二章 形を与える者たち 7
テーブルにポテトとピザが届いた後、最初に口を開いたのはやっぱり金髪の女の子だった。
「私の名前は賽谷茜。お前は?」
いっそ清々しいくらいに遠慮のない自己紹介だった。
茜、茜ね。瞳の色とイメージが重なるし、憶えやすくて助かる。
もしかしたらカタカナの名前が飛び出してくるかもと予想してたけど、一応、日本人だよな?
「ええっと、俺は米倉日向。その、高校一年生です」
「じゃあ、私と歳は同じ。日向、私のことは茜でいい」
つまり、お互いに呼び捨てにするってことだよな。
同じ歳、か。敬語じゃなくてもいいらしい、多分。
そっちは? とでも言いたげに金髪少女、もとい茜が正面の二人に視線を向ける。
「ああ、この二人は……」
「私は黒部涅子。日向が所属している文芸部の部長で、学年は一つ上だ」
「わ、私も日向くんと同じ、文芸部の葛西琴子です。よ、よろしくね。茜ちゃん」
俺が紹介しようかとも思ったけれど、二人とも自分で名乗ってしまった。
露骨に無愛想な感じの先輩と、どうにか愛想よくしようと頑張る葛西の様子が対照的だ。
茜は葛西の方をじいっと見つめた後。
「日向、お前の部活には小学生も入っていいの?」
「高校生ですから! 私、高校生! 日向くんと同じ歳! この制服、見てわかるでしょ!」
「あっそ。小さいね」
「ちいさ……っ、い、よね。うん。知ってる。はは、は、はあ」
短い言葉で容赦ない爆弾落とすな、この娘。
葛西も泣きそうになるほどのことじゃないだろうに。ただの自己紹介ですら、この有様かよ。
先行き不穏すぎるだろ、このテーブル。
「ねえ、日向。こいつら、なんでここにいるの?」
いや、それ今言うのかよ! ここに来るまでに訊いとくことだろそれ!
しかし、茜はあくまで自分のペースを崩すつもりはないらしい。
俺が注いできたコーラに口をつけながら、黙っている。これ、答えろってことなんだよな、やっぱり。
「昨晩の件については、私達も知っているからだよ。うちの後輩がどんなトラブルに巻き込まれたのか、友人として耳に入れておきたくてね」
俺がどう答えたものかと悩んでいたら、涅子先輩がコーヒーを一口すすってしれっとそう言った。
「私は、その、なんか流れで……?」
それに続く葛西はひどく申し訳なさそうだ。さっきので茜に対して苦手意識をもったのかもしれない。
「ふうん。そ。ま、いいけど。いてもいなくても、話すことは一緒だし」
茜のこの言い方よ。
悪気があるのかないのか判断はつかないけど、こんなに的確に印象を悪くできるもんかね。
俺、もう、胃が痛くなってきたんだが。友達少ないやつにこの空気は酷すぎる。
「ねえ、日向」
「……はい」
すっと、茜が俺の方に向き直るのがわかった。今度は何だろう。聞くのが怖くてしょうがない。
「昨日は、その、巻き込んで悪かった。そして、ありがと。助けてくれて」
「!」
一度目を伏せた後、茜がぺこりと金髪の頭をさげる。
その髪の分け目の根本まで、きれいに金色な頭を俺はしばらく呆然と眺めて、ハッと我に返る。
「いやいや! 俺の方も助けてもらったし! お互い様っていうかさ!」
『そうだぞ。礼には及ばない。我々は当然のことをしたまでだ』
途端に恥ずかしくなって謙遜してしまった俺とは対照的に、スカーが偉そうに返事をする。
またこいつは勝手に、と思ったのも束の間。
「うん。そっちのアナタにも、感謝してる」
「え!」
茜の言葉に息を呑んだのは、俺と涅子先輩で、ほとんど同時だったように思う。
今、どう考えても、スカーに話しかけたんだよな。こいつ。
「茜、お前も、スカー……じゃなかった、幽霊が見えるのか?」
「ゆう、れい?」
驚いて訊いた俺の顔を、茜がきょとんとした顔で見返してくる。
あれ、もしかして違った?
「ゆうれい、幽霊……そっか。日向はこれを、幽霊だと思ってるんだね」
「思ってるって……どういうことだよ」
「顔見たらわかる。そっちのお姉さんも見えてる人。そうだよ。私にも見えてるし、話していることだってわかる。こっちだけ、なんだけどね」
とんとん、と自分の紅い目の下を指で示す茜。
やっぱり、そうなのか。こいつも俺と同じ。
「え、なに? 日向くん、どういうこと?」
「茜にも幽霊が見えてるんだよ。俺とか先輩と一緒ってこと」
「ええ、マジ? 私だけ仲間はずれじゃん」
一人だけ状況についてこれていない葛西が不服そうな顔をするが、見えたっていいことなんてない。
むしろ逆だ。損をすることばかり。
現にこんな状況になってるのも、言ってしまえばこの体質のせいだし。
「おい、勿体ぶった言い方はやめてくれないか。はぐらかされているようで、気分が悪い」
痺れを切らしたのか、涅子先輩がコーヒーのカップを机の上に置いて茜の方を見る。
さっさと先を話せ、ということなんだろう。
「意外と短気なんだね。怖い顔のお姉さん。いいよ。教えてあげる。どうせ日向には話すんだし」
わあ、また挑発的な態度。
俺は睨み合う涅子先輩と茜の顔を見ていられなくなって、葛西の方に視線をそらしたのだが。
「……なんか、この子、日向くんにだけ馴れ馴れしくない?」
こっちはこっちで怖かった。
何でこいつらこんなにギスッてんの? 俺もう帰りたいんだけど。
『初対面の女子なんて、一歩間違えばこんなものさ。それより、そのポテトとピザは誰か食べないのか? 冷めてしまうともったいないぞ』
(お前はいいよなあ、気楽でさ)
一人だけ戦地の外にいるスカーを羨みつつ、俺は茜が頼んでくれたポテトを一つまみ口に運ぶ。
しょっぱいし、冷め始めてるなあ、これ。あんまり美味しくない。
「それで? 日向は、何が知りたい?」
ええ、俺ぇ?
もそもそと芋を噛んでいたところに振られた茜の一言で、視線が自分に集中するのを感じた。
正直、一番訊きたいのは、こいつらがどうやったら仲良くしてくれるかなんだが。
「やっぱ、お前……茜が何者なのか、とかかなあ」
少し悩んで、最初に頭に浮かんできた疑問。
この雰囲気をことごとく破壊してくる女の子が、どこの誰なのか。何を知っているのか。
そのことを確かめないことには、始まらない気がする。
「私の事? いいけど。でも、まず確認させて。日向は私がどんな人間だと思う?」
なんだその質問、難しすぎんだろ。ほぼ初対面だぞ。
でもなあ、この茜のじっと見てくる感じ、俺の返事待ちってことなんだろうし。答えないと先に進まない気がする。どう言ったもんか。空気が読めない奴? いやいや、そういうことじゃなくて、あれだ。
「よくはわからないけど、悪い奴らに狙われてる女の子、とかか?」
「……そう。大体合ってるよ。じゃあ、日向が言う悪い奴らって、誰?」
「そりゃあ、昨日のあいつら。杖のオッサンとか、腕の化け物とかだろうけど」
そうだ。あの腕の化け物。あいつは一体なんだったんだろう。
「茜は、知ってるのか? 俺達を襲ってきたあいつらのこと」
「知ってる。だけど、説明するのが難しい」
やっぱり、そうだよな。俺と違って、茜はたまたまあの場に居合わせた雰囲気じゃなかった。
「日向は、聞きたい?」
そう尋ねた茜が、俺の顔を覗き込んでくる。この左右で色が違う瞳を向けられると、心の中を見透かされる気がして、少し怖い。それでもやっぱり、あの化け物がなんなのかは気になるよな。
こくり、と、返事の代わりに俺は頷いた。
「じゃあ、話す。けど、日向は頭良いほう?」
「え? いや、特別悪いほうじゃないと思うけど……良いとも言い切れないというか」
「そ。じゃ、頑張って頭使ってね」
ええ? 説明するのが難しいって、単純に内容のことなのか? だとしたら自信ないぞ。
ただまあ、こっちには成績優秀、読書家で、博識な涅子先輩がついている。
最悪、俺がまったく話についていけなくてもなんとかなる、はずだ。たぶん。
「まず、確認。日向は《暗黒物質》って知ってる?」
やっべえ。いきなり駄目そうだ。なんだって? ダークマター?
「聞いたことは、ある、と思う」
SF物の映画とか、漫画とかに出てくる言葉だよな。
黒くて、ぐちゃぐちゃしてるイメージがある。
「茜くん、君が言っているのは《行方不明の質量》のこと、という認識でいいのか?」
「そう。話が分かりそうな人がいて、助かる」
「それはどうも」
唸っていた俺の代わりに答えてくれた涅子先輩が正解を言い当てたらしい。
あんまり嬉しくなさそうだが。
「ええっと、涅子さん、ミッシング、なんでしたっけ?」
「《行方不明の質量》だ。私も雑学程度にしか知らない。この宇宙で生じる重力のおよそ八十五%が、私達の観測できる物質やエネルギーと相互作用しない未知の物質によるものだ、とする説だったと思う」
「わかる?」
「わからないってことがわかるぞ、葛西」
涅子先輩の説明を聞いて余計にわからなくなったらしい葛西が悲しそうにこっちを見つめてきたので、大丈夫だ、お前だけじゃないという視線を返しておく。
「重力が発生するためには、質量をもった物質が必要。そのことはニュートンや、アインシュタインが明らかにした。日向、これは知ってる?」
「ああ。相対性理論だよな」
「違う。万有引力」
違ったらしい。
思いつきで口にした俺の発言を即座に否定して、茜が溜息を吐いた。
「わかんないなら知ったかぶらずに、黙って聞いとけばいいのに」
葛西さん、ごもっともです。なにこれ、すっごい恥ずかしいんですけど。
「とにかく、この宇宙に存在しているあらゆる物質には質量があって、互いに引きつけ合っている。そこで生まれているのが重力。だけど後の研究で、宇宙全体で発生している重力の総量と比べた時に、それを生み出しているはずの物質の質量があまりにも少なすぎることがわかったの」
「……どういうこと?」
「まあ、車にガソリンを一リットルしか入れてないのに、何故か十リットル分の距離を走った、とかそんな認識でいいと思う。ガソリンが物質の質量、走った距離が重力だと考えてみろ」
「ああ、それは確かにおかしいですよね」
涅子先輩の例えでなんとなく掴めてきたぞ。
つまり、材料と出来上がった物の量が釣り合ってないってことか。
「重力が生まれるためには、質量を持った物質が必要。だけど、宇宙全体の重力と、人間が観測できる物質の量は釣り合っていない。釣り合いが取れている、と考えるには、ないはずの物をあると考えなきゃいけない」
そのないはずの物。本来、人間には見えていない、何か。
「それが、《暗黒物質》ってこと?」
「そういうこと。合格。」
そう言って、茜が少しだけ表情を緩めて笑う。
うわあ、この子、改めて見るとめっちゃ綺麗な顔してんなあ。
「要するに、だ。この宇宙には人間に見えているものの六倍くらい見えていないものがある。その見えない何かは重力を生み出すこと以外に存在すると証明できる性質を持たない。そのことは、今から八十年くらい前にわかってたことらしいんだが……」
涅子先輩は難しい顔で腕を組んだ後、茜の方を見る。
「その《暗黒物質》と、君や日向を襲ってきた怪物に、何の関係があるんだ?」
そうだった。
難しい話を理解できてちょっと嬉しくなってたけど、本題はそこじゃない。
あの怪物の話だよ。
結局、あれが何だったのか全くわかってないじゃないか。
「……ここからが、本題。今、話した《暗黒物質》。その膨大な量の未知の物質の中に、人間に影響を与える物が存在する。と、したら?」
言いながら、茜は自分の紅い瞳を指す。その目が意味することは何か。
「日向たちも、知ってるはず。普通の人間には見えない何か。だけど、ごく稀に、そういう何かの存在に気づける奴らがいる。オカルト、気、魔法、超能力、神様、悪魔、妖怪、UMA、第六感……そして、日向が言う幽霊。人類の歴史には、そういう存在しないはずの何かが場所を問わずに関わってる。ただの偶然だと、思う?」
見えるはずのない、何か。だけど、俺にとっては当たり前で、いつもそこに居た存在。
まさか、こいつらが、俺が幽霊だと思ってきた何かが全部?
顔を上げ、自分を見つめてくる俺に対して、スカーは何も言わなかった。
私に聞くな、ってか。
「この世界には《暗黒物質》を観測したり、接触したり、吸収したり、操作したりして、《明白物質》へと変換できる人間がいる。日向や、そこの不愛想なのも、多分、その一人」
茜はピッと人差し指を俺の胸元に向け、言う。
「私達は、日向たちみたいな存在を《形を与える者》って、呼んでる」
「シェイプ、ギフター……?」
俺みたいな奴を、そう呼ぶって?
なんだよそれ。だけど、これまで誰も、そうだ。
「けど、俺、普通だって言われた……前に、その、病院で調べられた時も! おかしなところなんてないって」
小学校に入学する直前の話だ。
いつまでも幽霊が見えると言う俺を、父さんと母さんは病院へと連れて行った。
あの時、俺は頭の中を機械で調べられて、何もないと言われたんだ。
その後は、精神科でカウンセリングを受けることになって、中学までは月に一回、足を運んで学校の事、勉強の事、生活の事を話さなきゃいけなかった。
口に出されることはなかったけど、親も医者も先生も友達も、あいつはどこかまともじゃないんだと思ってたはずだ。
普通なのに、普通のはずなのに、俺はおかしい奴なんだって、みんなが。
「……日向」
「…………っ!」
そっと、手に添えられた温かさのおかげで、俺は現実に引き戻された。
正面に座っていた涅子先輩が、俺の手に自分の手を重ねて、静かにこっちを見ている。
大丈夫だから、と、言ってくれているみたいに。
「日向は、先天性のやつだったんだね。霊感が強い、とか、酷い時は、悪魔憑きとか、言われるタイプ。でも、病院で調べたって、何もわかるはずがない。だって、日向の中の《暗黒物質》を見ているどこかだって、《暗黒物質》として、存在してるんだから」
「つまり、君は、私や日向を、普通の人間じゃないと言うんだな?」
「そう。人と違う何かがある。だけど、そのおかげで私は助けられた」
涅子先輩のきつい口調を受け止めて、茜は頷く。
助けられた、か。
俺が普通じゃなくても良かったんだと、言ってくれている。そう思うのはお人好しすぎだろうか。
「《形を与える者》には、生まれつきのパターンと後天性のパターンがいるの。日向みたいなのをネイティブギフターなんて呼ぶんだけど」
ふと、茜の表情が少し暗くなった。ここから話すことをためらうように、視線が下に落ちる。
「ここからが、あの、化け物の話。あれは後天性の《形を与える者》の一つ」
「あれも? 俺とか、涅子先輩と一緒だってことか?」
「厳密に言えば、違う。後天的に《形を与える者》として力を得る方法は二つある。一つは、特殊な訓練を受けることで、《暗黒物質》に関わる体内の器官が発達した場合」
「……特殊な訓練って?」
「宗教とか、武術とか、修行みたいなの。ああいうのを続けてて、才能があった人間が、本当に普通では考えられない力を目覚めさせることがある」
「ええ、マジでか」
座禅したりとか、滝に打たれたりとか、そういう奴だよな。
確かに、触らないで瓶を割る武術家の人とかテレビで見たことあるけども。
あれが、インチキじゃない可能性があるってことだよな?
「そして、もう一つの方法。これは特別な訓練は必要ないし、時間もかからない」
なんだそりゃ。じゃあ誰でもそのシェイプギフター? とやらになってしまいそうなもんだが。
「臨死体験。つまり、一度死にかけて、蘇生する。この手順でも、《形を与える者》になることがある」
死んで、生き返る。
茜の言ってることの内容が重すぎて、ちょっと実感が湧かない。
「ええっと、事故とかで死にかけて、目が覚めたら幽霊とお話できるようになりましたー、みたいな、あれのこと?」
話が難しくなってきた辺りからポテトを食べるだけになっていた葛西が、思いついたように言う。
ああ、それなら胡散臭さバツグンの超常現象特番で観たことある。
「そういうこと。死にかけることで五感が一時的に機能しない状態になって、それを補うために《暗黒物質》を感知する器官が急速に発達することがあるの。一命をとりとめた後で、その力を自覚するようになる」
心臓発作で倒れた時に目の前にこの世のものとは思えない美しい花畑を見た、とか、言ってた女の人、居たなあ。茜の話を信じるなら、あの人は本物と偽物、どっちだったんだろう。ちょっと気になる。
「そして、後天性の《形を与える者》の存在に、目をつけた奴らがいた」
そう言った茜の表情が険しいものに変わった。
眉間に皺を寄せた茜は、ハーフパンツのポケットに手を突っ込んで、そこから取り出した物を机に置く。
「人工的に《形を与える者》を造り出そうとする組織。昨日の夜、お前が会った杖の男も、その一人」
「茜、お前、これ」
茜が机の上に置いたものを見て、俺は息を呑む。
それは、黒い液体の入った注射器だった。昨日の夜、俺があのオッサンに打たれそうになった物と同じ。
「これは《黒い贈り物》って呼ばれてる薬。打ち込んだ人間を仮死状態にして、《暗黒物質》に関わる力を目覚めさせる効果がある。使われた人間がどうなるかは、日向が見た通り」
「見た通りって……それじゃ」
あの路地に倒れていた人は四人いた。
その中で立ち上がって腕玉になった人を、杖のオッサンは当たりだと言ってたんじゃなかったか。
その当たりが、どうなってしまったのか。それを俺はよく知っている。
「ネイティブギフターに対して、《クリアーズ》が生み出すのはイミテーションギフター。あいつらは、人間をさらなる存在に進化させると信じて、この薬を使ってる」
「あんなのを、わざわざ?」
進化、と、茜は言うけれど、あの腕の塊みたいな化け物のどこが人間なんだよ。
人間を何人も犠牲にしてまで、あれを生み出す意味があるとは思えないんだが。
「あの化け物は、失敗した例。《黒い贈り物》は、《暗黒物質》と、人の心の底にある闇を結び付けて、表に出す。昨日のあいつは、自分の欲望に食いつぶされてた。あれは《暗黒物質》の力をただ貪るだけの存在。クリアーズは《貪物》って呼ぶ」
そういえば、あのオッサンもそんな言い方してたな。くだらない、とか、醜いとか、そんな感じで。
「えっと、じゃあ、他の倒れてた三人は?」
「あれは《盲目》。そもそも《暗黒物質》に関わる力がないと、意識を失って、しばらくは目覚めなくなる」
つまり、一応、死んでたわけじゃなかったってことなんだよな。
流石に街中で三つも死体が見つかったら、大騒ぎになるはずだ。
学校では誰もそんな話してなかったし、大丈夫、だよな?
「今、話したのが、あの化け物の正体の話。日向、信じられた?」
「…………」
確認するように俺を見つめてくる茜。だけど、すぐに返事をすることはできなかった。
おかしなことに巻き込まれたのはわかってた。
だけど、ダークマターに、シェイプギフター? クリアーズ?
なんだそれ。悪い冗談だと突っぱねたいのに、俺にはそれができない。
だって、実際に見てしまったから。黒い炎も、犠牲になった人も、化け物も。
茜が言っていることは悪い夢の話じゃない。悪夢みたいな現実の話ってことになってしまう。
どうしても状況を飲み込めなくて、俺が黙り込んでいたその時。
「随分と、話が上手なんだな」
涅子先輩が茜に向かって、そう言った。なんだろう。この冷たい声の感じ。
「どういう意味?」
「そのままの意味だ。君は最初からずっとはぐらかしているじゃないか。《暗黒物質》に《形を与える者》、そして《クリアーズ》と《貪物》。それらのことは、まあ、信じるとしても、だ。肝心なことがわからないままだ。私は、それがとても気持ち悪い」
「…………」
さっきまでのギスギスとはまた違うような、それこそ、敵意といってもいいくらい口調。
問い詰める涅子先輩に、茜は何も言い返さなかった。
「なあ、茜くん、答えろ。君は、何者なんだ? 今、話したこと、なぜ君はそれを知っている?」
「……あ」
そうだった。茜はそれを、まだ答えていない。
俺がどう思っているかは伝えたけど、何が起きたのかもわかったけど、こいつが何者なのかはわからないままだ。俺は間違いなく、最初に質問したのに。
「ばれてたか……しょうがない、教える」
茜にも隠そうとしていた自覚はあったらしい。
俺は完全に忘れていて、涅子先輩はずっと気になっていたらしい事実。
そして、茜があえて言おうとしなかったこと。
「私も《クリアーズ》の一員だった。ほんの少し前まで」
やっぱりか、と、溜息交じりに呟く涅子先輩の声が妙に耳に残った。
ちょっと、待て。
「一員って、どういうこと……」
「そのままの意味。私もあの杖の男たちに協力して、《黒い贈り物》を使ってた」
「……! それじゃ、お前、昨日も」
昨日の路地で倒れてたあの四人、そして、そこに居た茜。嫌な想像が頭の中で膨らんでいく。
もしかしたら、あの人たちに薬を打ったのはこいつなんじゃないか。
だから、今、机の上に乗ってるこの薬を、こいつはもってるんじゃないのか。
つまり、俺は、こんなものを使う頭のおかしい連中の仲間を、助けたってことなのか?
『少年、話を最後まで聞くんだ。この少女にはまだ語っていないことがある。後悔するには、早い』
(どういうことだよ、スカー)
『仲間、だった。という部分だ。この少女はなぜ昨日襲われた? そしてなぜ、今日、我々の前に現れた? その理由をまだ、訊いていないじゃないか』
混乱した俺を落ち着かせるように、スカーがゆっくりと言葉を区切りながら言う。
どうやらこれは、俺の頭の中だけに聞こえてくる声らしい。
涅子先輩にも、茜にも、伝わっていないスカーの忠告。
そうだ。こいつの言うとおりだ。あと一つだけ、確かめたいことができた。
「茜、お前さ、もしかして、もう《クリアーズ》って連中の仲間じゃないのか?」
尋ねながら、俺はもう一度、昨日の夜のことを思い出していた。
昨日の路地で、こいつと初めて会った時の様子。そうだった。こいつは、確か。
「……《クリアーズ》からは、抜け出した。私は、もう、あいつらのやってることについていけない」
気まずそうにそう答えた茜の言葉と、記憶が重なる。
こいつは昨日、泣いてたんだ。
倒れている人達の中にしゃがみ込んで、一人で泣いてた。
「我慢、できなくなった。最初から気づけよって、思うけど……」
もしも、の話だ。茜があの時、誰かが傷ついていることに心を痛めて、後悔していたのだとしたら?
そして、こいつは俺のことも助けようとしてくれた。自分を犠牲にしてでも。
「抜け出したのは、いいんだけど。あいつら、本気で殺しにくるから。困った」
そう言って茜が苦笑いをするのを見ていると、なんでか心の底の辺りがざわざわするのを感じた。
こいつが何を抱えてて、何が本当で、何が嘘なのかはわからない。
だけど、人の神経を逆撫でするみたいな言い方とか、他人を突っぱねるような態度とか、口調とか、それが、全部。
こいつの本心なのか?
「騙すような話し方をして、悪かった。でも、これで全部だから」
「わからないな。君は何故、私達に、というか日向に接触しようとしてきたんだ」
涅子先輩も、そこには引っかかったらしかった。冷たい視線はそのまま、茜に訊く。
「気をつけろって言いたかったから。日向の顔はあいつに見られてる。もしかしたら、これからあいつらに狙われるかもしれない。それだけは、伝えたかった」
「……そうか。そこは、君を信じよう。ご忠告、感謝するよ」
茜の答えに、溜息を吐いてから礼を言う涅子先輩。
茜が《クリアーズ》だったとして、ここで俺達を警戒させるような嘘をわざわざ言いに来る意味はない。だから、納得したんだろう。
「それじゃ、私、もう行く。ここの支払いは、昨日のお礼だと思ってて」
そう言いながら、茜はテーブルに置かれていた伝票を掴んで立ち上がった。
俺と茜は隣に座っていて、茜がここから去るためには、俺が退かなくちゃいけない。
「日向、じゃま」
それでも座ったまま動かない俺を見下ろして、茜が無表情に言う。
そうだな。邪魔だよな。
お前を行かせるなら、俺はさっさと立って道を譲らないといけない。
だけど、なんだかなあ。このままお別れ、はい、さよならってことでいいのかなあ。
……いや、いいだろ。これ以上、関わる義理なんてない。
理屈ではわかってるんだけど、どうしても割り切れない。なんか、後味が悪いというか。
『迷っているな、少年』
(……だから、人の心を勝手に読むなって)
『いいじゃないか。何かをすべきではない。そう迷う時の答えは、大抵の場合、既に結論が出ている』
今の状況、茜にこれ以上関わるべきじゃないってのが正解なのはわかっている。
だけど、俺はそれに納得できてなくて。
それは、この説教臭い幽霊モドキの言う通りだ。つまり。
『本心に従え、少年。君がしたいと思ってることは、どっちか。わかっているんだろう』
まーた、説教だ。見透かしたようなこと言いやがって。
はあっと、肩を落として立ち上がる。悔しいけど、スカーの言うとおりだ。俺のしたいことは決まってた。
「あのさ、茜」
「何?」
立ったなら退いて。
そんな視線を向けてくる茜と見つめ合うのが恥ずかしくて、視線が勝手に泳いでしまう。
だけど、言わなきゃな。せめて、これだけは訊こう。ぐっと、自分の拳を握りしめて。
「俺に、何かできることはない、か?」
「おい、日向」
言った瞬間、涅子先輩が凄まじい表情で、葛西は不安げな顔で、こっちを見ているのに気がついた。
それで、自分が、馬鹿なことを言ってるんだということを自覚する。
何かって、なんだよ。そんな大事な部分をぼかすような言い方をする自分が情けない。
「日向、言ってる意味、わかってる?」
すっと、紅い瞳の目を細める茜の表情も、穏やかなものじゃない。
「それが、私を助けよう、とか、協力するっていう意味なら、やめて」
言って、茜は机の上から注射器を手に取り、俺の胸元に当ててくる。
「まだ死ぬのは、ヤでしょ? 男子高校生」
これ以上、関わるなら、降りかかる危険は昨日の比じゃない。
茜はそう言ってくれてるんだと思う。
それが分かっているから、俺を突っぱねるんだ。なんだ。やっぱり、そうなんじゃないか。
俺は込み上げてきた息苦しさを唾と一緒に飲み込んで、言う。
「確かに、昨日みたいなことに巻き込まれるのは嫌だ。怖いのも、痛いのも、嫌なんだけどさ」
口にしてみてわかった。これは紛れもない本心だ。それは困る。まっぴらごめんだ。冗談じゃない。
だけど、それでも、俺は。
「そんな危ない目に遭うとわかってる奴を、放っといたら後悔する。きっと」
見て見ぬふりは、もう止める。
一寸先は闇で、絶対にろくなことにならないとわかってても。
できるんだったら、何かしたい。助けたい。
俺は、昨日、そう決めたんだ。
「できることがあるなら、言ってくれ。その、頑張ってはみる、からさ」
最後はどうにか、茜の目を見て言う事ができた。
これで拒否されたら、おしまいだ。潔く諦めてしまおう。
そう思って、黙っていた時だった。
「ぶふっ……」
突然、茜が息を吹き出した。
「そんなキョドりまくった顔で……っ、その台詞は、ズルい……面白過ぎる」
口元を手で抑えて、俺から視線を外し、茜が肩を震わせはじめる。
もしかしなくても、笑われてるんだよな。これって。え、俺、そんなに変な顔してたか?
「ねえ、これ、いつもこんな感じ? すごく、変」
ひくっひくっとしゃっくりのような笑い方をしながら、茜が涅子先輩と葛西の方を見る。
「そんな馬鹿のことは知らん」
「ですねえ」
涅子先輩は渋い顔でそっぽを向き、葛西は呆れたような顔でピザを一切れ取ろうとしていた。
(なあ、みんな酷くない? 俺、変な事言ってないよな?)
『ああ! 私は格好良かったと思うぞ。頑張ったな! 少年』
やめてくれ、スカー。その運動会でビリだった子どもを励ます感じ。もっときつくなるわ。
「そっか。日向、私を助けてくれるの? 本気? 後から、取り消さない?」
「も、もちろん? 男に二言とかないし?」
「そっか、じゃあ……」
楽しそうに俺の顔を覗き込んでくる茜に耐え切れなくなって、また視線をそらしてしまう。
負けるな。ここで引き下がったら、本当に格好悪いぞ。俺が不退転の覚悟を決めたその瞬間。
「じゃ、今日の夜、家に泊めてね」
「まかせっ……は?」
こいつ今、何て言った?