109 魔神の領域
「ん……」
ふるりと瞼が震え、オルタンシアの意識はゆっくりと浮上する。
ずいぶんと体が重い。いったいどのくらい眠っていたのだろうか。
再び眠りの縁へと沈みそうな意識を必死に繋ぎ止めていると、不意に誰かが優しく髪に触れる。
そして、耳元で囁かれた。
「お目覚めの時間ですよ、お嬢様」
「うぎゃあ!」
至近距離からねっとりと囁かれ、オルタンシアは思わず飛び起きた。
慌てて声の方へ視線をやると――。
「リュシアン!?」
ジェラールの従者である彼が、にやにやしながらこちらを覗き込んでいたのだ。
「おやおや、そんなゴキブリを見た時のような反応をなさらなくてもよいのでは?」
「だって、いきなりねっとりした声が耳元で聞こえたら驚くでしょ……って、え?」
反射的に言い返し、リュシアンの顔を見た途端――オルタンシアは不意に意識が途切れる直前のことを思い出した。
(そうだ、私、お兄様を止めようとして――)
目の前のリュシアンと共に、リニエ公爵の屋敷へと乗り込んだ。
魔神の力を利用し、この国を手中に収めんと目論むリニエ公爵。
生贄に捧げられようとしているヴィクトル王子。
それに、リニエ公爵に与したと思われた義兄ジェラール。
だがジェラールは土壇場でリニエ公爵を裏切り、彼に刃を向けた。
それですべてが丸く収まったかと思いきや、目の前の男が――。
「っ!?」
オルタンシアは慌てて自らの胸元を確認した。
そこで、更なる違和感に気づいてしまった。
「何、これ……」
オルタンシアは見たこともない黒いドレスを身に纏っていた。
刺されたはずの胸元に痛みはないが、いったいこの状況は何なのだろう。
オルタンシアは再びリュシアンを見返す。
そこでやっとこの場所が、意識を失うまでいたリニエ公爵の屋敷でも、ヴェリテ公爵邸でもないことに気が付いた。
(なんなの、ここ……)
オルタンシアが眠っていたのは、確かにヴェリテ公爵邸のオルタンシアの私室にあるのと同じようなベッドだ。
だが、この空間自体が異様だった。
首が痛くなるほど上を見上げると、はるか上空にドーム型の天井が見える。
この空間自体の作りとしては、公爵家に引き取られてすぐに、加護を得るために訪れた神殿によく似ているだろう。
(でも、全然違う……!)
全体的に薄暗く、あちこちが朽ちかけている。
それに何より、心が洗われるような静謐な空気が漂っていた神殿とは違い、ここの空気は禍々しいのだ。
ここにいるだけで、じわじわと真綿で首を絞められているような閉塞感に襲われる。
この空気は異常だ。かつて誘拐された魔神崇拝教団のアジトですらも、ここまでではなかった。
……まるで、かつて精霊界を訪れた時のように。
この空間自体が、普段オルタンシアの暮らしている世界とは別の場所なのかもしれない。
周囲の確認をやめたオルタンシアは、再びリュシアンを見つめる。
彼はオルタンシアのように混乱することもなく、ただ愉快そうに戸惑うオルタンシアを眺めていた。
「あなたが、私をここに連れてきたの」
「えぇ、さすがの慧眼です、お嬢様」
「ここは……魔神の領域ね」
意識を失う前の状況、この空間の異様さ、それに……目の前の男。
いくつかの材料から判断すると、そう思えてならなかったのだ。
オルタンシアの問いかけに、リュシアンはすっと目を細める。
そのまま、彼の手がこちらへ伸びてくる。
オルタンシアは思わず身構えたが、リュシアンは何を思ったのかオルタンシアの頭をぽんぽんと撫でたのだ。
「正解です! さすがはお嬢様」
(な、何なのかしらこの人は……)
目の前のリュシアンはただひたすらに得体が知れないのに、まるでオルタンシアに勉強を教えてくれた時のような態度を取られると混乱してしまう。
だが、流されてはいけない。
リュシアンはオルタンシアの胸を刺し、この魔神の領域へと連れてきた張本人。
……間違いなく、オルタンシアの敵なのだから。
「あなたも、魔神崇拝集団の一人だったのね」
オルタンシアがそう口にすると、リュシアンはそこで初めて不快そうに眉根を寄せた。
「御冗談を、オルタンシアお嬢様。私をあのような趣味の悪い者たちと一緒にしないでいただきたい」
「だって、そうじゃない! あなたはあいつらと一緒なんでしょう!?」
「……違いますよ。あれはただの駒、贄にすらなりはしない雑兵です。私はこれでも美食家なので、私自身の食指が伸びる相手しか頂きたくはないのです」
そう言って、リュシアンはぺろりと唇を舐めてみせる。
その仕草に、オルタンシアはぞわりと全身に鳥肌が立ったのがわかった。
(この言い方、まさか……)
まさか、そんなはずはない。
オルタンシアはそう信じたかったが、今ここで必要なのは真実を見極める力だということもわかっていた。
すっと意識を集中させ、再びリュシアンを見据える。
その途端、彼の背後におぞましい影のようなものが見え、オルタンシアの背筋を嫌な汗が伝う。
……思えば彼が初めてヴェリテ公爵邸に姿を現したのは、オルタンシアが邪神崇拝集団に誘拐された少し後のことだった。
優れた美貌で多くの者を魅了し、あのジェラールにすら邪険にされない手腕を発揮する男。
オルタンシアとジェラールの間を巧みに行き来し、この状況を作り上げたのも彼だったのだ。
……どうして、今まで気づかなかったのだろう。
「……あなたが、魔神なのね」
ぽつりとそう呟くと、リュシアンは笑った。