107 安心しろ、すぐに終わらせてやる
「お兄様……っ!」
扉の向こうの光景を目にして、オルタンシアは恐怖に息をのむ。
普段なら煌びやかな舞踏会が開かれているであろう大広間は、不気味に姿を変えていた。
薄暗い照明に、集まるのは黒いローブに身を包む者たちばかり。
そして、広間の中央に大きく描かれた魔法陣。
その光景は、否応なしに過去の仄暗い記憶を呼び覚ます。
あの時、生贄として捧げられるのはオルタンシアのはずだった。
だが今、その場所にいるのは――。
「ヴィクトル王子!」
中央の台座に寝かされた人物を視認し、オルタンシアは叫ぶ。
かつてのオルタンシアのように贄に選ばれたであろうヴィクトル王子は、目を瞑ったままぴくりとも動かない。
もしや既に……とオルタンシアは心臓が止まりそうになったが、彼の胸がわずかに上下しているのが見えて少しだけ安堵した。
どうやら、最悪の事態になる前にたどり着くことができたようだ。
「これはこれは、よくぞいらっしゃいました、ヴェリテ公爵令嬢」
そう言ってにこやかな笑みを浮かべたのは、周囲の者たちと同じく黒ローブを身に纏うリニエ公爵だ。
彼はオルタンシアの登場にざわめく周囲の者たちとは違い、まるでオルタンシアがここに来るのをわかっていたかのような顔をしていた。
「あなたにも立ち会っていただけるとは光栄です。どうぞ、こちらへ」
「……リニエ公爵」
優しく手を差し出すリニエ公爵を見据えながらも、オルタンシアは彼の隣に視線を奪われずにはいられなかった。
まるで、リニエ公爵を守るかのように……オルタンシアの探し人、ジェラールがそこにいた。
彼も周囲の者たちと同じように趣味の悪い黒ローブを身に纏っている。
目にするのもおぞましい、大嫌いな装束のはずなのに。
オルタンシアはこの場にいる誰よりも、彼にその装束が似合っていることを認めないわけにはいかなかった。
そんなジェラールはじっと冷たい目でオルタンシアを睨んでいる。
一瞬気圧されそうになったが、オルタンシアはじっと義兄を見つめ返した。
「あなたには特等席を用意してありますよ」
そう言って微笑むリニエ公爵に視線を戻し、オルタンシアはゆっくりと口を開く。
「……あなたは、ヴィクトル王子を生贄に魔神を召喚なさるつもりなのですね」
そう問いかけると、リニエ公爵は愉快そうに目を細めた。
「えぇ、その通りです」
「魔神を召喚してどうするのですか。この世界をめちゃくちゃに壊すおつもりですか」
オルタンシアの非難めいた言葉にも、リニエ公爵は笑みを絶やさない。
彼は聞き分けのない子どもに言い聞かせるように、懇切丁寧に教えてくれた。
「……少々、勘違いされているようですね、ヴェリテ公爵令嬢。私は決して、この世界を壊したいなどとは望んでおりません」
「ならばどうしてっ――」
「前にお話ししたように、私はより良い世界を望んでおります。皆が幸福に過ごせる、そんな世界を。だが、そのためには様々な障壁が存在する。王位継承制度もその一つです。どれだけ優れた人物でも、継承順位というくだらない数字に阻まれて王位に就くことができない。これは計り知れない損失です。そうは思いませんか?」
(……そんなの、詭弁よ。あなたの野心を綺麗な言葉で飾り立てているだけじゃない……!)
オルタンシアはよっぽどそう言い返そうかとも思ったが、ここでリニエ公爵の神経を逆なでしては彼がどんな手に出るかもわからない。
静かに、彼の次の言葉を待った。
「この世界はくだらない制度や慣習にがんじがらめにされている。それを壊すという意味では、ある意味世界を壊すということと同義なのかもしれませんね」
「魔神の力は、危険です。一度この世界に呼び出してしまえば取り返しのつかないことになります」
「……魔神もまた、神の一柱であることに変わりはありません。それこそ、あなたに加護を与えた女神と同じようにね。かつて土着神として崇拝されていた存在が、時を経て魔神と呼ばれるようになっただけのこと。その力を正しく行使すれば、何も恐れることはないのです」
リニエ公爵の言葉には、まるでその言葉こそが疑いようのない真実だと錯覚させる作用があるような気がした。
一度は壊滅寸前に追いやられた魔神崇拝集団がこうして復活したのも、彼の力によるところが大きいのだろう。
だが、オルタンシアは彼の提案を受け入れるわけにはいかなかった。
一度目の人生、オルタンシアが死んだ後に……この世界に蘇った魔神が何をしたか知っているからこそ。
なんとかリニエ公爵を説得できないかと思っていたが、この様子だと無駄に終わりそうだ。
「もう一度問います、ヴェリテ公爵令嬢。我々と志を同じくする気はありますか?」
オルタンシアはちらりと眠ったままのヴィクトル王子、そしてリニエ公爵の隣に控える義兄ジェラールに視線をやった。
ヴィクトル王子を救い、リニエ公爵の企みを阻止するためには……ジェラールを正気に戻すことが必要だ。
たとえここでオルタンシアが彼の思想に共感した振りをしても、ヴィクトル王子は救えないだろう。
(だったら、可能性に賭けるしかない……!)
オルタンシアは意を決して、リニエ公爵を見据える。
そして、はっきりと告げた。
「いいえ、私はあなたの野望を阻止してみせます」
オルタンシアがそう宣言すると、リニエ公爵はまるでそういうのがわかっていたかのように笑う。
「それは残念です。あなたなら私の良き理解者になれると思っていたのですが……実にもったいない」
彼は言葉とは裏腹に、愉快そうに笑っている。
「最後に一つ忠告を、ヴェリテ公爵令嬢。勇気と無謀は違います。あなたの正義感は大変結構ですが、一つ間違えば命を失うということを念頭に置いておくべきでしたね」
婉曲的に「生きて帰すつもりはない」と言われ、オルタンシアはごくりと唾をのむ。
逃げるでも怯えるでもないオルタンシアの態度に、リニエ公爵は口角を上げた。
そして、隣で黙っていたジェラールへ声をかける。
「私の部下に始末させても良いのですが……やはりここは、ジェラール殿に任せるべきでしょう。……本当は、あなたも彼女を疎ましく思っていたのでしょう? 汚らわしい娼婦の娘が、大きな顔をして公爵家の人間として振舞うことに」
リニエ公爵のそんな言葉にも、ジェラールは表情一つ変えなかった。
ただ、冷たい視線でオルタンシアを見つめている。
「あなたの手で彼女を神への生贄に捧げるのです。そうすることが、間違って生まれてしまった命への最大限の礼儀です。さぁ、ジェラール殿」
……これが、彼の本心なのだろう。
口ではオルタンシアを評価するようなことを言いながらも、結局腹の底では汚らわしい娼婦の娘、間違って生まれてしまった命だと蔑んでいたのだ。
だが、今は傷ついている暇はない。
オルタンシアはしっかりとジェラールの動きを目で追った。
彼はリニエ公爵の言葉を受け、緩慢な仕草で腰に佩いた剣を抜く。
「……安心しろ、すぐに終わらせてやる」
ジェラールの言葉に、リニエ公爵が笑みを深める。
オルタンシアはそれでも、まっすぐにジェラールを見つめ続けた。
彼が本気になれば、それこそオルタンシアの命など一瞬で儚く散ってしまうだろう。
一度目の人生で投げかけられたひどい言葉が、冷たい視線が脳裏に蘇る。
ギロチンへと引きずられた時のような、圧倒的な恐怖が足元から這い上がってくるようだった。
だがそれでも、オルタンシアは泣くことも、悲鳴を上げることもしなかった。
ただまっすぐにジェラールを見つめ、彼に向かって告げる。
「私は、お兄様を信じます」
その言葉に応えるように、ジェラールが剣を構える。
そして――オルタンシアの視界に赤い花が咲いた。




