアの心にも、一陣の温かな風が吹く。
(あぁ、私は……お兄様の心を覆う氷を、少しでも溶かすことができたのかな)
魔神を撃退できたことよりも何よりも、オルタンシアにとっては大好きな兄の笑顔を見ることができたのが、何よりのご褒美だったのかもしれない。