106 彼の目的は
馬車の窓から見えるリニエ公爵の邸宅は、少し前に訪れた時とは異なり物々しい空気を放っていた。
あちこちに警備の兵が配置され、油断なく侵入者を排除しようと目を光らせている。
……間違いなく、中でとてつもなく重要なことが行われているのだろう。
「念のためお伺いしますが、オルタンシアお嬢様はリニエ公爵の目的をご存じですか?」
「……王位簒奪、でしょう」
「ご名答。そして今、彼は前々から進めていた計画を実行に移したのです。……ヴィクトル王子を誘拐し、殺害するという計画を」
「っ……!」
リュシアンが発した言葉に、オルタンシアは思わず息をのむ。
リニエ公爵が王位簒奪を画策していると聞いた時から、ヴィクトル王子に魔の手が伸びる可能性についても考えてはいた。
だがまさか、こんなに早く実行に移すとは……。
「なんとかして、止めないと……」
「えぇ、勿論です。このままでは、ジェラール様のその片棒を担がされ……最悪、主犯格にされてしまう可能性もあります」
「そんな……!」
「普段のジェラール様ならこんな浅はかな計画に乗るとは考えられません。……以前から何かお悩みのようでしたから、その心の隙間をリニエ公爵につけ狙われたのでしょう」
リュシアンの言葉に、オルタンシアは胸が痛くなった。
ジェラールの異変には、オルタンシアも気づいていた。
だが、こうなる前に彼を止めることができなかった。
その事実が、重い後悔として胸にのしかかってくる。
「あの時にああしていれば……」と考え始めればきりがない。
オルタンシアは泣きそうになるのを何とか堪え、目の前のリニエ公爵邸を見据えた。
「行かなきゃ、お兄様を助けに」
後悔ならばいつでもできる。
だが、ジェラールを助けるのは「今」でなければならないのだ。
オルタンシアの言葉に、リュシアンはしっかりと頷いた。
「……えぇ。きっと、ジェラール様のお心を動かせるのはオルタンシアお嬢様だけでしょうから」
いつぞやのように襟巻きに擬態したチロルをしっかりと撫で、オルタンシアは静かに馬車を降りた。
しかしどうやってリニエ公爵邸に侵入するのだろうか。
オルタンシアのそんな疑問とは裏腹に、リュシアンはすいすいと邸宅の敷地へと近づいてくる。
当然、敷地を守るように警備の兵が配置されているのだが……。
「……わぁ」
一瞬のタイミングを見計らうように、リュシアンが駆け出す。
そして、軽やかな動きで跳躍したかと思うと……警備の兵の首のあたりに華麗に回し蹴りを決めてみせたのだ。
警備の兵は一瞬で意識を失い、リュシアンは大儀そうに眼鏡を掛けなおしてみせた。
「さぁ、先へ参りましょう、お嬢様」
「う、うん……」
リュシアンに手招きされ、オルタンシアは慌てて隠れていた場所から這い出した。
(本当に、リュシアンって何者なんだろう……)
今の今まで、オルタンシアはずっと彼のことを「性格は厄介だが優秀な文官」だと思っていた。
だがまさか、警備の兵相手にこんなに大胆に立ち回ることができるとは……。
(だから、お兄様にも重用されてたのかな?)
身近な人間の知らない面を見てしまったことで少し動揺しながらも、オルタンシアはリュシアンの後へ続く。
彼は明らかにピッキング用の道具で裏口をこじ開けると、躊躇することなく屋敷の中へと進んでいく。
その迷いのない足取りからすると、もしかしたら以前ここに来たことがあるのかもしれない。
(お兄様と、一緒に来たのかな……)
頭を占めるのは、ジェラールのことばかり。
リニエ公爵に誘拐されたらしいヴィクトルのことももちろん心配だが、何よりも恐ろしいのはジェラールがヴィクトル王子を害してしまうことだ。
ごくりと唾をのむオルタンシアに、まるで心を読んだかのようにリュシアンが口を開く。
「……ジェラール様はどうもヴィクトル王子に思う所があるようでしたから、心配ですね」
「えっ、お兄様が!?」
リュシアンの口ぶりは、まるでジェラールがヴィクトル王子に不満や怨恨を抱いているかのように聞こえる。
だがオルタンシアには、特に思い当るような節はなかった。
てっきり、魔神の力に操られ見境なく凶行へと導かれてしまったものかと思っていたのだが……。
「どうして、お兄様がヴィクトル王子を……?」
「おや、お心当たりはないのですか?」
こんな非常事態だというのに、リュシアンはどこか愉快そうな表情でオルタンシアの方を振り勝った。
「ジェラール様がヴィクトル王子を邪魔だと感じる理由は……一つしかないではありませんか」
「リニエ公爵みたいに王位を狙ってるってこと? お兄様に限ってそんなことはないと思うけど……」
「ふふ、やはりお嬢様は純粋でいらっしゃる。答えは……直接、兄君に尋ねるとよいでしょう」
そう言って、リュシアンは言葉をはぐらかしてしまった。
オルタンシアは深く追求しようかとも思ったが、とてもそんなことをしている場合じゃないと思いなおす。
屋敷内にも警備の兵が配置されていたが、リュシアンは手際よく身を隠したり、昏倒させたりしてどんどんと先へ進んでいった。
やがて二人がたどり着いたのは、豪奢な飾りの施された大きな扉の前だった。
「さぁ、参りましょう」
オルタンシアは頷いたのを確認して、リュシアンは扉をあけ放つ。
オルタンシアは意を決して、扉の向こうへと飛び込んだ。