102 もう一人のオルタンシア
「お考え直しください、ジェラール様! お嬢様を地下牢に閉じ込めるなんてあんまりです!!」
目の前でぎゃんぎゃん騒ぐ女の声に、ジェラールは心の中で舌打ちした。
「お嬢様はもう社交界デビューをされた一人前の淑女なんです! 少しくらい帰りが遅くなったからって、地下牢だなんて――」
「くどい」
そう吐き捨てて睨みつけると、目の前の女――オルタンシア付きのメイドは怯えたように息をのんだ。
「そいつをここから摘まみ出せ。更に騒ぐようなら屋敷からも追放しろ」
「ジェラール様!」
オルタンシア付きのメイドの女はなおも食い下がろうとしたが、他の使用人が何か耳打ちすると、渋々といった様子でジェラールの前から去っていった。
あの様子だと、完全に納得したわけではないだろう。
だが地下牢へと続く階段の前には番を置き、誰も近づけないようにしてある。
彼女がどれだけオルタンシアの待遇に異を唱えようが、近づくことすらできないのだ。
……そう、誰もオルタンシアに近づけはしない。
ジェラールが鍵をかけ、閉じ込めたのだから。
馬車の中で見たオルタンシアの泣きぬれた顔、それに、牢に閉じ込められた時の絶望に満ちた表情が脳裏に蘇る。
可哀そうだと、思わないわけではない。
だが、それ以上に……ジェラールの胸に湧き上がってくるのは昏い喜びだ。
ああして閉じ込めておけば、誰もオルタンシアに近づけはしない。
ジェラールの知らないうちに彼女に接近していたリニエ公爵も……ヴィクトル王子もだ。
そう考え安堵した瞬間、背後からひやりとした声が聞こえた。
『ひどいです、お兄様』
その声に、ジェラールはわずかに息をのむ。
そして……ゆっくりと背後を振り返る。
そこにいたのは、地下牢に閉じ込めたはずのオルタンシアだ。
いや……オルタンシアの『幻影』とも呼ぶべきだろうか。
生気のない、まるで幽鬼のような存在感。
ジェラールの義妹と同じ姿をしながらも、感じる印象は真逆だ。
本物のオルタンシアが昼だとしたら、彼女は夜だ。
『私を牢獄に閉じ込めるなんて……また見殺しにする気ですか?』
そう言って、彼女は本物とは似ても似つかないうっそりとした笑みを浮かべた。
……彼女はいつからか、ジェラールの前に姿を現すようになった。
そう、まるであの悪夢が実体化したかのように。
ジェラールはこれが本物のオルタンシアでないことくらいは理解している。
相手にする価値もない、ただの幻覚だ。
そうわかってはいても、彼女はいつも的確にジェラールの心を揺らめかせるのだ。
彼女は決まってジェラールが一人の時に現れる。
いつもは、無視をしていた。
だが、オルタンシアのことで心に迷いが生じていたのかもしれない。
ジェラールはつい、義妹の幻覚に返事をしてしまったのだ。
「……それが、一番あいつのためになる」
そう呟くと、彼女は笑った。
『嘘つき。本当は私を誰にも取られたくないんでしょう?』
そう言って、彼女は背後からするりと抱き着くように腕を回してきた。
温かな人の体温を感じることはない。ただ、彼女が触れている箇所に奇妙な違和感があった。
『だって、前の時は王子に取られそうになってしまいましたもんね。自分のものにならないのなら、死んでしまってもいいと思った?』
「……何を言っている」
『忘れちゃったんですか? それとも……忘れたふりをしているだけ?』
彼女はくすりと笑うと、自らの首をそっと撫でてみせた。
よく見れば、そこには真横にうっすらと線が入っている。
……まるで、切断された首を再び繋げたかのように。
その光景を見た瞬間、ジェラールの背筋にぞわりと冷たいものが走った。
『可哀そうなお兄様。誰にも愛されなかったから、愛し方がわからないのでしょう? 自分から近づくこともできず、かといって他人に取られるのも我慢がならない。だったらいっそ、突き放してしまえばいい。消えてしまえばいい。でも実際にそうなったら、世界を壊すほどに後悔してしまうのにね』
目の前の女は意味不明なことをのたまいながら、くすくすと笑っている。
ぞわりとするような不快感に、ジェラールは眉根を寄せた。
「今すぐに消えろ」
強い口調でそう命じたが、オルタンシアの幻影は消えることはなかった。
それどころかジェラールを翻弄するように、そっと顔を近づけてくる。
『ねぇ、私のことが大事ですか? 私を愛してる?』
「……お前には関係ない」
『それは本当に……「家族」として?』
耳元で囁かれた声に、一瞬だけ心臓が嫌な音を立てる。