113 一緒に帰ろうね
「そうですよ、お兄様」
不意に自分が発したものではない――だが確かに自分の声が聞こえ、オルタンシアは戦慄した。
ゆっくりと視線を動かすと、そこにいたのは……先ほど、打ち捨てられたはずの偽のオルタンシアだった。
彼女はゆっくりとジェラールの腕に触れ、甘やかな声で囁く。
「あなたは一度私を見捨て、殺した。時間が巻き戻ったとしても、その事実は消せませんものね」
オルタンシアは「やめて」と叫びたかったが、喉が凍り付いたように声が出ない。
「『俺は一度たりともお前を妹だと思ったことはない』なんて……そう言って私を見捨てたんです。私の体が死を迎えたのはその直後ですが、心が死んだのはきっとあの時です」
偽のオルタンシアがゆっくりと本物のオルタンシアの方を振り返る。
そして、どこか優越感を漂わせた笑みを浮かべた。
(違う、確かに私だってつらかった。でも、あの時と今のお兄様は違う……!)
必死にそう叫ぼうとしたオルタンシアを嘲笑うように、偽のオルタンシアはジェラールへと語り掛ける。
「結局あなたは、あの時と同じ。何も変わりません。人の心を持たない、冷たい人形のような存在なんです。……家族ごっこは、もう終わりにしませんか?」
――家族ごっこ。
今まで必死に頑張っていたことを否定するような冷たい言葉に、オルタンシアの胸が締め付けられた。
(ごっこだなんて思わない。私にとってお兄様とお父様は、本当の家族。二人だって、そう思ってくれているはずなのに……)
「ふふ、知っていますよ。あなたは今も……私のことを、妹だなんて思っていないのでしょう?」
偽のオルタンシアが発した言葉に、心が抉られるようだった。
今すぐに否定して欲しい。あの時と今は違う。家族だと、妹だと、ジェラールの口からそうききたかった。
だが、ジェラールは何も言わない。
偽のオルタンシアの言葉を、否定も肯定もしなかった。
「大丈夫、私も同じ気持ちです。だからお兄様……すべてを壊してしまいましょう?」
偽のオルタンシアがジェラールの持つ剣へと手を触れさせる。
その途端、鈍い銀色の刃が黒ずんでいくのが見えた。
(なに、あれ……)
その光景を見た途端、ぞくりと背筋に悪寒が走る。
何か、とてつもなく恐ろしいことが始まろうとしている。
本能的にそう悟ってしまったのだ。
「さぁ早く、私とお兄様二人だけの世界へ……」
偽のオルタンシアが、ゆっくりとジェラールへ顔を寄せる。
その光景を、オルタンシアは胸が張り裂けそうな思いで見ていた。
(やめて……お兄様、こっちを見て……!)
鼻先が触れ合うような距離で、偽のオルタンシアがジェラールに何か囁いている。
ジェラールは表情を変えず、じっと偽のオルタンシアを見つめている。
その光景が悔しくて、哀しくて、オルタンシアは全身の力を振り絞って必死に叫んだ!
「お兄様! 私はここです!」
その途端、すべての呪縛が解けたような気がした。
ジェラールの視線がこちらを向く。
それをよしとしない偽のオルタンシアがジェラールの腕を引っ張ったが、ジェラールはすげなく彼女を突き飛ばした。
「気安く触るな」
「な……」
ジェラールの冷たい言葉に、偽のオルタンシアが驚きに目を見開いた。
「何を言っているのですか、お兄様……。私が、私こそがあなたが救うべきオルタンシアなのに……!」
「黙れ。俺にとっての『オルタンシア』は貴様ではない」
本物のオルタンシアを庇うように、ジェラールが偽のオルタンシアに剣を向ける。
偽のオルタンシアは一瞬、怯えたように身を竦ませたが、すぐに挑戦的な笑みを浮かべた。
「ふふ、うふふふ……やっぱりあなたは変わらないんですね! そうやって、邪魔になったらすぐに私を消そうとするんだわ!! あの時みたいに!!」
偽のオルタンシアは、半狂乱になって騒いでいる。
ジェラールはそんな彼女を冷めた目で見つめているが、オルタンシアがそんな彼女の叫びを聞くたびに胸がざわめいて仕方がなかった。
(もしかして、目の前のこの私は……)
「二度も私を見捨てるなんて! 私も、私だって……ただ、お兄様に愛されたかったのに……!」
偽のオルタンシアは泣いていた。
その涙は、きっとかつてオルタンシアが流したものと同じなのだろう。
目の前の彼女は、リュシアンがジェラールを惑わすために作り出した幻なのかもしれない。
だが……。
(同じなんだ、私と)
彼女の叫びは、オルタンシアの叫びそのものだ。
冤罪で死を言い渡され、唯一の家族であるジェラールにも見捨てられすべてを嘆いたオルタンシアの思いそのものなのだ。
そう気づいた瞬間、オルタンシアは彼女の方へ足を踏み出していた。
「待て」
ジェラールが慌てたようにオルタンシアを引き止める。
だがオルタンシアは、ジェラールの方を振り返り、心配ないとでもいうように頷いてみせた。
「大丈夫です、お兄様。きっとあの子は……私だから」
だから、救ってあげなくてはならない。
誰にも救われず落ちていく悲しみは、きっとオルタンシアが一番よくわかっているのだから。
すすりなく偽のオルタンシアの目の前に立ち、オルタンシアはそっと彼女を抱きしめた。
「……もう、大丈夫だよ」
きっと、誰かにそう言ってほしかった。
優しく抱きしめて欲しかった。
自分がそうだったから、目の前の彼女も同じなのだと信じて。
「つらかったよね。悲しかったよね。でも、もう心配ないよ。今の私は、とっても幸せだから」
ゆっくりと語り掛けると、だんだんと相手の力が抜けていくのがわかる。
「だから、私と一緒になろう? あなたも、お兄様も一緒に……家に帰ろう」
そう、帰りたかった。
妃候補として宮廷に召し上げられてから、ずっと……オルタンシアはあんなに居心地が悪いと思っていたはずの公爵家に帰りたくて仕方がなかったのだ。
あの時は、結局帰ることは叶わなかった。
オルタンシアは再び公爵邸の地を踏むことなく、その命を散らしたのだから。
だから……連れ帰ってあげたかった。目の前の報われなかったオルタンシアも、一緒に。
「……うん」
もう、目の前の相手から禍々しい空気は感じない。
彼女は静かに頷くと、そっと消えていった。
だが、オルタンシアにはわかった。
彼女――きっと、無惨に殺され、報われなかったオルタンシアの怨念は、自分の中に帰ってきたのだろうと。
(……うん、大丈夫。一緒に帰ろうね)
胸に手を当て、そう語りかける。
そのためには、魔神――リュシアンを何とかしなければ。
いよいよ佳境…!
大変な状況ですがハッピーな着地点に突き進んでいくのでご安心ください!
また、新作も始めました。
「神獣騎士様の専属メイド~無能と呼ばれた令嬢は、本当は希少な聖属性の使い手だったようです~」
( https://ncode.syosetu.com/n8964id/ )
不遇な主人公がユニコーンとユニコーンの飼い主に懐かれる(予定)お話です。
こちらも主人公が一歩を踏み出し始めたところですので、応援してくださると嬉しいです!