110 深い絶望
「感謝していますよ、あなたたち兄妹には。あの日、ジェラール様がオルタンシア様を助けた際に流された多くの血によって、私に施されていた強固な封印が緩み、こうして再び外の世界に姿を現すことができるようになったのですから」
「っ……!」
リュシアンが発した言葉に、オルタンシアは蒼白になった。
かつて邪神崇拝集団に誘拐された際に、彼らは多くの生贄を捧げ魔神を復活させようと目論んでいた。
ジェラールが間一髪でオルタンシアを救ったことにより、オルタンシアは彼らの凶刃に倒れることはなかった。
それと同時に、魔神の復活も阻止されたと思っていたのだが……。
(まさか、既に魔神が復活していたなんて……)
オルタンシアは信じられない思いで、目の前の男を見つめた。
そんなオルタンシアを安心させるように、リュシアンは優しく笑う。
「あの時お嬢様の力を食らうことができれば、完全に力を取り戻すこともできたでしょうが……残念ながら、あんな塵のような者たちの血を得たところでたいした力にはなりはしないのですよ。ですが、そのおかげで最高の舞台が整いました」
「最高の、舞台……?」
「えぇ、ジェラール様という依り代を経て、私はこの世界を破壊しつくす。……前のようにね」
どくり、とオルタンシアの心臓が大きく音を立てた。
蒼白になるオルタンシアの頬をそっと撫で、リュシアンは優しく囁く。
「お嬢様がいろいろと頑張ってくれたおかげで、『前回』よりも更に愉快なことになりそうです。感謝しますよ……オルタンシア・レミ・ヴェリテ」
その名前を聞いた途端、全身が総毛立つ。
彼は呼んだ。オルタンシア自身と時間を巻き戻した女神以外、誰も知らないはずのオルタンシアの「前の」名を。
「あなたも、覚えているのね……」
「えぇ、前は厄介極まりない女神に邪魔されてしまいましたが、今度こそは本懐を遂げられそうです」
リュシアンはいつもと同じく、軽薄そうな笑みを浮かべている。
だが今は、その笑みがたまらなく恐ろしいものに感じられた。
「深い絶望は大いなる力を生む。絶望が深ければ深いほどその力は強くなる。そして今……やっと最高の舞台が整ったのです」
芝居がかった仕草で一礼するリュシアンに、オルタンシアはぎゅっと指先を握り締めた。
「……あなたは、お兄様を依り代にする――乗っ取るつもりなの」
糾弾するようなオルタンシアの言葉にも、リュシアンは朗らかに笑ってみせた。
「乗っ取るとは人聞きの悪い。互いが互いのために力を尽くす、Win-Winの関係ですよ」
「嘘だ! お兄様を操って、世界を破滅させようとしたんでしょう!?」
「……それは大きな誤解ですね。お嬢様の死後に世界を壊そうとしたのは他ならぬジェラール様本人の意思ですよ」
「お兄様は、そんなこと……」
「あなただって女神に顛末を聞いたのでしょう? 魔神の力を得たジェラール様が世界を破滅に導き、それを憂いた女神によって時間は巻き戻された。それはゆるぎない事実ですよ」
聞き分けの悪い子どもに説明するような口調で、リュシアンはそう告げる。
オルタンシアはごくりと唾を飲み、彼の言葉を咀嚼しようと頭を巡らせる。
(そういえば女神様も、そんなようなことを……)
――《幽閉の身となっていたデンダーヌ伯爵令嬢も彼の手にかかって死を遂げました。それでもジェラールの怒りは収まらず、遂にはその激情に共鳴した魔神をも呼び起こしてしまったのです》
――《彼は魔神と融合し魔王となり、魔王の出現により世界は混沌の時代へと突入しました。争いが争いを呼び多くの血が流され、命が失われたため……こうして時間を巻き戻したのです》
あの時はスケールが大きすぎてうまく飲み込むことができなかった。
だが――。
――《……オルタンシア、目に見えるものがすべてではありません。ジェラールは確かに、あなたのことを愛していたのです。……その愛によって、狂気に蝕まれてしまうほどに》
――《オルタンシア、どうかジェラールに寄り添い、彼を正しい道へと導いてあげてください。彼の秘める力は強大で、使い方によっては世界を滅ぼす剣にもなりかねません。彼を救うことができるのは、あなただけなのです》
……無意識に、考えないようにしていたのかもしれない。
二度目の人生で、前とは違いジェラールと心を通わせることができるようになった。
少しずつ彼を知っていくうちに、ずっと抱いていた恐ろしさは小さくなっていった。
ジェラールにはジェラールなりの意志があり、決して話の通じない人物ではなかったのだ。
オルタンシアは二度目の人生で、以前よりもずっとジェラールのことが大好きになった。
だから、ジェラールが自らの意思で世界を破滅させようとしたなどと、考えたくなかったのかもしれない。
ジェラールがおかしくなるのは魔神のせいであり、ジェラール自身は決して世界を壊そうとするような人物ではない。
……いつの間にか、そう考えるようになっていたのだ。
(正直、今でも信じられない……)
ジェラールはああ見えて、多くの者のことを考えている。
公爵家の次期当主として、日夜努力を怠らないのも知っている。
それでも、そんな彼を根本から変えてしまうような原因があるとすれば……。
「深い、絶望……」
オルタンシアがそう呟くと、リュシアンはにやりと笑う。