104 これも、あいつのためだ
それ以来、ジェラールは周囲が少し心配するほどにオルタンシアに対して過保護になった。
危険になど近づいてほしくない。自分の目の届くところにいて欲しい。
だがオルタンシアは、それでも「私もヴェリテ家の娘ですから」といって父や自分の役に立とうとしていた。
共に領都を訪れた際に、彼女はずっとジェラールが抱え続けていた痛ましい過去の記憶に触れ、癒してくれた。
――「ねぇ、お兄様。私たち……はんぶんこにしましょう」
――「忘れないでくださいね、お兄様。私たち、はんぶんこなんですから。楽しいのも悲しいのも一緒です」
その言葉がどれだけジェラールの心を救ったのか、きっとオルタンシアは知らないだろう。
生まれた時から母に疎まれていた自分は、不要な人間なのだと思っていた。
両親から受け継いだ容姿と、公爵家の跡取りという肩書にしか価値のない。
伽藍洞の心を抱えた、空虚な人形。
それが、ジェラールという存在だった。
だが、オルタンシアに出会ってから……自分の心の欠けた部分が、少しずつ埋まっていくような気がした。
彼女と歩けば、見慣れた景色もまったく違うものに見えた。
まるで、モノクロの世界が色鮮やかに彩られていくように。
オルタンシアの存在は、ジェラールという人間の根本をも変えていくのだった。
だが、オルタンシアの存在がジェラールの中で大きくなっていくのにつれて、彼女への執着も増していく。
オルタンシアは「公爵家の娘なのだから」といって積極的に社交界に出て行こうとするが、ジェラールにとってそんな彼女の行動は好ましいものではなかった。
……愛らしい公爵令嬢であるオルタンシアには、きっと国中の貴公子が群がることだろう。
そう考えるだけで、たまらなく不快な感情が沸き上がって来るのだ。
できることなら、誰の目にもオルタンシアを触れさせたくはない。
……特に、あの王子の目には。
オルタンシアと同じ年頃のヴィクトル王子は、偶然出会ったことによりオルタンシアに興味を持ってしまったようだ。
彼がオルタンシアに接触しているのを見た途端、ジェラールの中のいまだかつてないほどの危機感と不快感が押し寄せた。
……ヴィクトル王子をオルタンシアに近づけてはいけない。
胸の奥底が、そう叫んで止まないのだ。
ヴィクトル王子がオルタンシアに近づいているのを見た途端、他の輩に対する危機感とは全く違う、びりびりと肌を刺すような本能的な焦燥が胸を焦がすのだ。
絶対に、彼にだけはオルタンシアを近づけてはいけない。
さもなければ……オルタンシアが、消えてしまうような気がしてならない。
これは、兄として妹を危機から救いたいという感情なのだろうか。
それとも――。
『早く認めてしまえばいいのに』
いつのまにか物思いにふけっていたジェラールは、傍らから聞こえてきた声に舌打ちする。
見れば、オルタンシアの幻影がこちらを見てくすくすと笑っていた。
『別に、おかしなことはないでしょう。あなたのお父様は私のお母様に惹かれた。それと同じことです。むしろ、自然なことでしょう?』
「……あいつは俺の妹だ」
『本当にそう思っているのですか? そう思い込んでいるだけではなくって?』
「今すぐに消えろ」
傍らの護身用の剣に手を伸ばすと、オルタンシアの幻影は少しだけ寂しそうに笑った。
『可哀そうなお兄様。私はお兄様を救いたかっただけなのに』
最後にそう呟いて、オルタンシアの幻影は姿を消した。
室内に誰もいなくなったことで、ジェラールは安堵の息を吐く。
ひとまずは消えてくれたが、オルタンシアの幻影はきっとまたジェラールの前に姿を現すだろう。
夜眠れば悪夢にうなされ、最近では昼間でもあの幻影に付きまとわれる始末。
……だが、それももうすぐ終わるだろう。
ジェラールはそっと執務机の上に置かれた手紙に視線を落とす。
――「偽りの太陽を討つことにご協力いただけること、心より感謝申し上げます」
リニエ公爵からの手紙だ。
そうだ、あと少しでこの悪夢も終わる、
……オルタンシアを苦しめる元凶を断つことで、オルタンシアを救うことができるだろう。
「……これも、あいつのためだ」
あの小さな妹が笑顔でいられるのなら、どれだけ自らの手を血に染めることも厭わない。
そのためにも、オルタンシアを閉じ込めているうちにすべてを終わらせなければ。
「……決断されたのですね」
不意に、先ほどとは別の声が聞こえる。
ジェラールが顔を上げれば、いつの間にやって来たのかリュシアンが感慨深そうな瞳でこちらを眺めていた。
「ジェラール様のご覧になられた未来視では、ヴィクトル王子がいらっしゃる限りオルタンシアお嬢様は死の運命を避けられなかった。ならば、ヴィクトル王子を取り除いてやればいい。ごくごく簡単なことです」
こちらを見つめたまま、リュシアンは意味深に笑う。
「なぁに、どんな悪事もバレなければなかったことと同じです。ジェラール様とリニエ公爵閣下なら、これだけの大事でもつつがなく遂行することが可能でしょう。……私は、ジェラール様のご決断に賞賛を送りますよ」
ジェラールはその言葉には返事せず。ただ窓の外へ視線を見た。
……いつかオルタンシアと見た双子星は、どこにも姿を見つけることはできなかった。