105 お兄様の所へ
……いったいどのくらい時間が経ったのだろうか。
陽の光が届かない地下牢では、今が昼なのか夜なのかすらもわからない。
オルタンシアは壁に背を預け、ただぼんやりと虚空を見つめていた。
こうしていると……頭に蘇ってくるのは、温かく優しい思い出ばかりだ。
幼い頃、母と一緒に暮らした記憶。
明るく優しい母はオルタンシアの憧れだった。
自分も大人になったらあんな風になれるかなと、幼いオルタンシアはまだ見ぬ未来へ期待に胸を膨らませていたものだ。
昔の思い出を反芻していると、自然と公爵家に引き取られてからのことも蘇ってくる。
一度目の悲惨な人生とは違い、オルタンシアは父と兄とちゃんと「家族」になれたのだ。
いや……そう思い込んでいたのは、オルタンシアだけだったのだろうか。
(ううん、違う)
――「お前はヴェリテ公爵家の人間で、俺と父上の家族だ。何度もそう言っただろう」
ジェラールは確かにそう言ってくれたのだ。
あの言葉を、オルタンシアは嘘だとは思わない。
あの時、あの瞬間……ジェラールは間違いなくオルタンシアのことを「家族」だと思ってくれていたのだ。
それだけは、疑いたくなかった。
(……しっかりしなきゃ)
ここで沈み込んでいても何も変わらない。
ジェラールが変わってしまったのは、彼に危険が迫っているからだろう。
今度こそ、彼を救わなければ……!
気合を入れるように、オルタンシアはぎゅっと冷え切った指先に息を吐きかけた。
「まずは、ここから脱出しないと……」
どれだけ邪魔だと、迷惑だと言われ、冷たい目を向けられようとも……「はいそうですか」と大人しく引き下がるわけにはいかない。
たとえ一度目の人生のように、ジェラールに蛇蝎のごとく嫌われたとしても、彼を悲惨な運命から救い出さなければ。
「……よし!」
オルタンシアは意を決して立ち上がり、周囲を調べ始める。
「扉は……当然開かないか……」
固く閉ざされた扉を開けようと試みたが、当然開くはずもなかった。
地下に位置するこの牢には窓もない。
となると……。
「穴を掘って、外に出るしか……?」
オルタンシアは地面に転がっていた手ごろな石を手に取り、ごくりとつばを飲み込む。
そして、無謀にも石床の隙間を彫り始めようとした時――。
『シア!』
聞き覚えのある声と共に、遠くに光が見えた。
オルタンシアが驚いて目を丸くしている間に、鉄格子の間をするりとすり抜けて、腕の中に暖かなぬくもりが飛び込んでくる。
「チロル!?」
薄明りの中でも、チロルのくりくりとした大きな目がこちらを見つめているのがよくわかる。
まったく状況がわからずに混乱していると、更に予期せぬ声が聞こえた。
「お加減はいかがでしょうか、オルタンシアお嬢様」
「リュシアン!?」
見れば、ランプを手にしたリュシアンが鉄格子の向こうからこちらを見つめているではないか。
更に彼が扉に触れたかと思うと、錠のまわる音が聞こえてオルタンシアは仰天してしまった。
(どうして? リュシアンはお兄様の部下でしょ……? なのに、お兄様の意に反するような行動をするなんて――)
ぱちくりと目を瞬かせるオルタンシアの前で、牢の扉が重い音を立てて開いていく。
そうして、リュシアンは跪くとオルタンシアへ手を差し伸べた。
「お迎えに参りましたよ、お嬢様」
「リュシアン、どうして……? お兄様が命じられたの?」
「いいえ、私の独断です」
リュシアンのその言葉に、芽生えかけた希望は一瞬でしぼんでしまう。
もしかしたら、ジェラールが心変わりをしてオルタンシアをここから出してくれる気になったのではないか。
そんなことを考えてしまったが、やはり義兄の態度は頑なのようだ。
「ご心配なく。今ジェラール様は屋敷にはおりませんので」
「……どこへ、行ったの」
「リニエ公爵の所でしょう」
「っ……!」
リニエ公爵が王位簒奪を画策する危険な人物だ。
そんな人物に与する先に待っている未来は……。
(破滅……!)
彼が正気ならそんなことをするとは思えない。
いよいよ、魔神はジェラールをおかしくしてしまったのだろうか。
「お嬢様、ジェラール様はただいま大変危険な道に足を踏み入れようとしております。そんなジェラール様を止められるのは……オルタンシアお嬢様、あなただけなのです」
オルタンシアと視線を合わせるようにして、リュシアンはそう口にした。
その言葉に、オルタンシアははっとする。
「お兄様を止められるのは、私だけ……?」
「えぇ、私ももちろんジェラール様をお止めしましたが、私の話など耳に入れていただけるはずもなく……。公爵閣下とも連絡が取れる状況にはありません。後は、お嬢様だけが頼りなのです」
リュシアンはそう言って、深々と頭を下げてみせた。
その姿に、オルタンシアの胸は熱くなる。
(リュシアン……リュシアンもお兄様を助けたいから、お兄様の命令に反して私のところへ来てくれたのね)
オルタンシアが知る彼は、少し人をからかうような面もあったがおおむねジェラールに忠実だった。
そんな彼が、初めてジェラールを裏切ったのだ。
……ジェラール自身を、救うために。
「……ありがとう、リュシアン」
オルタンシアは差し出された手をしっかりと握り返した。
足に力を籠め、ふらつきながらも立ち上がる。
「私、お兄様の所へ行くわ」
何度拒絶されても、足掻くのをやめるわけにはいけない。
きっと女神が時間を戻し、オルタンシアに未来を託したのは世界を救うためなのだろう。
だがオルタンシアは、世界という大きな存在よりもずっと……「ジェラール」という、たった一人を救いたいという想いでいっぱいだった。
(私に、できるかな。ううん、やらなきゃいけないんだ……!)
ぎゅっと冷えた指先を握り締め、オルタンシアは地上へと続く階段の方を見据えた。
「ジェラール様がお嬢様をこの場所へ閉じ込めたのは屋敷中の知るところとなっています。誰かに見つかると厄介なことになりかねません。私が先導しますので、後に続いてください」
そう言うと、リュシアンはオルタンシアの肩にふんわりと目立たない色のローブをかけてくれた。
冷えた体があたたまり、それだけで力が湧いてくる。
「ありがとう、リュシアン」
足元のチロルを抱き上げ、オルタンシアはしっかりと頷いてみせる。
そのまま、リュシアンの後に続いてオルタンシアは地上へ続く階段を上る。
見慣れた屋敷の廊下には、珍しく誰もいないようだった。
もしかしたら、リュシアンが何か理由を付けて人払いをしてくれたのかもしれない。
裏口から外に出ると、そこには既に馬車が待機していた。
「さぁ、参りましょう」
リュシアンが差し出した手を取り、オルタンシアは馬車へと乗り込む。
頭の中はジェラールのことでいっぱいだ。
だから、オルタンシアは気づかなかった。
じっとこちらを見つめるリュシアンが、とてもこの非常事態だとは思えないほど愉快そうな笑みを浮かべていたことに。