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薫る竜の島の物語  作者: 椎名 碧
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フランキンセンス

 少年がまだ目を覚ましそうになかったのが、呼吸はかなり落ち着いて熱も下がってきた。サクラはカリオフィレンの元へと向かった。竜たちは役割を終えると自らの巣窟へと戻っていく。辺りは暗くなり他の竜たちは既にいなくなっていたが、カリオフィレンは広場の片隅で羽を休めていた。


「ありがとうカリオフィレン、心配かけたね。あの子はもう大丈夫みたいだよ」


 手を伸ばすと、喉を鳴らしながら大きな顔をその掌に摺り寄せてくる。あの時カリオフィレンが威嚇してくれなかったら、少年はそのまま検疫に連れて行かれ、治療が間に合わなかったのは明白だった。ただカリオフィレンとてただ少年を庇ったわけではない。もし何某かの疫病を患っていたりしようものなら、本当にその場で焼き払いかねない。あくまでも安全を確信したからこその行動だった。


「あの子、王都に連れて行かれるんだって。仕方ないよね」


 あの時自分に伸ばした手が忘れられない。既に何度も『運ばれた不幸』と呼ばれる者と相対した事はあったが、初めて見た生きた異国人だった。多少の差はあれほとんどが白く透き通る肌を持つ王国の人間。瞳はブラウンか黒が多く、見たことのないエメラルドグリーンの瞳の美しさに目を奪われた。


「どうしよう。あの子は実験体とかにされちゃうのかな」


 様々な不安が押し寄せてきてカリオフィレンにしがみ付く。あの時助けたはいいが、それ以上に過酷な運命が待ち受けるなら、助けた意味がない。ボロボロになり、傷つき、それでも尚瞳が生きたいと伝えていた。


 竜はそんなサクラに数度顔を擦りつけると、金色の翼をゆっくりと羽ばたかせた。これは竜が帰る合図。サクラがカリオフィレンから離れると更に大きく羽根を動かし、物凄い勢いで上昇し星空の彼方へと消えていった。


 少年が目を覚ましたのはそれから数日経っての事だった。あまりにも目が覚まさないから、ルートから落ちた衝撃で頭のどこかをやられたのかと、その間に脳波検査や画像検査を行い、何度もカンファレンスが開かれた。同じ人間であるはずだけれど、外界と遮断されてからもう数百年は経とうとしている。もしかしたら違う進化を遂げているのかもしれない。そんな話題が飛び出て、マッドサイエンティストなドクターからは一度中を覗いてみたい、というのを周りがなんとか抑え込んだりという顛末もあった。


 エメラルドの瞳の少年は、流石に混乱をしていたのだろう。起きた瞬間パニックになって大暴れをした。鎮静剤を注射されそうになった時、食堂から戻ったサクラに飛びつき、わーわー泣き出した。




「あの時は大変だったね」


 当時を思い出してサクラは困ったように笑った。横には義足を付けた少年、というにはもう随分と成長し、青年となったカルテリィが珈琲を啜っていた。


「仕方ないだろ。足は痛いし、というか無くなっているし、見も知らない所で知らないおっさん達に囲まれていたんだから」


 久々の大雨、しかも雷雨にサクラはふと当時の事を思い出していた。カルテリィはサクラが付けた名前だ。フランキンセンスの学名から取ったその名前は、記憶が混乱し名前が思い出せない彼に暫定的に付けたもの。本名はライオネットというが嫌な思い出ばかりだというので、カルテリィで役場に登録した。


 カルテリィの発する言葉は完全ではなかったけれど、この国と同じ言葉を使っていた。いわく、彼の住んでいたスラム街は様々な人種がいて、隣り合う物でも言葉が通じなかったり、訛りが強くなっていたり、というまさにカオスだった。生まれ落とされた彼を保護した孤児院が、たまたまこの言語を使っており、おかげでコミュニケーションを取るのに支障がなかったのは不幸中の幸いだった。

 犯罪のるつぼだったスラム街で、ある日彼は盗賊に取っ捕まった。そんなのは日常茶飯事だったから、自分もついに捕まったと観念していた。殺されるか売り飛ばされるかと思っていたら、足に得体の知れない石を埋め込まれ、泣き叫びながらの抵抗も空しく、うねりに向かって放り出された。彼の記憶はここで途切れていた。


 あれから順調に回復していったカルテリィを、待ち受けていたのは王都からの呼び出し。彼の処遇等を決めなくてはいけなかった。滅多に生き残ることのない『運ばれた不幸』である彼は、その生体は研究者に興味を抱かれ、養育庁からは厄介者だと疎まれた。人権をどこまで与えればいいのか、古い文献を遡り、有識者と呼ばれる人々が長い事時間をかけて検討された。


 この状況を打破したのが、再びカリオフィレンの存在だった。それはカルテリィを助けるためというよりも、王都に付き添っていったサクラが戻ってこないことに業を煮やした為かもしれない。広大な王城の上空にカリオフィレンを始めとする沢山の竜が集まってきた。一番驚いたのは普段は樹海の奥の霊山にいるダマスケナが最後尾にいる事だった。ダマスケナが羽ばたく度に噎せ返るようなバラの匂いが充満する。近くであればその香りの強さに失神してしまうが、それは遥か上空だったため、地上に到着する時には薄まり、なんとも香しい香りとなっていた。


 竜を崇拝し、竜と共に生きる人々にとってそれは歓喜の出来事であり、カリオフィレンは半年に一度登城するなどの様々な条件のもと、サクラと暮らすことが王によって認められた。


「この国で一番最初に思ったのは、なんていい香りがする所なんだろうって事なんだ」

「そうなの?」

「うん」


 カルテリィが育ったスラム街は衛生環境が酷い所だった。排泄臭や腐敗臭が漂い、そこにアルコールや麻薬の匂いが混ざる。そんな状況だった上に、野菜が入っているかどうかわからないようなスープと、いつ焼いたのかわからないパン。食事が美味しいと思ったことはないし、カルテリィンはいつも頭痛に悩まされていた。


「空気が澄んでいて、呼吸が楽になったんだ。きっとフィトンチッドのせいだね」


 この島の竜たちが好むのは沢山の森。そこから吐き出される大量のフィトンチッドのおかげで、この島の竜たちは大人しいと言われている。フィトンチッドは植物が吐き出す揮発性物質。動くことが出来ない植物が、時に菌や害虫から自らを守るために、時に余計な植物が生えないように、または甘い香りに誘われてきた虫たちに受粉させるために、お互いの存在を確認するかのように分泌する。


 だから森の空気は澄んでいて、その恩恵がこの島全土に渡って存在していた。どんなに土地開発を行おうと、無暗に自然を破壊しない。それは竜と生きることを選択したこの王国の大切な掟だった。


 サクラたちは当たり前のようにそれらの恵みを享受していたが、大陸から来たカルテリィには驚きの世界だった。当たり前のように各家庭には香炉が存在し、日常的に香りの成分を活用する。カルテリィから見たら夢のような世界だった。あんなに彼を悩ませていた頭痛は、ここにきて殆ど起きていない。


「まぁ確かに当たり前になっているかもだけど、それを学問として極めちゃうのってやっぱりすごいよ」

「サクラの為にがんばったからね」


 面と向かって言われると恥ずかしい。サクラは目をぱちくりさせ、視線を外へと漂わせた。窓枠をガタガタと揺らす嵐は、もうしばらくここに滞在するらしい。室内の湿度は少しずつ高くなり、窓の内側には露がしたたり落ちていた。今日漂わせている香りはフランキンセンス。サクラは気持ちがざわつく時、いつもフランキンセンスを漂わせている。その昔儀式なども使われていたこの香りは、αピネンのスッとした香りの中に、リモネンの柔らかさを持つ。リラックス作用が強いが、αピネンの作用で脳の血流が増えるせいか、心地よく頭が冴えてくる。サクラはそれを「ばらついた書類をトントンって整える感じ」と表現していた。心を整えるという意味では、まさに瞑想にうってつけな香りとされていた。


「これフランキンセンスだけど…いつもと違う?」

「正解。カルテリィじゃなくてサクラ」

「あ、『私』なんだ。珍しいね」

「そう」


 クスクスと笑いあう。一般的に流通しているのはBoswellia carteriiだが、今日ディフューズされているのは貴重なBoswellia sacra。良い樹脂が手に入ったから、国立研究所に頼んで超臨界蒸留で抽出したもの。だからサクラは自分の名前になっていても、その香り自身を嗅いだ記憶がほとんどない。


「いー香りだねぇ。いつもよりフルーティな感じがする」

「本当はしっかり休んでほしいけどね…」

「仕方ないよ。天空庁からの連絡では今の所問題ないって話しだけどね」


 読んでいた書類をテーブルに置き、肺まで大きく吸い込むと、ざわついた心が凪いでくる。嵐の前はうねりが多く発生する。その一つ一つをつぶさに観測し、何かあれば対応しなければいけない。この所、泊まりでの仕事が多く、今も何かあれば直ぐに駆けつけられるように自宅待機中だ。サクラはあの時以来、嵐は少しトラウマになっていた。心の奥の方がざわついてしまう。竜騎士の三番隊隊長にまでなった彼女だから、それを表に出すことはないけれど、軽く眉間に皺が寄り、いつもより甘い飲み物を好む。


 本当はちゃんと休んでほしい。でも彼女の仕事が、心情がそれを許さない。


 だからサクラが完全にリラックスしないように、この香りを選んだ。そうやって心身のケアを香りで行うやり方を学校で長い事学んでいた。


 カルテリィへの条件として学問があった。識字率が高いこの王国で、読み書き出来ないのは問題がある。駐屯所の近くにある教会学校に通う事となり、そこで彼はアロマテラピーと出会った。この国ではフィトンチッド、即ち揮発性成分の中でも芳香成分を抽出し、それを医療や生活などに役立てている。教会の牧師はそのマスターの一人だった。


 そこでカルテリィの匂いの閾値が他の人よりも低く、その為他の人よりも敏感に臭いを嗅ぎ取っていたからではないか、と診断された。たしかにあの時ダマスケナの発した匂いも直ぐに感じ取り、長い間嗅いでいると頭痛がしてきた。そのメカニズムなどが知りたくなり、牧師と同じマスターを目指すようになり、今では研究員にまでなった。


 そこに至るまでの過程で『運ばれた不幸』と揶揄し、苛める人間がいなかったわけでない。それでも歯を食いしばり、サクラが、時にはマージュなど竜騎士団の仲間が保護者として壁となり、少しずつ理解者を増やし、今では彼の事をそう呼ぶものはいない。むしろ端正な顔立ちとオリエンタルな雰囲気で、義足の貴公子と影で囁かれるまでになった。


「僕の大切なサクラが喜ぶから、頑張ったんだ」


 にっこりと微笑むその顔には、あの頃のあどけなさはもうなくなっていた。


フランキンセンスはオマーン産が至高とされていて、私もソマリア産やエジプト産と比べてみて、オマーン産のフランキンセンスが一番好きです。香りにえぐみがないというか、甘い柑橘の様な香りを忍ばせているように感じます。

フランキンセンス自体もすーっとしているのに『寒い』『冷たい』というわけじゃない。割と荒涼としたところなのに、その香りが森の中を彷彿させるのはピネンの作用によるのかもしれないですね。


一般流通しているのは水蒸気蒸留で抽出されたもので、抗カタル・去痰など呼吸器系への鎮静作用もさることながら、精神安定や精神強化などメンタルを支える作用として大いに期待できます。

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