112 お兄様、聞かないで!
その姿を目にした途端、ジェラールの動きが止まる。
(違う、あれは……!)
「お兄様、幻覚です! 私はここです!!」
オルタンシアは慌ててそう叫んだ。
だが、ジェラールはこちらを見ず、その声に反応すらしなかった。
(まさか、聞こえてないの……?)
気づかない間に、リュシアンがあちらとこちらを隔てる結界のようなものを張ったのかもしれない。
そう気づいたオルタンシアはぞっとした。
その途端、ジェラールの足元の偽のオルタンシアがぴくりと動き、ジェラールは弾かれたようにその女性を抱き上げた。
「違う、違うの……。お兄様、それは私じゃない……!」
オルタンシアはジェラールの下へ行こうと立ち上がろうとした。
だがその途端、足元から黒い蔓のようなものが生えてきて足を取られてしまう。
「あぁ、まさか自らの手で最愛の妹を殺してしまうなんて……実に美しいとは思いませんか?」
いつの間にかオルタンシアのすぐ傍に屈みこんだリュシアンが、愉快そうにそう囁く。
彼の視線の先では、ジェラールに抱き上げられた偽のオルタンシアが何事かジェラールに囁いている。
ばちばちと空気がはじけ、ジェラールの感情が激しく乱れているのが手に取るようにわかる。
「実際にあなたを盾にしてもよかったのですが……」
耳元でリュシアンの声がしたかと思うと、首筋にひやりと冷たい指先が触れた。
「『偽の妹に気を取られている間に、すぐ近くで本物の妹が無惨に喰われていた』――そちらの方が、より滑稽で美しいとは思いませんか?」
「ぐっ!?」
その言葉と同時に、首筋を強く圧迫され、オルタンシアは痛みと苦しさに喘いだ。
「前回はあまり気にしていませんでしたが、今のあなたはとても美味しそうだ。最後の一呼吸まで、じっくりと私が食べつくして差し上げますよ」
「悪、趣味っ……!」
「とんでもない! 先ほども申し上げましたが、私ほどの美食家はなかなかいませんよ」
リュシアンはまるでいたぶるように、力を入れたり緩めたりしながらオルタンシアの反応を楽しんでいるようだ。
だが、オルタンシアは諦めてはいなかった。
リュシアンが本気を出せば、一瞬でオルタンシアの首をへし折ることも容易いだろう。
そうしなかったことを、後悔させてやる……!
(お願い、チロル……!)
あの小さな精霊がどこかへ隠れていることを信じて、オルタンシアはそう祈った。
次の瞬間――。
《シアから離れろ! この変態野郎!!》
オルタンシアの髪の毛の中から小さな毛玉が飛び出したかと思うと、いつものチロルへと姿を変えリュシアンへ襲い掛かったのだ。
「ちっ!」
鋭い爪でガリッと引っ掻かれたリュシアンは、反射的にオルタンシアから飛び退く。
とても魔神にダメージを与えられたとは思えない、弱い一撃。
だが、リュシアンの集中をかき乱し、結界を弱めるのには十分だったようだ。
「お兄様! 私はここです!!」
乱れた呼吸で、それでもオルタンシアは必死にそう叫んだ。
その声は、確かにジェラールに届いた。
「っ!?」
ジェラールが素早くこちらを振り向く。
彼にオルタンシアの姿が見えていたのかどうかはわからない。
だが、彼は迷わなかった。
掻き抱いていた偽者のオルタンシアを放り出し、すぐさま本物のオルタンシアの下へ駆けつけようとしたのだ。
オルタンシアもジェラールの下へ駆け寄ろうとしたが、リュシアンの張った結界に阻まれてしまう。
「少し離れろ」
そう言うやいなや、ジェラールは剣を一振りしリュシアンの張った結界を切り裂く。
次の瞬間、オルタンシアはジェラールの胸の中へと飛び込んでいた。
「お兄様、よかった……」
ぎゅっとジェラールの胸に頭を押し付ける。
すると、頭上から降りてきた優しい手がオルタンシアの頭に触れた。
「もう、大丈夫だ」
その一言だけで、ほっと体の力が抜けそうになってしまう。
だが、まだ安心するのは早いと、オルタンシアは慌てて気を引き締めた。
リュシアンはまだ、すぐそこにいるのだから。
「くっ、くく……」
少し離れたところにいるリュシアンが不気味な笑い声をあげ、ジェラールがさっとオルタンシアを自身の背後へと隠す。
「少々油断していたとはいえ、私の結界を破るとはさすがはジェラール様。感服いたします」
リュシアンが自らの顔に指先を触れさせると、チロルが引っ掻いた傷跡が一瞬で消えていく。
《あいつ、異常だ……!》
「うん……」
オルタンシアの肩に乗ったチロルが、警戒するように毛を逆立たせた。
「……心配する必要はない。今すぐに消す」
ジェラールだけは動揺することもなく、剣を構え刃先をリュシアンへと向ける。
「おやおや、もう少し話を聞いてくださってもよいのでは? そうですね、たとえば……時間が巻き戻る前に、あなたが何をしたのか」
「だめっ!」
リュシアンはジェラールに暴露しようとしているのだ。
この世界が巻き戻る前に、何があったのかを。
「お兄様、聞かないで!」
オルタンシアは必死にそう懇願した。だが、ジェラールは動かない。
まるで地面に根が生えたように、じっとリュシアンを凝視していた。
「ジェラール様にも覚えがあるでしょう? 自分の中に、自分の知らない記憶がある。あなたの見る悪夢は、本当にただの悪夢なのでしょうか?」
オルタンシアはジェラールに縋りつこうとした。だが、体が動かない。
まるで凍り付いたように、指先一本動かすことができなくなっていたのだ。
(まさか、リュシアンの術中にはまった……?)
リュシアン――魔神はジェラールを深く絶望させ、自らの依り代としようとしている。
もし、ジェラールが時間が巻き戻る前に何が起こったのかを知ってしまったら……。
彼がオルタンシアの大好きな義兄のままでいられるのか、オルタンシアにも自信はなかった。