二章 形を与える者たち 5
「……と、いうことがあったんです。ハイ」
今朝、涅子先輩にしたのと同じような説明をすること五分。
問答無用で床に正座をさせられていた俺は、静かなのにとんでもなく怒っていたらしい葛西の表情を窺った。
「涅子さん、今のコレの話、本当?」
コレってひどくない?
まあ、顔に感情が戻ってきているあたり、葛西の怒りもおさまりつつはあるんだろうけど。
「ああ。私が関わっているところに嘘はないよ。信じられない話だろうが、黒い炎もすぐそこにいる」
「…………」
苦笑しながら答えた先輩に、葛西はむすっとした顔でしばらく腕組みをしていたのだが。
「七十五点」
「……なんだって?」
「だから、七十五点だって!」
突然、謎の点数を口にしだした葛西がわあっと吠えるように言う。
「もう! 二人とも、こんなイタズラやめてよね! 言いだしっぺはどっち? どうせ日向くんでしょ?」
ぷんぷん、と擬音が聞こえてくるようなふくれっ面で怒ってますよとアピールしている葛西。
これ、あれか。信じてくれてないってことだよな?
「いや、葛西、イタズラじゃなくて、今のはマジで」
「もういいから! しつこいよ! 涅子さんも涅子さんです。日向くんに乗せられちゃってさあ!」
あー、駄目だこれは。完全に話を聞いてくれないモードになってしまっている。
それもそうか。
今の俺の話をすんなりと、そうだったんだ大変だねー、なんて言える奴の方がどうかしてる。
「たしかに? ヒーロー物の導入としてはオーソドックスな展開だとは思うよ? けど、日向くん、それを私に喋っちゃダメじゃん! そこは危険なことに巻き込みたくないからって、秘密にするのがお約束でしょ? 減点だよ、減点!」
無理だよ。こんなん普通の高校生が隠して生活できるか。
誰かに話さないと抱えきれないっての。
しかし、この口ぶり、完全にネタ扱いされてしまってるなあ。
どうしたらいいんですかね、と目配せをしてみたが、涅子先輩も困ったように肩をすくめただけ。
別に無理にでも信じさせる必要はないんだけど。
それだと俺がタチの悪いイタズラを企てたことになるし。
『少年。百聞は一見にしかず、だぞ。口で色々言うより、見せてやった方が早いんじゃないか?』
ううむ、と唸っていた俺に答えるように頭の中にスカーの声が響いてくる。見せるって何をだ?
『私と君が力を合わせている姿を、だよ。あの姿を見れば、さすがに信じざるを得ないだろう』
(……確かにな。だけど、昨日のあれ、またできるのか?)
『君が望むならな。力を貸そう』
いいのかなあ。と、思う反面、少しだけ興味もあった。
俺の体の左側から出ていたあの黒い炎、あれって普通の人にはどう見えるんだろうか。スカーと同じで見えないなら大丈夫なんだけど、そうでないなら、うっかり人前で使うことはできない。
ちゃんと、確かめておくことは必要だよな。
(よし。わかった。じゃあ、頼むよ、スカー)
物は試しだ。どうせここには三人しかいないんだし、やってしまおう。
「なあ、葛西」
「あ、こら、日向くん! なんで立ち上がってるの? おしおきなんだから今日は下校までお座り……」
「いいから。あのな、騒がずに、よーく見てろよ」
「はあ? ちょっと、そこまでしつこいと私もいい加減……」
鬱陶しそうに言う葛西の前で、俺は目を閉じて意識を左手に集中する。あとは呼べばいいんだよな。
さあ、来い!
『炎傷』
重なる俺とスカーの声。その瞬間。またあの黒い炎が左手からほとばしり出た。
できた。そう思ったのも束の間。
「はギャーっ!」
耳を貫くような悲鳴をあげながら、跳び上がった葛西が尻餅をつく。
「も、ももも、燃えとる! 涅子さん、ひひひ日向くん燃えとるよ何あれえ!」
「あ、ああ。落ち着け葛西。私にも見えてるから」
そのままジタバタと四つん這いで涅子先輩に抱きつきに行った葛西が、震えながら俺を指差してくる。
それを宥めている涅子先輩もかなり驚いているらしい。目を丸くしてこっちを凝視している。
「日向、平気なのか。それ」
「あー、はい。一応、俺はなんともないんですけど」
涅子先輩に指摘され、改めて自分の燃える左側を眺めてみる。
腕はまるごと一本全部。肩とか、背中まで広がってるのか。ああ、首とか顔も半分くらい黒いのに包まれてるんだな。部室の窓にうっすらと映った自分の姿を確認して、我ながらこれは怖いわ、と思う。
「黒い! けど、燃えてるって日向くん! ゴーストライダー! ヒューマントーチ!」
「違うからな。バイクとチェーンはないし、空も飛べないから」
ビビりまくっている葛西に言いながら、気がついた。
葛西にも見えるのか、この黒いやつ。
そうだ。スカーは鏡や窓には映っていなかった。だけど、この黒い炎は違う。鏡に映るんだ。
見た目は似ていても、これとスカーは別の何かってことになるのか。
「ひ、日向くん、熱くないの? 地獄の業火に焼かれてる感あるけど」
「ああ、平気だよ。俺にもよくわからないけど、これ、本当に燃えてるわけじゃなさそうだ」
恐る恐る尋ねてきた葛西の前で、試しに部室の本棚から辞書を一冊手に取ってみる。
やっぱりだ。この炎に触れても、紙のページが燃え上がる様子はない。
そもそも本物の炎ならこの時点で色んなものに燃え移って大惨事だもんな。また一つ、発見だ。
「そっか……ちょっと待ってね。今、落ち着くから。冷静に、頭を冷やさせて」
すうーはあーと、小学校高学年くらいの胸のふくらみに手を当て、目を閉じて息を整える葛西。
何度も何度も深呼吸を繰り返した後、ぱちり、と目を開けた。
「つまり、だよ。さっきの話、全部、本当ってことだよね? 黒い影とか、ヤバそうなオジサンとか、腕の怪物を倒したこととかも、全部?」
「まあ、そうなるな」
「…………いい」
「は?」
ふるふると小刻みに振動しながら、葛西は俯いて何か呟く。なんか、様子がおかしくないか。
「はぁあーっ、かあっこいいよぅ、日向くぅん」
頬に手を当て、顔を上げた葛西はどういうわけか恍惚とした笑みを浮かべていた。
「な、なに? どしたの、お前」
「ちっちゃい頃から憧れてきたヒーローの卵が、今、ここにいるんだねぇ。私の前にぃ」
『おい。この娘、大丈夫か? なんだか目が怖いんだが』
うん、俺もそれには同意だ。
とろん、とした眼差しのまま、じわじわとにじり寄ってくる葛西に対して、俺はつい後ずさりしてしまう。
駄目だ。この部室狭いから、すぐに追い詰められる。こうなったら。
「ああ! なんで戻っちゃうの、日向くん!」
俺の気持ちはちゃんとスカーに伝わっていたらしい。
ぱっと黒い炎が消えて、いつもの俺の姿に戻ることができた。それを見た葛西が残念そうな声を出す。
「いや、お前に見えたんだから、他の誰かにもバレるかもしれないだろ。いつまでも燃え上がってられるか! 終わりだよ、終わり! な!」
「ええー、ヤダ! あとちょっとだけ! ね? 一緒に写真撮ろ? 日向くん」
「駄目に決まってんだろ!」
「ネットにはアップしないから! 自分で楽しむやつだから! ね! ね!」
「言い方が気持ち悪いよ! おい、離れろって!」
しつこくまとわりついてこようとする葛西の頭を手で押しのけ、それでも剥がれないもんだから、いっそのこと逃げてしまおうかと俺が思い始めていたその時。
コンコンコン、と、ドアをノックする音が部室に響いた。
「やべ、先生か?」
普段、この部室を訪れる人間なんていない。俺達が騒がしいのに気づいた通りすがりの先生が、注意をしにきたのかもしれない。
どうする? と俺は涅子先輩と葛西を見たのだが。
『お前が出ろ』『お願い日向くん』返ってきたのはそんな視線だった。
やっぱり、そうなるか。
ちゃっかり俺から離れていった葛西に恨みを込めた視線を送ってから、俺は息を吐いてドアに手をかける。
「はいはい、すみません。なにか御用です……か?」
「…………」
ドアを開けてすぐに、片方だけが赤い瞳と目が合った。
そこに立っていたのは、目つきがちょっと悪くて、色が白くて、金髪な、見覚えのある女の子。
「ごめん、ちょっとタイム」
俺が反射的にドアを閉めてしまったのも、この場合は仕方がないだろう。
『おい、少年。どうしたんだ、今のは……』
「わかってるよ。ああ、わかってる。でもこれは、ちょっと一旦、時間くれ」
いや、なんであの子がここにいるんだ? 幻覚か? いやでもノックの音はみんなに聞こえてたわけだしな。他人の空似、にしては、あまりにも目立ちすぎるルックスだもんなあの子。
「ねえ、日向くん、どうしたの? ドア、めっちゃノックされてるんですけど」
コンコンゴンゴンガンガンガアン、と段々強くなってきている音が聞こえていないわけじゃないんだ。だけど、心の準備というか、できればなかったことにしたいというか。
そんな俺の願いは、ガラガラっと勢いよく開かれたドアの音でかき消されてしまう。
「無視するな」
苛立ったような声が俺の背中に突き刺さる。ああ、この声、この乱暴な感じ、聞き覚えあるなあ。
「いや、すんません。ちょっとのっぴきならない事情がありまして……」
「そんなの知らない」
振り返ると、赤い目と黒い目がじーっとこちらを見つめていた。
口元がへの字に曲がっているところを見ると、今のでご機嫌を損ねてしまったらしい。
素直に出ればよかったと後悔する。
「えっと、昨日の、だよな。なんでここに?」
「忘れたの? また会いに来るって、言った」
ああ、確か気絶する間際、そんなこと言われていたような気がする。
ただいきなり、それもこのタイミングで来るとは思わなかった。
ここ学校だぞ。ただでさえ面倒な状況になってたのに、まだ何かあるのか。
「日向、その子はもしかして……」
「はい、そうです。昨日助けた女の子、なんですけど」
「うそ、やば、可愛い」
涅子先輩はさっそく事情を察してくれたらしい。
葛西は目を丸くして驚いているけど、今、気にするところはそこじゃないだろ。
可愛いってのは同意するけどさ。
「ん、邪魔する」
なんのためらいもなく、金髪の女の子が部室に踏み込んでくる。
昨日と違って、今日はTシャツに、ハーフパンツ、そしてキャップか。
なるほど、これなら運動部っぽく見えなくもない。
うちの高校、門のところにガードマンがいるわけでもないしな。怪しまれないでここにたどり着くのは、多分、難しくない。
そもそも服は腕玉に破られてたはずだ。恰好が変わってるのは当たり前か。
「私、こいつに話がある。ちょっとここ、貸してもらうから」
びっと立てた親指で俺の方を指し、女の子はそう言った。お願い、というより、宣言だな、これじゃ。
「残念ながら、それは無理だ」
しかし、それに答えた涅子先輩の態度も毅然としたものだった。
女の子の鋭い視線に怯む様子もなく、真っ向から睨み返している。すげえ、かっこいい。
「なんで?」
金髪娘がさっきより棘のある声色で言ったその時。
ピンポンパンポーン、と校内放送を告げるコール音が部室の中に響き渡った。
『校舎に残っている生徒の皆さん、下校時刻です。活動をしている部はすぐに片付けをして、帰宅してください。繰り返します――』
そうだった。下校時刻、早くなってたんだっけか。
今日からは先生じゃなくて、放送委員の人が連絡することになったみたいだけど。
「と、いうことだ。君がどこの誰かは知らないけれど、話がしたいなら他をあたってくれ」
間延びした声の繰り返し放送を聞き流しながら、涅子先輩が文庫本を閉じて立ち上がる。
事情とか知らん。私は帰る。言ってないのに、そう思っているのがひしひしと伝わってきた。
「………………」
「………………」
「あのさ、べつにここじゃなくても」
「うるさい。場所、変えるから」
気まずさを誤魔化すように舌打ちをした後、金髪娘はズカズカと部室から出て行ってしまう。
場所を、変える、かあ。俺は腕を組んで、天井を見つめながらぼやく。
「これ、ついていかないとダメなやつですかね」
「だろうな」「だと思うよ」
返事をしてくれた二人の声が言ってる内容まで見事に重なった。
なんでこうなったかなあ。
俺は溜息を吐いて、机の上の自分のバックパックを掴んだのだった。