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記憶の糸・闇の中の虹

作者: 古河 渚

記憶の糸・闇の中の虹



1 記憶の糸


 僕は半ば放心状態でフラフラと歩いていた。いったいどうやってここまで来たのだろう?


 たしか車でケーブルカー乗り場の近くまで行き、そこから歩いて乗車口へと向かったはずだ。終点で降りて、山頂へと伸びているハイキング用の小道を歩いてきたにちがいない。もうどのくらい歩いたのだろう? さっきまで木々の間から眼下に見えていた街並は見えなくなったが、それは僕がハイキング道からそれて、道のない深い森に入ったからだ。


 午前の太陽を浴びた五月の新緑は美しい。木々たちは、これでもかというほどの躍動感と生命力を放射しているはずなのに、僕にはそれを感じることができなかった。

 ここには、奈々子と何回かハイキングに来た事があった。僕と彼女はもうすぐ結婚することになっていたのだ。


 今日が何曜日なのかもわからなかったが、五月の連休後だからか、まったく人の気配がなくハイキング道でも人とすれ違うことはなかった。分け入った森の中には狸や猪が通るケモノ道があり、そこを歩くのは比較的楽である。気がつくと、山の斜面を降りて行った先に草原があり、そこにラピスラズリのような藍色に輝く沼が見えていた。そこに行きたいと思った。それは何年か前に飛行機から見たカナダにある湖沼地帯の沼や湖に似ている。飛行機の窓から観た眼下には、たくさんの沼や湖があり、それぞれが印象的な青緑や藍色をしていた。だが、それらは飛行機から見えただけで、実際にその沼にたどり着いた人はいないのかもしれない。いま僕が観ているラピス色の沼だって、まだ誰もたどり着いた人はいないに違いない。そこに着いたならば、ただ忽然と消えてしまえばいい。たぶん、あの沼ならば、僕の痕跡をこの世界から完全に消滅させることができるだろう。


 沼に向かって深い森の中を進んでいくと、少し広い小道に出た。両脇から照葉樹の枝が延びているせいか薄暗いが、地面は踏みしめられていて歩きやすい。観ると、色とりどりの菌糸類や光輝く鉱物が道の両袖に点在している。どこかで同じような場所を通ったような気がした。

「そうだ、いつかテレビゲームで観た小路がこんな感じだったよな」

 奈々子が僕の部屋に遊びに来ると、二人でよくテレビゲームをやった。午前中にきて翌日まで、徹夜で連続二十時間くらいやったこともある。

「奈々子はテレビゲームが好きだったんだ」

「そう、それで、あなた達どうやって出会ったのかしら?」

「僕は奈々子に絵を見に行かないかって誘ったんだ」

 そのとき僕は誰と話していたのだろう? 話し相手はいるはずがない、僕は一人でここに来たのだし、山道で人と出会ったという記憶もない。そうか、これは幻聴だ、あまりの孤独に耐えられず幻聴が聞こえたのだろう。そうでなければ森の精とでも話したのか、いや、人を惑わせるモノノケのたぐいかもしれない。でも、そんなことはどうでもいい、僕は奈々子との出会いを思い出そうとしていた。

「ねえ、岡崎さんて絵なんか興味あるのかな? もしよかったら、今度の日曜に上野の美術館でやってるダリ展にいかないか」

「絵ですか。実は、わたし、絵を見るのが好きなんです。でも、いいんですか、わたしで」

「もちろんだよ。前売りのチケットを二枚買うから二人で行こう。待ち合わせの場所と時間はメールするからさ」

 僕はそのとき二十七歳で鉱物資源の輸入商社に入って四年目で、奈々子は短大を出て入社した二年目で二十二歳だった。それから僕らは毎週のようにデートをするようになった。

「その冬に、彼女を一泊のスキーに誘ったのさ。志賀高原に。車で彼女を迎えに行って、それから徹夜で十時間くらいかかったけど、奈々子は志賀高原の林間コースをすごく気に入って、また一緒に来ようって約束したんだ。その夜に僕らは初めて結ばれた」

「そう、素敵な思い出じゃない」

「でも、もう奈々子はいない。あの日、わき見運転をしていたトラックに……」

 森の木々が疎らになると小路は草原に出た。森から見て感じていたのよりも広い草原で、緩やかで暖かい春の風が吹いている。たぶん、草原の中央に小さなラピス色の沼があるのだろう。草原は膝下くらいまで伸びた柔らかい草で覆われていた。新緑の草を踏みしめて沼に向かっていくと、それは遠くから見ていたのよりずっと深い藍色だということがわかってきた。その色は沼という単語が意味する水の深さとは乖離していた。小さいけれど深い湖であるような気がした。 


 あの水に足を触れるだけでいい。光が届かない深い深い湖底で眠りたいだけだ。さらに近づくと、藍色の湖の手前に奇妙な長方体の人工物が置かれていることに気がついた。それはキラキラと輝く岩のようにも見えたし、鈍く輝く金属のようにも見えた。似たような色や材質を持つものを思い出すことはできないが、形には見覚えがあった。

 それは、鍵の付いた棺だった。棺を通りすぎる時に、僕はその中に『何が入っているのか』をどうしても確かめたくなった。


 あの沼に僕自身を吸い込ませる前に、これを開けて中を見なければいけない。

 僕は棺を触りながら一周してみた。とても頑丈で簡単に開くような感じではない。とにかく鍵を壊さなければ。まわりには、赤茶色をした手のひらより大きな石がいくつか転がっている。僕はその一つを取り、それを鍵にぶつけて破壊した。この中に……、奈々子が眠っているに違いない。

「奈々子」僕は棺の蓋に手を掛けて開けようとした。

「だめよ。それを開けてはいけないわ!」

 鋭い声が耳に響いた。




2 闇の中の虹


 風に揺れる葦の穂先が西日で輝いていた。もうすぐ太陽は水平線に落ちるのだろう。遠い湖岸に広がる葦原の先に、薄暗い山々が何層にも連なって見えている。僕は小さな木舟で大きな湖を渡ろうとしていたのだが、でも、その先に何があるのかをよく知らなかった。

 船には僕と年老いた船頭しかいなかった。船頭の艪さばきが心地よく、ゆったりとした振動に体を揺られながら眼を閉じてみる。

「おまんさぁ、この湖ん名前知っとるか?」

 声は遠くから聞こえたように感じたが、一音づつがはっきりとしていた。

「いや、知らないですね」

「これはな、煜湖(いくこ)言うんじゃ」

「煜湖?」

「もうすぐ日が沈むから……、そうすりゃあ,名前の由来がわかるじゃろうて」


 こんな大きな湖を、日暮後の闇の中で渡っていかなければならないのか。普通なら強い不安に襲われるだろうが、何故か僕の心は穏やかだった。この老人にまかせておけばいい。何もかも全てがうまく行くに違いない。

 弱い風を感じて眼を開けると、紅に朱を混ぜたような美しい太陽が水平線に飲み込まれていくところだった。湖面が暗くなったせいだろうか、僕はかなり遠くに小さな光を見つけた。

「船頭さん。この船の他にも瑚を渡る船があるんですね」

「ああ、あれか。小さな光の粒にしか見えんがの、ありゃあ、かなり大きな船じゃよ。沢山乗っとるがの」

「沢山?」

「ああ、こん湖に来たもんは、ほとんどがあん船さ乗るんじゃ。あんたみたいに、船着場から外れる者はめったにいないんじゃよ」

「すみません」

「気にせんでええよ。あんたみたいなもんを送るのが儂の仕事じゃからな」


 日が完全に沈むとあたりは真っ暗になり、年老いた船頭の顔もほとんど見えなくなった。彼は鳥籠のような形をした真鍮製のランプに灯をともし、それを木の棒につり下げてから、備え付けの合わせ溝にその棒を差し込んだ。小さな黄色い光が揺らめきながら辺りをやわらかく照らし出す。

「ところで、あんたどうやってこの湖岸まで来たんかね」

「それが……、よく覚えてないんです。たしか、ずっと真っ白な霧の中を歩いていたんです。経験したことがないくらいの濃霧で何も見えなかったから、どこに向かってどのくらい歩いたのかも解りません。ただ、疲れきってしまって……、それで、その白い闇の中で倒れてしまったと思うんです」

「それで、気がついたらあそこにいた、ちゅう訳じゃな」

「ええ、たぶん」


 真っ白な闇というのがあるのなら、僕が手探りで歩いていた世界がそうだった。僕は眼を開いていたはずだが、手の平を目の前にかざしても、それを見る事さえできなかった。それは暗闇よりも始末が悪かった。だれでも暗闇は疑似体験しているから真の暗闇も想像することは可能だろう。数年前の夏の夜に落雷が原因で街中が停電したことがあった。部屋は真っ暗になり窓から外を覗くと、両隣はもとより見渡せる範囲の家々はすべて暗く、街灯も信号も消えて体験した事のない闇が支配していた。でも、そのときだって目の前にある手の平は見えていただろう。でも、白い闇なんて想像さえしたことがなかったのだ。

「そんな深い霧の中をよう歩けたのう」

「はい……、たしか誰かに……、何も見えなくてもそこは平坦だから、自分が思った方向にずっと歩いていくようにと言われたような気がします。でも、それが誰だったか思い出せないんです」

「けったいじゃのう。白い闇の後は、こんな黒い闇に付き合わにゃならんとはのう」

「でも、一人じゃないから天国ですよ。白い闇での孤独は地獄だったから」

「そんならええが。まあ、着くまで二人きりじゃから、あんたの話でもゆっくり聞かせてもらいたいのう」

「ええ、覚えてることなら話せます。ただ……、何か大切なことを忘れてしまったような気がするんです」

「心配いらんよ。たぶん、向こうに着くころにはいろんなことを思い出すじゃろう。いままで儂が送って行った者は皆そうじゃった」

「送るって? いったい何処に向かってるんですか」

「それも間もなく解るじゃろう。今はそう、この暗い暗い湖を、この闇の暗さを記憶することじゃ。あんたもじきに煜湖に現れる不思議な光景を目にすることになるじゃろうからな」

 老人が灯したランプの灯を吹き消したならば、どんな闇が僕を包むのだろうか? 僕はそれを確かめたかったがもちろん行動には移さなかった。でも漆黒の闇にはならないだろう。遥か彼方に輝く小さな光。それが存在していることを忘れてはいなかった。




3 記憶の糸


 気がつくと僕は白一色の部屋で白いベッドに横たわっていた。部屋は二十畳くらいで、壁際にベッドがあり、中央には白いテーブルが一個と地味な木製の椅子が二脚置いてあった。少し頭が重い。僕はベッドを降りてから椅子に腰掛けた。硬い椅子だが座り心地は悪くなかった。

 おぼろげな記憶の断片が残っていた。そうだ、棺だ。僕は藍い沼のほとりで鍵のついた棺を開けようとしていた……、でも、そこから先がよく思い出せない……。


 それからしばらくして、部屋の扉が開くと不思議な雰囲気の人物が入ってきた。その人物はもう一つの椅子に座り、テーブルを挟んで僕と相対すると奇妙なことを話だした。

「自己紹介は特にしないけど、話してるうちに理解できると思う。まず……、私たちレベルでの天使の仕事は主に二つだ。一つはあんたたち人間が見る夢を救出することだ」

 机の反対側にいる人物は、白いふわふわした布みたいなものを纏っており、自分を天使だと言った。その人は女性のような気がしたのだが正確には判らなかった。だいたいが天使のイメージに合っていたが、羽はなくて、しゃべりかたが天使の優しげなイメージにそぐわなかった。

「夢を救出……、ですか?」

「ほら、あんただって寝覚めの悪い夢見ることあっただろ? 妖怪に追い掛けられるとか、空を飛んでたら急に浮力が無くなってまっ逆さまとか、ああいうやつさ」

「そういう夢を見ることはありますけど、救出ってのは何ですか?」

「知らないのか? あのな、あれはほっといたら、妖怪につかまって食われちまったり、コンクリートの床に叩き付けられて大怪我したりするんだよ。そうなると魂が傷つくんだ。だから、そうなる前に、わたしたち天使が夢を修正しているんだが、それを夢の救出と呼ぶ。夢の最後で私たちが "よかったね" って手を振ってるのを知らんのか?」

「そうなんですか。知りませんでした」

「まあいいよ、そのうちお前もここの仕組みがわかってくる」

「ひとつ質問なんですけど、天使っていうのは、あの天使ですか? よく西洋絵画なんかで見る羽が生えていて空を飛べる」

「まあな、そう思ってくれてもいいよ」

「でも、あなたは女性なんですか? 男性なんですか? 女性にしてはしゃべり方がへんですけど」

「天使に性別なんかあるもんか。お前のイメージを投影して出てるだけだよ。もっと色っぽくして欲しかったらイメージを変えればいいんだ」

「はあ。それで、僕はどこにいて何をしてるんでしょうか?」

「その質問にはすぐには答えられん。ていうか、そんなめんどうな説明は後にしてくれないかな」

 天使は疲れたから少し休むと言って部屋から出ていった。

 僕は部屋の隅にある飾り一つない白いベッドに横になって、もう少し色っぽい天使のことを想像してみた。


 ここでは時間がどうなっているのかが解らなかった。だから、次に天使が来たときに、どのくらいの時がたったのか見当がつかなかった。

「おはよう、気分はどうかしら?」

 扉を開けて入ってきた天使は僕の前まで来てからそう言った。

「おはようございます。って、あのう朝になったんですか? なんかこの部屋だと何も変化しないので……、あのう、この前の天使さんとは違う方ですよね?」

「やだあ、同じよ。あなたの天使へのイメージが変わったからじゃないかしら」

「でも、衣装も違いますよ。なんかヒラヒラした衣装で雰囲気も女らしくなったみたいだし」

「そうよ。あなたがこういうのをイメージしたからよ」

 天使はうれしそうに僕のほうを向いて微笑んだ。僕はベッドから起き上がると移動して質素な椅子に腰掛けた。天使もテーブルを挟んで反対側の椅子に腰掛けた。

「ところで、あなたが来た理由なんだけど、話してもいいかしら」

「ええ、お願いします」

「あなたの夢を地上で修正することが困難だったからよ。たいていの夢はその場で修正してしまうの、もちろん人間に修正の記憶は残らないから、あなたたちが見たと思っている夢は修正後のものなのよ。悪夢だってあるけど、あれだって修正前に比べればかなりましになってるわ」

「でも僕の夢はひどすぎた」

「そうよ。あなた、夢の中で自殺しようとしてたでしょう。もし、そこまで行ってしまったら魂のレベルで深刻な傷を負うの。わたしが気づくのが遅くて夢の修正が間に合わなかったのよ……。その場合、天使に許されているのは、ここに連れてくることだけなの」

「ここって? ここはいったいどこなんですか?」

「死後世界の直前にあって、傷を負った魂を一時的に収容するところ、かな」

「そんな場所があったんですか。それで、僕はどうなるんでしょう?」

「そうね。ここからが難しいのよ。二つ選べるわ。まず、あなたは今持っている魂の傷を残したままで地上に帰ることができる。つまり、このまま帰るっていうことだけど、ここに来た意味は無くなるから、あなたは夢の中だけでなく、現実世界でも自殺を企てることになるでしょうね。もう一つは、なんとかその傷を消してから地上に帰ることができる。って、まあ、この二つなのよ。どっちにしても、ここでの記憶は消されちゃうんだけど」

「だったら、傷を消して帰るほうがいいに決まってるじゃないですか」

「それがそう簡単じゃないのよ。魂の傷を消去するってことが」

「魂の傷を消すって、どうするんですか?」

「その方法は一人一人でみんな違うの。だから、あなたの場合で説明するけど……、落ち着いて聞いてね」

「大丈夫です。落ち着いてますから」

「あなたの世界での時間で言うと、今から約三ヶ月前にあなたの恋人、奈々子さんがここに来たの。そして、彼女は今そこにいるわ」

「そこってどこですか?」

「その扉の向こうよ。つまり、死後の世界とか黄泉の国とも言われてるわね。でも、その扉は天使しか開けられないわよ」


 扉? 言われてみると扉は確かに存在していた。白い壁の中にひっそりと設えられた地味な白い扉は、壁の一部のようになっていて気付かなかったのだ。僕はその扉の存在を意識すると、押し殺していた感情をそのまま維持することができなかった。

「天使さん、お願いします。彼女に、奈々子に会わせてください。僕は……、僕は、あまりに悲しくて、奈々子のお通夜にも葬式にも行けなかったんです……」

 僕の眼から涙があふれ、テーブルの上にこぼれ落ちた。

「落ち着いて、本当に落ち着いてよく私の話しを聞いて。いい、あの扉の向こうは地上での体を失った霊の世界なのよ。彼女の霊体も深く傷ついていてひどい状態なの」

「何がどうひどいんですか? 僕には彼女を助けることができないんですか?」

「できるかもしれないし、できないかもしれない。天使にも予測できないのよ」

「どうすればいいんですか?」

「その前にあなたに地獄の話をするわ。一つの例として聞いてほしいの……」


 天使は僕から目をそらせると、腕を組み何かを考えるようなそぶりで話だした。

「あの扉の向こうに一人のお爺さんがいるわ。彼はもう百年もそこにいるけれど、来た時と全く変わってないの。彼はすごいお金持ちだったから。それで今もお金のことばかり考えてるのよ。いろいろな霊がきて話をしても、お金への執着が強すぎて何も聞くことができないの。あと何百年いや何千年そうするのかわからないけど、その状態こそが彼に与えられた地獄なのよ」

「お金はそうかもしれないけど、愛は、愛はちがうんですよね? 僕たちは本当に愛し合っていたんですよ」

「それが、残念だけど同じなのよ。その愛はほとんどの場合自分に向いているから、やっぱり強く執着するのよ。ある意味お金より執着が強いかもしれないわ」

「それで、奈々子を助ける方法は?」

「二人とも、お互いを完全に忘れるのよ」




4 闇の中の虹


 日が暮れてかなりたったようだが、気温が下がった気配もない。老人の灯したランプの光、その弱々しい球状の光が届く世界だけが闇の中に存在していた。もしも、櫂を止め船の振動も音も無くなったならば、僕らの存在を規定するものが失なわれてしまうように思われた。上も下も北も南もない真の闇が現れるのだ。そんなふうに感じたのは、たぶん生命の気配がないからなのかもしれない。湖には魚の気配がない。日が暮れたからという訳ではない、日が昇っていたころも獣や鳥や魚の気配はなかったし、虫の姿もその鳴く音も一切存在していなかった。ただ、湖の周りに群生する葦や木々が風に揺れ、そして遠くに山々の緑が見えているだけだった。


「船頭さん。ここには生きてる魚とか獣とかはいないんですか?」

「ああ、ここにはおらんのう。生きてるのは遠くの村にいる者だけじゃ」

「魚や獣がいないと食べるものに困りませんか?」

「いや、儂等は植物しか食べんから。米、麦、そば、粟、ひえ、大豆にとうきび、それに木の実やくだものも手に入るから、それで十分じゃよ」

「でも何で動物たちはいないんですか?」

「さあ、ようわからんが昔からいないのう」

 僕は他にも気になっていたことを尋ねた。

「この湖、煜湖(いくこ)でしたっけ? これは本当に湖なんですか? この船に乗るときも、向こう岸が見えなかったけど、これは海じゃないんですか?」

「ああ、大きいから対岸は見えんかったけど、向こう岸は確かに存在しておる。ただ、儂はその岸には揚がったことはない。儂等は向こうに行ってはいかんことになっとるからの。それと、海とは言わんが、大きな河じゃ言うとる者はおる。誰も湖の本当の形を知らんから、海じゃ言われればそうかもしれんのう」


「あれは何ですか? あの、日が暮れてからずっと見えている光のことですけど」

 僕は遠くに見える小さな光を指差して言う「船頭さんは、あれは大きな船で沢山の人が乗っているって教えてくれたけど、あの船も対岸を目指してるんですか? それとも夜の湖を観て回る遊覧船ですか?」

「あれは向こう岸へは行かん。あれは煜湖の中心を目指しとるんじゃ……」

「煜湖の中心?」

「あの船はそこで沈んでしまうんじゃ」

「沈んでしまう?」


 そのとき僕はなんとなく理解した。ここは生きている人間が住む世界ではないということを、僕は死んでしまったのかもしれないということを。

 前に霊の世界に関する本を読んだことがあった。そこには、死んだ後に光のトンネルとかお花畑を通過すること、やがて誰かが迎えに来ているような気がするということ、そして、迎えと一緒に、いや迎えに先導されて死後の世界へと旅立って行くのだが、その場面で “元の世界に帰りなさい” と言われたり、何故か来た路を戻った人は、この世に生還できること、そんなことが書いてあったような気がする。


 それは、僕の今の状況にどこか似ている。船頭さんは僕の魂を迎えに来たのだろうか。もしかすると何世代か前の僕が知らないご先祖様かもしれない。煜湖は、僕たちが「三途の川」と呼んできたものの正体なのかもしれない。この湖を渡りきれば、僕はもう、生ある世界へは戻れないだろう。そこは死後の世界なのだから。


「あの船はなぜ沈むのですか? なにか、訳でもあって沈められるってことでしょうか?」

 この質問は僕にとって重要な意味を持つものだ。死後の世界で、これから起こるであろうことへの心構えに必要だと思った。

「さあ、儂にはわからんのう……。船は、毎日同じ船着場から出発して、そして毎日沈むんじゃ。それはずっと昔から変わりなく行なわれているんじゃよ」

 期待していた答えは得られなかった。船頭さんは本当に何も知らないのかもしれない。でも、これから僕を待ち構えているものは何となく予想できた。この三途の川を渡りきったならば、僕はどこかに連れて行かれ、誰かの審判を受けなければならないのだ。その審判の結果、あの舟に乗せられるのかもしれない。向こう岸にとどまれるのか? それとも煜湖に沈められるのか? 何かがそれを決定するに違いない。閻魔大王、最後の審判、そういう話は僕が生きていた世界では、ごく普通に知られていた死後世界の描写だ。それと照らし合わせれば、煜湖の底には、地獄へと繋がる路があるに違いなかった。

 『最 後 の 審 判』

 僕はそれに備えて、これまでの人生で起こったいろいろな出来事を思い出そうとしていた。




5 記憶の糸


 天使は、奈々子にも話をしなければならないといって部屋から出ていった。

 天使は、忘れるためならば彼女に会えるといい、僕は会いたいと言った。奈々子も同じ意志ならば会えるらしい。僕たちはお互いを忘れるために再び出会うことができるのだ。でも、出会った後にどういう結末をむかえるかは、天使にもわからないらしい。お互いを完全に忘れてしまったペアもいたし、今も二人で愛欲にまみれて、そこに居つづけるペアもいるらしい。天使に言わせると、それはそれで、やはり地獄なのだそうだ。

 僕は出会いから別れまでをよく思い出そうとしていた。忘れるどころか、細部まで克明に覚えていた、特に二回目の冬に二人で行った志賀高原のことを。 


 僕たちは日が暮れた後のナイターゲレンデにいて、リフトでゲレンデ上部にでた。そのゲレンデの上部には照明の届かない林間コースがあった。

「ねえ奈々子、ちょっと林間コースに行ってみようよ」

「えっ、だめよ。照明が届かないし暗いから危険よ」

「それほど奥に行かなければ大丈夫だよ。月も出てるし、雪は光を反射するから、眼がなれれば以外と明るいんだ」

「じゃあ約束して、そんなに遠くへは行かないって」


 そのゲレンデ上部は林間コースの出口に繋がっていたから、僕等はスキーを脱いで担いで歩いて登った。それほど奥には入らなかったから照明の乱反射で想像したより明るかった。でも、昼間でもシーンとしている雪の森の中は、本当に二人の声以外には音の無い世界だった。

「奈々子、二人で志賀高原に来たのは二回目だね」僕の声は雪に吸い込まれていく「もう一度ここに来れたなら話そうと思っていたことがある」

「えっ……」

「この林間コースにあと百回くらい君を連れて来たいんだ。だから、奈々子の許可がほしい」

「それって……、私と毎年来るってことなの?」

「ああ、そうしたい、二人で毎年来たいんだ」

 僕は緊張していて、少し声が上ずっていた。付き合って一年四ヶ月、不器用なプロポーズだった。  

そして、彼女の答えを、彼女の声で聞くまでは不安だった。

「ええ、いいわ。私を毎年連れて来るって約束してね、祐介」

 僕は本当にうれしくて、ゲレンデを雪玉のように転がって降りたいくらいだった。小枝の雪が風に舞い、ゲレンデの光を反射してキラキラと輝いていた。


 でも、今は、全てを忘れるためにここにいる。本当に忘れることなんかできるのだろうか? それが彼女への真実の愛なのだろうか?


 天使が来て僕に告げた。

「彼女は会いたいそうよ。もうあなたには時間があまりないから、覚悟ができたらその扉を開けるのよ。そこに彼女がいるわ。それから、忘れないで、その扉のむこうでは執着と欲望が剥き出しになるの。あなたたちが強い快楽を求めれば、それはどこでもいつでも可能になるのよ。あなたたちの本当の愛が試されるの」

 それだけ言うと、天使の姿は消えていた。僕は扉を押してみた。扉は簡単に開いて、すぐそこに彼女が立って泣いていた。

「ごめんね祐介、ごめんね祐介」

 奈々子は僕の胸で泣きじゃくった。

「いいんだ奈々子、いいんだよ。ただ突然だったから、僕も生きる気力がなくなってしまって……」

「私、あなたに送ってもらえばよかったんだわ。でも、あの日友達に会って、今度結婚するんだって伝えたかったから、だからあそこで別れて……」

「僕も仕事があるからなんて言わないで、一緒に友達に会えばよかったんだ。そうすれば、きっと奈々子を守ってやることができたんだ」

「ごめんね祐介、私、あの交差点でトラックが危ないなって思ったのよ。でもヒールの踵が側溝の溝にはまって抜けなかったの。そのハイヒールとっても素敵だったから、あなたに見せたいと思ってあの日初めて履いたのよ。でも、ハイヒールなんて履きなれてなかったから……」

 奈々子は僕の知っている奈々子だった。別れた日に着ていたスカートと長い髪が微風に揺れている。僕は奈々子を思いっきり抱きしめた。天使の話なんかどうでもよかった。僕はここで彼女とずっとすごしたかった。

「ねえ奈々子、僕らはここでずっと一緒にすごせるんだ。僕らがそう思えば永遠にここで一緒にいられるって、天使が言ってたんだ」

「だめよ祐介。そんなこと言わないで」

「だって、結婚してずっと一緒にいようって約束したじゃないか」

「だめよ、だめ。もう言わないで、私もそうしたくなってしまうから……」

 奈々子は僕の胸に顔をうずめて泣いた。会ったときよりも激しく泣いた。

「祐介は生きているから帰らなくちゃいけないのよ……、そして、私が祐介を忘れなければ……、祐介は必ず私をさがしに来るから……」

「そうか、僕も天使から聞いたんだ。奈々子は全ての執着や欲望を脱ぎ捨てて、もっと先の世界に進まなければいけないって。でも、僕が奈々子を忘れなければ、奈々子はここから先には進めないだろうって……」

 いったいどのくらい時間がたったのだろう。僕の胸は彼女の涙で濡れていて、彼女の髪は僕の涙で濡れていた。僕たちは裸で抱き合っていた。

「私の決意は変わらないの。ただ全てを忘れる前に、祐介の全てを記憶したいの。たぶん、これが私と祐介がひとつに結ばれる最後なのよ」


 僕たちは、いままでにないほど激しくお互いを求めあった。僕は奈々子のすべてに口づけした。僕らは本当に一つになるのではないかと思うくらい強く抱きしめ合った。奈々子のしなやかな体を抱きしめながら、考えていた。奈々子の決意は揺るがないだろう。全ては僕に掛かっているのだ。僕は奈々子の希望を叶えたいと思った。




6 暗闇の虹


 どうやら僕は死んだらしい。僕は今、生命の痕跡さえ存在しないような三途の川を見知らぬ老人と船で渡っている。その老人は本当に優しくて、幼子の質問に答えるかのように僕の疑問に何でも答えてくれる。たぶん何代か前の僕の先祖なのだろう。もしかしたら守護霊だったのかもしれない。そんなことを考えながら、僕は次の質問をした。


「死後の世界には……、人生を裁く存在……、つまり、閻魔大王みたいな存在がいるのでしょうか?」

「死後の世界に? ああ、そんな者はおりゃあせんよ。もし、人生を裁くものがいるとしたら、それは自分自身の魂以外にはないからのう」

「私は死んだんですよね?」

「まあ、そんなところかもしれんのう」

「それで、三途の川を渡ってるんですよね? ここを渡りきればもう戻れない。そうですよね?」

「あんまり詳しいことは言えんがのう。あんたらの世界ではここを三途の川と呼ぶ場合もあるようじゃのう」


 やはり想像した通りだった。でも、自分がどうやって亡くなったのか? 病気なのか? 事故なのか? 自殺なのか? 何にも覚えていなかった。何しろ初めて死んだのだから、なぜ覚えてないんだ、と罵っても意味は無い。死の瞬間に人生が走馬灯のように見えたとか、自分の死体を天井から見ていたとかいう話もあるようだが、全ての人が同じになるという保証もないのだろう。死んだという記憶がないことが不安だったのは確かだ。でも、それが正しい死への旅立ちなのかもしれないと自問していた。


「どうやら船が煜湖(いくこ)の底に沈んだようじゃの」

 老人のつぶやきは、かろうじて聞き取れるくらいに小さかったが、僕は聞き逃さなかった。見ると遠方に見えていた微かな光は消えていた。

「あの船は地獄に行ったんですか? 煜湖の底は地獄に繋がってるんですよね?」

「地獄……。さあ、どうかのう。たぶん、これから起きることを見れば解るじゃろうて」

「いったい何が起きるんですか?」

「あの船が何故沈んだのかは説明できんのじゃが……、これからここで何が起きるのかを見せるこたあできるじゃろ。ほら、見んさい、この船の回りを」


 老人はそう言うと艪を漕ぐのをやめて、船の周りを見回し始めた。そういえば、僕はランプの光に照らされた船底を見つめることが多かったので、船の周りの湖で何が起きているのかを知らなかった。日が沈んでからは、ずっと何の変化も起きない重苦しい暗闇に囲まれていたからだ。まさか、その闇が微かに変化していることには気付かなかった。顔を上げて闇の中を見回すと、小さな蛍の光のようなものが揺らめきながら飛んでいた。光は飛行航路の途中でふっと消えたり、また突然、淡い光を発したりした。ずっと昔に見た蛍もそんな揺らめきを示していたような気がする。僕の目の前で青白い蛍光がキラリと輝いたが、それは一瞬のことだった。


「この沼には蛍がいるんですか?」

 僕は老人に尋ねた。

「ここは沼のようには浅くはない。もっとずっとずっと深いんじゃ。それに、あれは蛍ではないのう。あれはこのランプの光を反射して輝いているんじゃよ。だから、船の近くでしか見えんじゃろう。でも、たぶん、湖面の上にはあれが沢山飛び回っているじゃろうて」

「あれは何ですか?」

「小さな透明な球じゃ。透明な水晶の珠に似てるかのう」

「それはどこから来るんですか?」

「ああ、これは湖の底から湧き出てくるんじゃよ。一日中湧き出ているのか、それとも夜が更けたこの時間にだけ湧き出ているのかは解らんが、この光を見ることができるのはこの暗闇の中だけじゃ……。もうしばらくすると、もっと沢山の光の粒が見えるようになるはずじゃが」


 年老いた船頭はそう言うと艪を手にして、また漕ぎ始めた。

 静まり返っていた湖面にいくつもの波紋が現れた。艪の動きに同期した円形の波がランプの光の中を広がって行き、やがて闇の中に消えていく。それはまるで命があるかのように生まれては、湖面をどこまでも泳いでゆく。それは命を象徴しているようにも見える。生命とはどこかで誰かが造っているのだ。

 それからしばらく僕も老人も無言になった。ただ艪の動きに合わせてギイーギイーという音が聞こえていた。

 不思議な光景だった。船が沈んだあたりだろうか、老人が煜湖の中心だと言っていたあたりがボウと明るくなり、それが周囲にゆっくりと広がり始めている。老人は船の進路をその方向にとったようだ。光が船に近づいて来る。目をこらしてよく見ると、さっき見た光の粒に違いなかった。ただ、数が多いのだ。


「あの粒は何故光っているんですか? あれは、光を反射するだけですよね? 蛍のように自分で光る事はできないんですよね?」

「そうじゃ」

「ならば、なぜ光っているんですか?」

「もう少し中心に行けば解るじゃろう。ただ、危険だからあまり近づけんがの」

 船はゆっくりと中心に近づいていった。


 周辺が明るくなるに連れて、僕はその明かりの源が煜湖の湖底にあることを理解した。透明な水の下、湖底の広い領域がぼんやりと光っていた。よく見ると、大きな蜂の巣状の小部屋が湖底一面に広がっていて、その一つ一つの部屋にはまぎれもなく人間の形をした何かが入っている。それは霊と言うのだろうか? 魂と言うのだろうか? 整然と並んでいるそれらは、皆薄い光のベールを纏ったかのように光っていた。

 湖面を飛ぶ蛍は、湖底からの光を反射して輝いていたのだ。

「湖面に並んでいるのは人間の霊ですか?」

 老人はそれには答えなかった。

「煜湖というのは輝く湖という意味じゃ。この湖は魂が体を纏って経験した記憶を吸い込んで、それを水中で火のように燃やして輝いているんじゃよ。煜湖の光はもっと大きくなる。やがて中心の光に沿って水晶球は天空に上昇していくんじゃよ」

「記憶を燃やしている?」

 老人は闇の上部を指差した。

「あんたに見えるじゃろうか」

 暗闇の天空には微かだが虹がかかっていた。湖の上空に存在する大量の水晶球がプリズムとなり湖底の光を屈折させたのだろう。ちょうど雨粒がプリズムとなり太陽光で虹を創るように。

 老人は進路を変え、舟はゆっくりと煜湖の中心から離れていった。




7 記憶の糸


 天使が立っていた。

「あなた達、どうやら決意がきまったようね」

「ありがとうアンテーヌ、私達お互いのことを忘れることにしたの」

 アンテーヌ? あの天使はそういう名前だったのか。

「決意が固まったなら、さっそく実行しなければならないのよ」

 気がつくと、別の、もう一つの扉がそこに在った。

「これは転生門と呼ばれるの。あなたたちは、二人でこの扉を開いて先に進むのよ。入ったら、まずは二人で手を繋いでいて。そしてこの紐が二人の手のひらを結びつけるわ」

 天使は短い赤い糸を出してきて、端を僕と奈々子に握らせた。その紐の端は僕等の手の平に吸収されて一体化した。見ると僕と奈々子の間で糸はピンと張っていた。


「この糸は二人が離れてもいつもピンと張っているのよ。中に入って落ち着いたら、二人は手を離して反対方向を向くのよ。そしてその方向にずっと歩いていって」

「別の方向に歩くって、この糸はどうなるんですか?」

「この糸はあなた達の記憶でできているのよ。だから離れても二人を結びつけてピンと張っているの。でも、あなた達はとにかく別の方向に歩きつづけるのよ。そして……、残念だけど、この糸はいつか必ず切れるのよ」

 奈々子は天使の話を聞いて、また泣きじゃくった。最後の時が近づいて心が乱れたのだ。

「奈々子、二人で中に入ろう。僕は君を絶対わすれない。きっといつか、きっといつか……、どこかでまた遭えるから……」 僕の声も涙で滲んでいた。

「悲しいのよ……、この糸が……、私達の記憶の糸が切れてしまうのよ……、祐介のこと、もう永遠に思い出せなくなるのよ……」

「アンテーヌ」奈々子は天使の名前を呼んだ。

「お願い、最後のお願いがあるの……、糸の、糸の色を白に変えてほしいの……、お願い、赤い糸が切れてしまうのは耐え切れないから」

「うーん、これは必ず赤って決まってるんだけど……、まあいいわ、少し上界からは見えにくくなるけど、まあ問題ないでしょう。じゃあ、白に変えてあげるわね」

 天使が言った後で糸は白く変わっていた。

「もうひとつ、中に入ったら二人とも一言も話してはいけないわ」

「それで、どこまで歩くんですか?」

「糸が切れるまでよ。どのくらいで糸が切れるのかは記憶の強さによるから私にも予測はできないの。でも、やがて切れたときには、あなたは地上世界へ、あなたは上の世界へ到達しているはずよ」


 僕らは二人でお互いの手が千切れるほど強く握って扉の中に入った。音のない白一色の濃密な霧の中で、奈々子の顔もよく見えなかった。絶対に奈々子の手を離さないしようと思ったが、気がつくと奈々子の手は離れていた。それから僕がどのくらい歩いたのかはわからない。白い糸は濃密な霧の中に溶け込んで全く見えなかった。




8 闇の中の虹


 記憶を燃やしている? 何故? それが僕の頭の中を駆け巡っていた。老人と二人で乗った小船が煜湖の中心から離れるにつれて、闇の中の虹は明るさを増していく。やがて大きな虹となったその両端は煜湖の対岸から対岸へと橋をかけたようにみえた。

 僕は恐る恐る自分の疑問を声に出してみた。

「なぜ、煜湖は記憶を燃やしているのですか?」

「うむ……、それがあると転生のじゃまになるからじゃよ。見なさい、上昇した水晶球は虹のようになり、二手に分かれて流れて行くんじゃ。ほら、遥かなる向こう岸と、儂らが向かうあの岸へとじゃ」

「現世へと向かう魂と、黄泉へと向かう魂ですか?」


 老人は無言だったが、全てを理解しているかのように満足げに、何回も頷いた。僕には何故二手に分かれるのか正確には理解できなかったのだが、現世に向かう魂が、つまり生まれ変わろうとしている魂が前世の記憶を保存したり消去している場こそが煜湖なのかもしれないと、そうおぼろげに感じていた。もっと知りたかった、老人にもっと問いかけたかった。でも、それ以上、彼に質問をすることはできなかった。

 これは死後の世界での出来事なのだろうか? いや、もしかしたら、神の世界を垣間見たのかもしれない。 


 思考が停止したままで時がすぎ、やがて垣間見た闇の中の虹は見えなくなった。ふたたび光りなき闇に包まれると、小船はどこかに向かってゆっくりと進んでいった。どのくらい時間がたったのか、気がつくと、闇に包まれていた湖面は朝日で明るくなっていた。僕が降りるべき岸は目前だった。

 老人は僕を浅い水辺に降ろすと、最後の言葉をくれた。

「そこに降りたら、まず一口この湖の水を飲みなさい。それは、お前をそちらの世界へと繋ぎとめるのに必要じゃからな」

 僕は浅い岸辺で船から降りると、まず言われた通りに湖の水を手のひらにすくい一口飲み干した。

「そこの森の中に小路があるから、決して路を外れないように歩いて行くんじゃ。歩きだしたら決して後ろを振り返えらんようにな」


 僕は老人に送ってくれた礼を言ってから、振り向いて歩きだした。水辺から森へと続く小路ができていた。その小路は森の中で枝分かれもせず、やがて、そこを抜けると小さな藍い湖がある草原にさしかかった。

 僕はこの路がどこに続いているのかを思い出した。




9 記憶の糸・闇の中の虹


「神様、転生門が壊れてたっていう報告がありましたけど、どうしましょうか? 報告書には記憶の糸の切断部が発見できなかったと書いてあります」

「へんじゃのう、あれが壊れるなんて何百年ぶりかのう?」

「たぶん、百五十年ぶりですね。どうやら、二人とも煜湖を渡って下界に降りていったそうですよ」

「煜湖を渡ってか?」

「ええ、誰かが手引きしたんだろうって報告書に書いてあります。まっ、それはいいんですけど……」

「二人ともに? ほう、そうかそうか、もう一人いたのか」

 神様と呼ばれた老人は嬉しそうに何度も頷くと「転生門じゃがな、お茶を飲んだら、すぐに直しておくとしよう」

「しっかりしてくださいね。転生門の管理だけが神様の仕事なんですから」

「ああ、それじゃあ、あの二人と周辺の記憶補正はよろしく頼むよ」

「もう、やっておきました」

「おお、さすがは儂が頼りにしておる天使じゃのう、ほっほっほっ」

「時間になったから、夢の見回りに行ってきます」

「ああ、気をつけてな」

「あっ、神様、昨日着てた船頭の衣装、洗濯に出しといてくださいね」

「えっ、ああ、そうじゃな」

 天使がいなくなると、部屋に嬉しそうな声が響いた。

「でも、糸を白くして見えんようにしたのはお前じゃろうて」



 ★ ★ ★



 朝、目覚ましが鳴ったときには、僕は夢の内容を断片的に覚えていた。頭が痛くて、再びまどろんだ後で、何回目かわからない目覚ましで起きたときには、どこか遠い世界に行って帰ってきたということしか覚えていなかった。そしてその薄められた記憶は、いつもの夢のように、すぐに完全に忘れてしまった。僕はベッドからなんとか這い出ると、キッチンで水を飲み、出勤の支度を整えると部屋を出た。  


 この日の午前中に会社で何をしたのかをよく覚えていなかった。

 眼を覚ますと、そこは会社のデスクで、僕は机に突っ伏して寝ていたのだ。時計を見ると昼休みの時間を十分くらいオーバーしていた。土日にひどく飲んだせいで二日酔いぎみだった。女の子がお茶を運んできた。

「ねえ、僕ひどい顔してない。いま起きたばっかりなんだ」

「ええ、ほんとにひどい顔してますよ。二日酔いですか? だったら、この濃いお茶がいいと思いますけど」

 彼女は僕の顔をみて微笑むと、机に湯飲みを置いた。

「君なんていう名前だったっけ? ごめん、僕もの覚えが悪いんだ」

「えっ、まだ覚えてないんですか? もうここに配属されて三ヶ月もたつんですよ。もう、覚えてくださいよ。私、岡崎奈々子です」

「ふーん、ところで、岡崎さん……、君、絵なんか興味あるのかな? もし興味があるんなら、今度の日曜に渋谷でやってるシャガール展にいかないか」

「シャガールですか。実は、わたしシャガールが好きなんですよ。でもいいんですか、わたしで」

「もちろんだよ。前売りのチケットを二枚買うから二人で行こう。待ち合わせの場所と時間をメールするよ」


 それから二年後、僕と奈々子は志賀高原で結婚した。



<了>


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