【森由美子】みんな死ねばいいのに
森由美子はこの世の全てを呪って生きていた。
そこそこ裕福な家庭に生まれ、優しい両親を持ち、幸せな毎日を送っていたはずだった。
父である森且已は、我儘な由美子を甘やかすことなく、欲しい物があれば何かしら努力することを条件づけた。そのうえ、由美子との約束は一度だって破ったことがなかった。
母である森由里子は、少し抜けているが大らかで優しい人だった。由美子が由里子のお気に入りのコップを割ったときも、怒ることなく真っ先に由美子が怪我をしていないか心配するような人だ。
由美子は自分が幸せな人間であると自覚していた。そして、この幸せが続くと微塵も疑っていなかった。
しかし、あるとき由美子の幸せな日々は終わりを告げた――道路に飛び出した由美子を父親が車から庇って亡くなったのだ。
優しい父だった。大好きな父だった。約束したのだ。父のような素敵な男性を見つけて結婚し、花嫁姿を見せるのだと。
棺で眠る父の亡骸を見て、由美子は泣くこともできず、これは夢なのではないかと思っていた。それほどまでに、父が亡くなることなど想像もできないことだったのだ。
専業主婦だった母は、生活費を稼ぐためにスーパーのパートとして働きだした。
家賃の関係もあり、由美子は母と共に格安のアパートがある土地へ引っ越した。
一転して生活苦に陥った森家だったが、由里子はいつも由美子の前では笑顔を絶やさなくなった。その笑顔が、やせ我慢であることは幼い由美子でもわかった。
さらに畳みかけるように、由美子の肌荒れが悪化した。
由美子は元々肌が強い方ではなかったが、一日中痒みが収まらずに眠れなくなるほどではなかった。
肌荒れが悪化した原因はストレスである。
大好きだった父の死、優しい母のやつれた姿、生活レベルの低下、そのどれもが幼い由美子にとっては耐え難い環境だった。
その全ての原因が自分にあるとなれば、その心的負荷は計り知れない。
肌を掻きむしり、由美子の腕や足はいつも赤く腫れ、服には血も付いていた。
「由美子、薬を塗ったんだから掻いちゃダメでしょ?」
「お母さんにはわかんないよ! 薬塗っても痒いの! 掻かないなんて無理! 自分が痒くないからそんなこと言えるんだよ! 偉そうなこと言うなら代わってよ!」
「由美子……ごめんなさい」
痒みによる苦しみから癇癪を起してぶつけた言葉。それを聞いた母の辛そうな表情を由美子は忘れることはないだろう。
代わってよ。ごめんなさい。
ああ、お母さんは代わってあげたいと思っていたんだ。そんなこと、できるはずがないのに。
由美子は大好きな母である由里子を悲しませてばかりの自分をどんどん嫌いになっていった。
学校にいけば見た目でいじめられた。気持ち悪いから近づくなばい菌、と。
少しでも肌荒れを隠すために長袖の服を暑くても着るようにした。
それでも体操着は半袖だったため、体育の授業ではいつもペアの相手に恨み言を吐かれた。
プールの授業は傷口に塩素が染みて地獄のような辛さだった。
由美子にとって学校は最も嫌いな場所だった。
いつしか由美子は同級生達を〝嫌な奴ら〟と一括りで見るようになった。
名前も顔も何も覚えられない。ただ自分と同い年の人間達。そういう風にしか見れなくなってしまったのだ。
救いだったのは、学校のクラブ活動で出会った先輩の存在だ。
二個上の先輩である司馬静香はリーダーシップのある優しい先輩だった。
由美子を気持ち悪がることなく、辛い境遇の彼女をことあるごとに気にかけてくれていた。
それも一年間だけだった。
静香が卒業してから由美子は地獄の日々へと逆戻りだった。
中には優しく接してきた者もいた。
だが、誰もが由美子から距離をとって〝触りたくない〟ということが伝わってくるようなうわべの優しさだった。
「死ね……みんな死ね! クソが!」
校舎裏で由美子はいつだって泣いていた。
どうして自分ばかりこんな辛い目に遭わなければいけないんだ!
周囲を呪って生きていた由美子が学校を一日も休まなかったのは、偏に自分を支えてくれた由里子のためだった。
そんな辛い日々を送っていた由美子は小学五年生のとき、心安らぐ居場所を見つける。
それは飼育委員が担当することになるウサギ小屋だった。
ウサギは自分に酷いことをしない。自分の膝の上でただ大人しく佇んでエサを頬張るだけだ。
ウサギ小屋にいるときは心が安らいだ。
一人でそこにいられたらどんなに良かっただろう。
不満だったのは、他クラスの飼育委員の男子と組んで飼育当番になったことだ。
「俺、3組の――――! よろしくな!」
「うっさい死ね。どっかいけ」
自己紹介をされたところで名前など頭に入ってこなかった。
何不自由ない幸せな暮らしをしてるであろう男子が、由美子はとにかく妬ましかった。
ただその男子は他の男子と違って平気で自分の隣に座ったり、呼び止めるときも肩に躊躇なく触れてきた。
「触んな!」
「あ、ごめん……でも、呼んだんだから返事してくれよ」
まるで他の生徒と変わらずに接してくる男子に、由美子はいつも調子を狂わされた。
噂によればその男子は、かけっこでは一番、テストも一番、クラスでは人気者だった。
日陰者である自分とは対極の存在である彼が、自分を気にかける理由が由美子にはわからなかった。
とはいえ、他の男子とはどこか違う彼を由美子は心のどこかで憎からず思っていた。自分のことを気持ち悪がらずに真っ直ぐな好意を寄せてくるカッコいい男子など、嫌いになれるはずもなかった。
だが、由美子はそんな男子を突き放した。
「もう、あたしに付き纏うな! あんたなんか大っ嫌い!」
泣きながら叫ぶ由美子に男子は一言謝ると、それ以来由美子に付き纏わなくなった。
それから由美子は小学校を卒業して中学生になった。
根気強く塗り薬と飲み薬を服用し続けた効果もあり、由美子の肌荒れはかなり改善された。
地元から少し離れた中学校へと進学した由美子は、出来るだけ周囲と関わりを持つように心がけた。
浅く広い繋がり。自分を殺して面倒事を起こさないように生きる。それが賢い生き方だと由美子は思っていたのだ。
「由美子。お母さん、再婚しようと思うの」
そんなとき、由里子から再婚するという話をされた。
どこかバツの悪そうな表情を浮かべる由里子に、由美子は笑顔を浮かべて即答する。
「もちろん、大賛成だよ!」
嫌に決まっている。自分にとって父親は森且已ただ一人だ。
でも、そんなことを言う権利など自分にはない。
お母さんはあたしのせいでさんざん苦しんだんだ。いい加減幸せになってほしい。
由美子は既に自分の人生に価値を見出せなかった。ただ母が幸せになるための養分になれれば御の字。そんな風に思うようになっていた。
新しい父親である中居正紀は由里子と同じく大らかで優しい人だった。
連れ子である由美子にも、自分の子供のように接してくれた。
しかし、由美子が彼を父と思ったことは一度もなかった。せいぜい優しくしてくれる母親の好きな人程度にしか思えなかったのだ。
そして、由美子が十五歳のとき、異父妹である由紀が生まれた。
由美子は、大切な母とその大切な人との間にできた子供である由紀に優しく接した。
それと同時に、自分はもう不要な存在であるとも感じていた。
由紀は中居家の幸せの象徴であり、自分は森家の不幸の象徴だ。
いつまでも、負の遺産が幸せな家族の空間にいてはいけない。
だから、高校を卒業したら家を出て働こう。
固い決意を胸に宿した由美子は高校卒業後、東京のガラス清掃会社へと就職した。
ずっと東京都心で働くことに憧れていた。ガラス業界には興味があった。
そんな噓八百を並べ立てて由美子はガラス清掃に勤しんだ。何故、ガラス清掃を選んだのか。理由は単純である。危険手当がつく分給料もそこそこある上に、万が一のときは母に保険金が入りやすいからだ。
就職したガラス清掃会社は、かなりの好待遇で由美子を迎えてくれた。
何せ業界でも数少ない女性社員である。
無理な作業は絶対にさせず、一人暮らしを始める際は、物件探しから引っ越しの手伝いまで全て手配してくれた。
アルバイトの中年男性達との交流も由美子には心地良い時間だった。
作業も高所作業よりも、ビルの内面ガラスの清掃作業や地上での通行人の誘導作業がメインだった。
不満があるとすれば年間休日が少なかったことくらいだが、それも働いていれば慣れてしまった。むしろ、昨今人手不足が嘆かれるこの業界にしては休めている方だ。由美子はそんな風に自分を納得させていた。
たまの休日も一日寝て過ごすようなことが多かったが、服を見るのは好きだったため、おしゃれをして外出するときもあった。
給料のほとんどは家賃と実家への仕送りに充てていた由美子は、服以外の趣味に使える金額はほとんどなかった。
そのため、由美子は暇さえあれば先輩からもらったテレビでアニメを見たり、U-tubeで適当な動画を見ていた。
そんなとき、由美子はにじライブのVtuberである白鳥まひるの配信にハマるようになった。
天真爛漫で無邪気なまひるを見ていると、心が明るくなった。
辛いときはいつだってまひるの配信から元気をもらって乗り越えていた。
そんなただ生きるために働いていた日々の中で、由美子に転機が訪れる。
『まひるにはね、まひるが辛いときに救ってくれた人がいるの。だから、今度はまひるが誰かを救えるような人間になりたいんだ! だから、こうしてライバー活動を通して誰かの救いになりたいの!』
その言葉は由美子の心に響いた。
自分はこれでいいのか。
今の職場は辛いけど好きだ。
でも、母親に仕送りをするだけでいいのだろうか。
自分には辛いときに手を差し伸べてくれた人がもっといたはずだ。
気がつけば由美子は、にじライブのホームページから〝にじライブ三期生募集オーディション〟に応募していた。
あたしもまひるちゃんみたいに、可愛くてみんなに愛されるライバーになって誰かに手を差し伸べられるような人間になりたい!
オーディションの結果は合格だった。
何故合格できたか、由美子はいまだにわかっていないが、合格できた以上は覚悟を決めてライバー活動を行うつもりだった。
こうして森由美子改め、中居由美子は茨木夢美となるのであった。
それからは同期であるレオや林檎と様々な障害にぶつかりつつも、楽しくライバー活動を行っていた――いつも自分を助けてくれていたレオが、かつて手を差し伸べてくれた男子だったことも一切思い出さずに。
「……レオ?」
「おっ、目が覚めたか」
長い夢から覚めると、安心したような声が聞こえてくる。温かくて大きな背中の温もりを感じていると、再び夢の世界に旅出てそうだった。
レオは夢美に優しく声をかけると笑顔を浮かべた。
「もうすぐ部屋つくから辛かったら寝てていいぞ」
ああ、どうしてこいつはこんなにあたしに優しいのだろう。
何が同じクラスだったらきっと助けてくれただろうに、だ。
違うクラスだというのに、手を伸ばしてくれた彼の手を振り払ったのは自分じゃないか。
「うぅ……」
「お、おい、この状態で吐くなよ!」
レオは自分の後頭部に吐瀉物がかかるのを恐れて慌て始めるが、彼の首筋に落ちたのは大粒の涙だった。
「ぐすっ……ごめんね……ごめんね……!」
「夢美?」
「あたし……最低だ……!」
それからレオが部屋に夢美を運ぶまで、夢美はずっと泣きじゃくり続けたのであった。




