103 大切な妹
……オルタンシアは、ジェラールの大切な妹だ。
生まれた時から、母には愛されていなかった。
父はジェラールのことを息子として迎えてくれたが、二人の間には奇妙な距離感があった。
ジェラールにとって父は父親である前に「公爵」であり、父にとってのジェラールは息子である以上に「跡取り」という意味合いが強かった。
公爵家の子息として文句のない待遇は与えられていた。だが、それを無償の愛だと感じたことはなかった。
そんなジェラールの孤独な人生に現れたのが、義妹――オルタンシアだ。
父が愛人を作っていたことに文句を言うつもりはない。
母のあのヒステリックな面を考えれば、無理もない行動だ。
いきなり現れた義妹は、父にも自分にも全くといっていいほど似てなかった。
……彼女は、父の実子ではないのかもしれない。
ジェラールは真っ先にそんな疑念を抱いた。
だからといって、オルタンシアを公爵家から追い出すつもりはなかったが。
父がオルタンシアを引き取ると決めた以上、ジェラールはその決定に口出しするつもりはない。
政略結婚の駒にしたいのか、それとも単に愛人の面影を宿す娘に情が湧いたのか。どうでもよいことだ。
ジェラールは彼女に深く関わるつもりはなかった。なかった、のだが……。
――「おはようございます、ジェラール様」
彼女は、笑顔でジェラールにそう声をかけてきたのだ。
とっさのことで、ジェラールはどう反応していいのかわからなかった。
父のことは「お父様」なのに自分は「ジェラール様」なのかと、少しだけ不満を覚えもした。
結局、その場は何も言うことなく立ち去ってしまった。
だがその後で、ジェラールは彼にしては珍しいことに……自らの行いを、反省したのだ。
オルタンシアは父がヴェリテ公爵家に迎え入れた娘だ。
使用人の一部には、娼婦の娘などといって彼女を軽んじるような動きもある。
ジェラールが彼女に辛辣な態度を取れば、彼らを増長させるだけだ。
逆にいえば……ジェラールが彼女を尊重する態度を取れば、使用人も考えをあらためるだろう。
だからこれは、公爵家の秩序を保つために必要な行為なのだ。
……などと誰に対するわけでもない言い訳を並べ立てながら、ジェラールは決意した。
――今度は、自分から彼女に歩み寄ろうと。
そんなジェラールの決意を後押しするように、公爵邸では事件が起きた。
オルタンシア付きとなったメイドが、屋敷の備品を盗んだと疑いをかけられたのだ。
オルタンシアはメイドの冤罪を晴らそうと立ち回り、新たに授かった加護を用いて真犯人を暴き出した。
ジェラールは彼女の行動力に驚いた。
そして……気が付けば助け舟を出していたのだ。
――「……使用人の分際で、ヴィリテ公爵家の人間に口答えとはどういう了見だ」
ジェラールがはっきりとそう告げたことで、使用人たちも肝に銘じたことだろう。
……オルタンシアの存在を、決して軽んじてはいけないと。
その後すぐに、ジェラールはオルタンシアと二人だけで話す機会を得た。
公爵邸の廊下の曲がり角を曲がった途端、オルタンシアとぶつかったのだ。
オルタンシアはジェラールを見て驚いたように目を見開いた。
そして、彼女の口から出てきたのは……。
――「お、兄様……」
彼女は確かに、ジェラールのことをそう呼んだ。
その途端ジェラールの胸に帰来したのは……確かな歓喜だった。
その時初めて、ジェラールは目の前の少女を「妹」だと認識することができた。
胸に湧き上がってくる温かな感情が、もしかしたら「愛」というものなのかもしれない。
……目の前の小さな命を、自分が守らなければならない。
自然と、そう思うようになっていたのだ。
――「お前が庇ったあのメイド、屋敷に残ることが決まったそうだな」
そう声をかけると、オルタンシアは嬉しそうに笑ってくれた。
――「お兄様が助けてくださったおかげです! あの時のお兄様、とっても頼もしかったです! えへへ、ありがとうございます!!」
その無邪気な笑顔が、弾むような声が、ジェラールの心を厚く覆う氷を少しずつ溶かしていくようだった。
幼い頃に親の愛情を得られなかったジェラールは、他人への慈しみ方、愛し方がわからない。
それでも、小さな妹を前にすると……とにかく何かしてやらなければという気分になるのだ。
――「悪いがそろそろ時間だ。また何か困ったことがあったら俺に言え」
そんな言葉と共に、見よう見まねでオルタンシアの小さな頭に触れ、ジェラールはその場を後にする。
……内心では、あのくらいの年の少女はいったい何をすれば喜ぶのかと考えながら。
庭園に咲く稀少な花が綺麗だと彼女が言えば、庭師に命じて花壇を作らせた。
あのくらいの年の少女は可愛らしいドレスを喜ぶと聞けば、国内随一のファッションデザイナーを呼び寄せた。
オルタンシアはジェラールのそんな計らいを喜んでくれた。少なくとも、ジェラールの目にはそう見えていた。
オルタンシアが喜ぶと、ジェラールの胸の内のろうそくの一本にぽっと灯がともるようだった。
その炎は、少しずつ……ほんの少しずつジェラールの心を覆う厚い氷を溶かしていく。
そう思えてならなかった。
転機が訪れたのは、そのすぐ後のことだった。
オルタンシアが誘拐された。
屋敷で大人しくしていることなどできるはずもなく、ジェラールは持てる力の限りを尽くして妹の行方を捜した。
そして、邪教う崇拝集団に彼女が囚われているとわかった暁には……周囲が止めるのも聞かずに、真っ先に乗り込んでいったのだ。
――早くオルタンシアを助けに行かなければ。
――今度こそ、手遅れになる前に。
そんな思いが、胸の奥底から湧き上がってくる。
――今度こそ……?
そんな疑問が一瞬頭をかすめたが、深く考えている暇はなかった。
とにかく、オルタンシアのもとへ急がなくては。
――「助けて……お兄様っ!」
その声を聞いた途端、自分の中の理性の糸が焼き切れたのがわかった。