101 また嫌われちゃったのかな
気まずい空気のまま、ジェラールが乗ってきたと思われる馬車まで着いてしまった。
中へと乗り込み、オルタンシアはいつものようにジェラールの隣へと腰を下ろす。
そして、扉が閉まったのを確認して口を開いたのだが……。
「あの、お兄さ――っ!」
兄への呼びかけは、最後まで音にならなかった。
言葉の途中で、ジェラールに強く肩を掴まれたからだ。
そのままジェラールは、オルタンシアの肩を強く背後へと押し付ける。
勢い余って後頭部が窓ガラスにぶつかり、鈍い音と共にじんじんとした痛みが広がっていく。
オルタンシアは兄の乱暴な行動に息をのむ。
肩を掴む痛みよりも、ぶつけた後頭部の痛みよりも、何よりも……殺気すら感じさせる鋭い瞳で、こちらを睨みつけるジェラールが恐ろしかったのだ。
「……何のつもりだ」
ギリギリとオルタンシアの肩に爪を食いこませながら、ジェラールは唸るように低い声でそう告げた。
その視線の強さに。凍えるような冷たい気迫に、オルタンシアは呼吸をするのも忘れて固まることしかできなかった。
(あぁ、これは)
自分の意思とは無関係に、記憶が呼び覚まされてしまう。
オルタンシアは、今の彼を知っている。
これは――。
(私が処刑される前の、お兄様だ)
あの時と同じように、愛情ではなく憎しみを。
家族ではなく、他人を見るような目で。
ジェラールはそこにいた。
「何故リニエ公爵の邸宅にいた。あそこで何をしていた」
問いかけではなく、詰問――いや、尋問のような口調だった。
ショックでうまく頭が回らなかったが、兄が自分へ何かを問いかけているということに気づき、オルタンシアは震えながら唇を開く。
「わ、私は……あの教団の情報を探ろうと……」
オルタンシアがそこまで言うと、ジェラールは心底不快だとでもいうように舌打ちした。
彼のそんな乱暴な様子は見たことがなくて、オルタンシアは思わず言葉に詰まってしまう。
「屋敷で大人しくしていろと言ったのが、聞こえなかったのか」
激怒を押し殺したかのような声で、ジェラールがそう口にする。
恐ろしかった。彼の何もかもが恐ろしかった。
大好きな兄が、自分を見殺しにしたあの冷たい人間に戻ってしまったのかもしれない。
そう考えると思考がぐちゃぐちゃになって、意図せず涙があふれてきてしまう。
「わ、私はただ……お兄様が心配で……」
「俺が心配、だと?」
ジェラールが口元に笑みを浮かべる。
だがそれはいつものように、オルタンシアの心を明るくしてくれるような笑みではなかった。
こちらを嘲るような、底知れない悪意を感じる表情だったのだ。
「お前はどこまでも迷惑だな」
その言葉が、鋭いナイフのようにオルタンシアの胸に突き刺さる。
「お前に何ができる。ただいたずらに場を引っ掻き回して、それで満足か」
言葉の棘が、オルタンシアの心を抉っていく。
体を傷つければ血が流れるように、心を傷つけられれば今までのあたたかな思い出が消えてしまうのではないかと、オルタンシアは震えた。
「お前には失望した。それでよく、ヴェリテ家の人間だなどと名乗れたものだな」
――「家族のつもりではない。家族だ」
――「お前はヴェリテ公爵家の人間で、俺と父上の家族だ。何度もそう言っただろう」
かつて彼がくれた言葉が、むなしく耳に蘇る。
オルタンシアは反論する気力もなくなり、ただぽろぽろと涙をこぼすことしかできなかった。
ジェラールはそれ以上何も言わなかった。
不器用に慰めの言葉をかけてくれることも、頭を撫でてくれることもない。
手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、まるでどこか遠いところにいるようだった。
気が付けば、馬車はヴェリテ公爵邸の敷地へと帰り着いていた。
馬車が止まると、今まで黙っていたジェラールがオルタンシアの腕を掴む。
「来い」
たった一言、それだけ言うと、彼は乱暴な手つきでオルタンシアを馬車から降ろす。
そうして、オルタンシアが地面に足を付けたことを確認すると、まるで引きずるようにして歩き始めたのだ。
「ジェラール様!? いったい何を――」
二人の帰りに気づいた使用人たちが駆け寄って来るが、ジェラールはそんな使用人たちを一蹴する。
「黙れ、口を挟むな」
まるで凍り付きそうなほど冷たい空気を纏うジェラールに、涙に濡れた顔で呆然とジェラールに引きずられるオルタンシア。
そんな尋常でない事態に、使用人たちは皆驚愕していた。
だが、誰もジェラールに逆らえる者はいない。
ただ、オルタンシアがジェラールにどこかへ連れていかれるのを見つめることしかできなかった。
ジェラールはオルタンシアの腕を掴んだまま、あまりオルタンシアが入り込んだことのない区画へと進んでいく。
そして古い扉を開けると、階下へと続く階段を下り始めた。
(寒い……)
堅牢な石造りの階段は、一段降りるごとに寒さが這いあがってくるような気がした。
やがて階段を降り、たどり着いたのは……冷たい牢獄だった。
「ひっ!」
その冷え切った佇まいに、オルタンシアの頭の中の忌まわしい記憶が刺激される。
一度目の人生で、処刑される前に牢獄に閉じ込められたことがあった。
妃候補暗殺の罪を着せられたオルタンシアは、何度も何度も尋問を受け、冷たい牢獄の中で絶望の夜を明かした。
自分は無罪だと訴えても、誰も信じてはくれなかった。
いつ断頭台へ送られるのかと思うと、夜もろくに眠れず寒々しい牢の片隅で体を縮こませることしかできなかった。
二度目の人生でも、邪神崇拝集団に誘拐され牢に閉じ込められた。
遠くから犠牲者の悲鳴が聞こえるたびに、次は自分の番なのではないかと震えあがることしかできなかった。
地面に根が生えたかのように動かないオルタンシアの背を、ジェラールが軽く押す。
オルタンシアはたたらを踏み、牢の中へと足を踏み入れてしまう。
その途端、背後で扉が閉まる音がしてオルタンシアははっと我に返る。
とっさに振り返れば、鉄格子の向こうからジェラールが冷たい目でこちらを見下ろしていた。
「お、兄様……?」
今の状況が理解できずに、オルタンシアはただ目の前の義兄に呼びかける。
だが、帰ってきたのは冷たい一言だった。
「そこで頭を冷やせ」
それだけ言うと、ジェラールはくるりと背を向けて去っていく。
一拍遅れて状況を理解したオルタンシアは、必死に鉄格子に飛びついて叫んだ。
「待ってください、お兄様! 待って!!」
ジェラールは振り返らない。オルタンシアの声が、聞こえていないわけがないのに。
「待ってください! 私の話を聞いて! お兄様!!」
遠ざかる義兄の背中に向けて、オルタンシアは必死に言い縋った。
だが鍵をかけられた牢の扉が開くことはなく、オルタンシアとジェラールの距離はどんどんと開いていく。
「お願い、お兄様……行かないで……」
やがて地上へ続く階段の扉が閉まる音がして、オルタンシアの弱弱しい声はすすり泣きへと変わっていく。
(今のお兄様は、昔のお兄様と一緒だ……)
やはり魔神が近づきつつあり、ジェラールに変化を及ぼしているのだろうか。
そう思いたかったが、どうしても恐ろしい疑念が拭えない。
(私……また、お兄様に嫌われちゃったのかな……)
「屋敷で大人しくしていろ」という彼の言葉を無視して、危険な場所に飛び込んだから。
だから、ジェラールもついに愛想をつかしてしまったのかもしれない。
(……おとなしく、お兄様の言うことを聞いていた方がよかったのかな)
深い絶望は思考を鈍らせる。
おとなしくジェラールの言うことを聞いていたとしても彼は助けられない。
そうわかっていても、オルタンシアは自らの行動に悪い点を探さずにはいられなかった。
外界と隔絶された地下牢では、オルタンシアの息遣い以外の音は聞こえない。
オルタンシアはただ、冷たい石床に腰を下ろし縮こまっていた。
こうしていると、二度目の人生でやり直せたことはすべて夢だったのではないかと思えてくる。
次に牢の扉が開かれた時、再び処刑を告げられるのでは……と、そんな暗い考えすらよぎってしまう。
(私、今回も失敗しちゃったのかな……)
考えれば考えるほど、どんどんと思考は底なし沼へと沈んでいくようだった。
だったらせめて現実を忘れて、あたたかな思い出に浸りたい。
オルタンシアはぎゅっと膝に顔を埋めて、目を閉じた。