二章 形を与える者たち 2
どうしてそんなことをしたのかはわからない。
咄嗟に手を伸ばして掴んだそれは、とても柔らかかった。
なんだろう。マシュマロよりも重量感があって、弾力も少し強い気がする。わらびもち。にしてはべたべたしていない。ああ、そうか。耳たぶだ。手の平におさまりきらない巨大な耳たぶがあるとしたら、きっとこんな感じに違いない。ほっほっほ、と笑う恵比寿様の顔が浮かんだ、その時。
「…………あれ?」
目を開けた俺がわしづかみにしていたのは、涅子先輩の胸だった。
浅黒い肌に、うろんな目。いつも澄ました横顔がクールでかっこいい。そして胸の大きな俺の先輩。
うん。間違いない。涅子先輩だ。これが夢なら、最高かよって感じなのだが。
「お、オハヨーゴザイマス」
「……っ! …………っ!」
いつもは半分閉じているような涅子先輩の目が大きく見開かれ、唇が震え、頬がかあっと朱色に染まっていくまでの様子が、スローモーションみたいにゆっくりと見える。
胸を掴んでいるおかげで、涅子先輩が大きく息を吸ったのがよくわかった。
ああ、これ、あれだな。避けちゃ駄目なやつだわー。
「……いっ」
やああああああっと、絶叫と共にやってきたフルスイングのビンタを、俺は甘んじて受け入れることにした。
「いきなり暴力を振るったことは悪いと思っている。君に悪気が無かったことも理解しているつもりだ。でも、でもな。やっぱりけじめというのはしっかりつけておいたほうがお互いのためだと私は思う」
「……はい。わかってます」
ビンタ一発でさっきの件はなかったことにしよう。
涅子先輩の言わんとするところを察して、俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございました。涅子先輩」
「……そこはすみませんじゃないのか、日向」
「いえ、合ってます」
「そ、そうか。それならいいんだが」
ひりつく頬の痛みと一緒に、手の平にはまだ極上の感触が残っていた。
感謝の言葉と一緒に向けた俺の視線はどれだけ真っ直ぐなものだっただろう。
涅子先輩は少し首を傾げながらも、納得してくれたようだった。
さて、と、だ。
思わぬラッキー、じゃなかった、ハプニングがあったが、おかげでかなり冷静になれた。
俺は改めて、今、自分がいる場所をぐるりと見回す。
家具の類いが全て寒色系で揃えられた、落ち着いた印象を受ける部屋だ。ベッドと、飾り気のないスチール製の勉強机、座り心地の良さそうな背もたれ付きの椅子、そして黒猫のぬいぐるみ。
間違いなく、俺の部屋じゃない。
寝室らしきこの場所と、リビングが繋がっている造りからすると、アパート的な場所っぽい。
「涅子先輩、あの、もしかしなくても、ここって」
「ああ。私の部屋だが?」
いや、なんでそうなった?
落ち着け。落ち着いて昨日のことを思い出せ、米倉日向。いつも通り学校行って、部活行って、家に帰ってDVDを観た。そんで、コンビニに行こうとして……黒い影、紅い目の女の子、倒れていた人達、杖ついたヤバそうなオッサン、腕玉、しゃべる黒い炎、そして、もっと何かと戦っていたみたいな気もする。
まずい。全然わからん。
考えれば考えるほどどこからが夢かわからなくなりやがる。
つうか、記憶の中に涅子先輩ほとんど出てこないんだけど。
こうなる理由が全く思い当たらないんだけど!
「ああ、あああ? ああ」
「おい、怖いから虚ろな目でうめくの止めろ。その様子だと昨日のことは覚えていないんだな」
「き、昨日のことって? 俺、何が何だか全然わかんなくて」
「いいんだ。そんな気はしていた」
「……? 先輩、それ、どういう」
「詳しい話は、そいつに尋ねればいいんじゃないか?」
「そいつ?」
俺と、涅子先輩じゃない、誰かを指す言葉。先輩はなぜか俺の背後をじっと見ている。
そいつって、俺の記憶が夢じゃないなら、まさか!
『やあ、少年。よく寝ていたな。体の調子はどうだ?』
「お前っ! 昨日の!」
思わずふり返った視線の先。そこには人型の黒い炎のような何かが、ゆらゆらと浮かんでいた。
「私がお前と同じ、見える側の人間で良かったな。そいつを見て、私もただ事じゃないのはよくわかったよ」
俺と違って狼狽えた様子は少しも見せずに、涅子先輩は自分の椅子に座って足を組む。
そこで、俺はふとあることに気がついた。
「先輩、そのパジャマ可愛いですね。めっちゃ似合ってると思います」
「うるさい。いいから。話が逸れるだろバカ。昨日の夜、何があったのかさっさと確認!」
言い方はつっけんどんなんだけど、ちょっと顔赤くなってる先輩パジャマ姿との相乗効果可愛い。
『そうだな、少年。君がどこまで覚えているかわかれば、私も説明しやすい』
お前は当たり前のように会話に加わってくるんじゃねえよ。混乱するだろが。
頭や腕、足らしいものはあるけれど、全身真っ黒で、口や鼻、耳はない。目だけが紅く燃えるように光っているそいつを、俺はじっと見つめる。
これは、なんだ? こんな幽霊みたことないぞ。
「えっと、ですね。涅子先輩。俺、今から全然現実味のない話、しますけど、引かないで下さいね」
「わかった。聞くから落ち着いて整理してみるといい」
キイ、と、背もたれに体を預けた先輩が俺をじっと見つめている。
どこから話しても、上手く伝えられる気がしない。そんな気持ちを抱えたまま、俺は覚えていることからぽつぽつと言葉にしていくことにした。
「……話をまとめると、だ。昨日、夕飯を買いに行った君は謎の少女と怪しげな男に出会い、化け物に襲われたが、そこの黒いやつの力を借りてやっつけた、と。そういうことか」
「はい。俺の記憶が正しければ、そんな感じだったと思います」
俺のまったくまとまらない話を聞いて、これだけ要約して理解してくれるあたり、涅子先輩はやっぱすごいなあ、と思わされる。突拍子もない話だったのに、馬鹿にせず真剣に聞き役に徹してくれたし。
おかげで、俺自身もなんとなく昨日の出来事を呑み込めた。そう思った時。
「日向」
「はい? って、いでででででででえ!」
名前を呼ばれたと思ったら、両方の頬をつねられ引っ張られていた。
突然、どうしたんだと涅子先輩の顔を見ると、その目がつり上がっていて、明らかに怒っているのがわかる。
「ひーなーたぁー? 私はたしか部室で注意したよな。街で危ない事件が起きてるから気をつけろって」
「ほ、ほうれした! ほうれしたね!」
「にもかかわらず、自分からノコノコ怪しい場所に足を運ぶとはどういうことだ? あん?」
「いたひ! いはひれふっへ! ふいはへんふいはへんっへは!」
ぐいいいっと容赦なく頬肉を横に伸ばされる痛みで涙が出てきた。
これ、ほんと千切れるかもしれん。
「……っとに君は、バカじゃないのか」
「か、返す言葉もないです。ハイ」
ようやく手を離してくれた先輩のじとっと咎めるような視線に、自然と体が縮こまる。
「聞く限り、一歩間違えば死んでいた可能性だってあるんじゃないか。迂闊にもほどがある」
「……おっしゃるとおりです、ほんとに」
あの腕の化け物をどうにかできたから良かったものの、もしも黒い炎なんてわけのわからないものが現れなかったらどうなっていたか。想像して、改めて自分がどれだけ恐ろしい目に遭ったのか実感した。
その証拠に腕玉を倒した後、俺は意識を失ったわけだし。相当ギリギリだったはずだ。
でも、ちょっと待て。意識を失ったあの後だ。そこから先は、本当に覚えてないぞ。
「そうだよ。俺、なんでここに……」
『少年、それは私が説明しよう』
「うわ! だから、いきなり話に入ってくんなよ。びっくりすんだろ」
『まあ、落ち着いて聞け。私のことにいちいち驚いていたら、キリがないだろう』
ふわり、と、俺と涅子先輩の間に割り込んできた黒い炎が妙に偉そうな口調で言う。
ほんと何なんだこいつ。幽霊にしちゃ自己主張が激しすぎないか?
『腕の化け物を倒した直後のことだ。君が意識を失い、倒れてしまったのでな。このまま路地で寝かせておくのは流石にまずいだろうと思った私は、君の体を操りスマホを使わせてもらうことにした』
おい、今、操るって言わなかったか? 俺の体、こいつに勝手に動かされてたってことか?
『とりあえず通話履歴を確認して、めぼしい連絡先を当たっていたら、このお嬢さんに繋がったというわけだ。少年、今回は助かったが、スマホにはロックをかけておいた方がいいと思うぞ』
しかも、思いのほかデジタルに精通してやがるなこいつ。つか、俺の通話履歴っていえば。
「げっ、お前、葛西にも連絡してんじゃねえか。おかしなこと言ってないだろうな?」
確認してみると、俺の携帯からの発信履歴が二件増えていた。
一つ目が葛西で、その後に涅子先輩にかけられている。
おいおい、涅子先輩はともかく葛西の方にはどう説明するんだよ、これ。
「……でも先輩、よく泊めてくれましたね」
「まあ、電話での口ぶりで様子がおかしいことには気づいたからな。初めは確認しておくか、くらいに思っていたんだが……」
涅子先輩は困ったような顔で頬をかきながら、黒い炎に視線を向ける。
「まさか、ここまで妙なことになっているとはね」
そりゃいくら冷静な涅子先輩でも、これはキャパオーバーだよなあ。
『迎えに来たそのお嬢さんが、快く家に招いてくれるというのでな。お言葉に甘えて、私が君の体に取り憑いた状態でここまでやってきたんだよ』
「それはどうもありがとよ」
なんでこいつが得意げなのかは釈然としないけどな。単に涅子先輩が聖人だっただけだし。
「あのな、さっきから当たり前みたいに話に入ってきてるけど、お前、何なんだ?」
『それはもう、君だって知っているはずだろう。私の名は炎傷。スカーでも、レッドでも好きなように呼んでくれて構わないぞ』
「いや、名前とか、そういうことじゃないんだよ。お前の存在そのものの話! わかるか?」
『なるほど。哲学か?』
「ちがうわ! なんか、あるだろ! 幽霊とか、炎の精霊とか、あとは……まさか悪魔とかそっち系のヤバい奴じゃないだろうな?」
幽霊はともかく、精霊やら悪魔なんてものは俺も見たことがない。
ただ、こいつは、黒い人型の炎なんて奇抜な見た目をしているからな。
疑ってかかっておくほうが賢明だろう。
後で魂を頂く、とか言われたら笑えない。その辺は、最初にはっきりさせておく必要がある。
『私が何者か、か。それは……すまない。私にもよくわからないんだ』
「はあ? よくわからないって、お前、嘘つくなよ。自分の事だろうが」
『そんなことを言われても困る。正直に言えば、私には記憶と呼べる記憶がないんだ。気がついた時にはこの姿になっていて、君と出会うまではただ、この街を意味もなくさまよっていた』
スカーレッド、とかいう黒い炎は言葉のとおり、困ったように肩をすくめる仕草をしてみせた。
記憶がないって、本当かよ。俺達を騙そうとしてるんじゃないだろうな。
「……涅子先輩は、どう思います?」
「さあな。私もこんなのは初めて見た。普通、幽霊というのは少なからず生前の未練を引きずっているものなんだが。スカー、だったか? これの言う事を信じるなら、幽霊とは別の何かなのかもしれない」
ふーむ、と涅子先輩は形のいい顎に長い指をあてて、スカーをじいっと見つめる。
「見れば見るほどに不思議な姿だな。しかし、本人が覚えていないと言うのであれば、現状、正体を確かめる方法はない。昨日は一晩中、君の枕元でゆらゆらしているだけだったし、悪さをするようなものでもなかろう」
「こいつが、一晩中傍でって、涅子先輩」
なんかヤだなあ。その絵面。寿命を吸われてた、とか、そういうのは勘弁してくれよ。
「それに何より、君はそのスカーに助けられたんだろ? 少しくらい信用してやってもいいんじゃないか?」
俺はよっぽど嫌そうな顔をしていたのだろう。涅子先輩は宥めるような笑顔をこっちに向けてくる。
「まあ、そう言われると……そうなんですけどね」
うろ覚えではあったけれど、昨日、腕玉に立ち向かおうとした時、こいつは俺を励ましてくれたはずだ。向き合え、と言ってきたあの声は、結構、頼もしかった。
よし。もう、いいや。今はこいつが悪い奴だと断言する証拠がない。保留ってことにしよう。
『そうだ! 少年、思い出したぞ! 私は昨日、救わねば、と強く願ったんだ! あの金色の髪の少女を助けたいと、そう思っていたことだけは間違いない。君も覚えているだろう?』
「ああ、なんか、そんなこと言ってたな」
俺も見て見ぬふりをするのが嫌で戦ったわけだけど、こいつの熱意みたいなのは伝わってきた。
「正義感の強い幽霊モドキ、かあ。世の中、妙な奴もいるもんだなあ」
ぽりぽり、と頭の後ろを掻いてから、スカーを見る。色合い的には悪っぽい要素がどうにも強いけど。
「日向。君の話に出てきた金髪の子といい、杖の男といい、街で起きている物騒な出来事と関わっているのは、まず間違いないだろう。ただ、それを調べる方法は今の私達にはない、か。よし」
気持ちを切り替えるように、ぽん、と両膝を打って椅子から立ち上がる涅子先輩。
「わからないことを考えていても仕方がないな。学校もあるし、朝ご飯にしよう」
「学校……朝ご飯って、うわ、もうこんな時間かよ!」
ベッドの枕元に置いてあったデジタル時計を見ると、俺がいつも起きているのとそう変わらない時間になってしまっていた。
これは、まずいんじゃないか? 急いで帰らないと、遅刻する。
「もともと起こそうとしていたわけだからな。朝ご飯、君も食べていくだろう?」
「え! いいんですか!」
「うん。ただ、簡単な物だから期待はするなよ? あと、洗面台はそっちだ。先に顔を洗ってこい」
「はい! ありがとうございます!」
俺の感謝の言葉に軽く手を振って、涅子先輩がキッチンへと向かう。
あ、エプロンとかちゃんと着けるんだなあ。
流石は女子だ。マジかよ。手料理とか、これラッキーすぎやしないか?
『ふーむ。少年といくらも変わらないだろうに。よくできた娘さんだなあ』
なんだそりゃ。オッサンかよ、こいつ。幽霊に年齢とか関係あるのかは知らんけど。
「つーか、お前、ついてくるんだな」
洗面所に向かう俺の後を、スカーが当然のように追ってくる。
『なんだ。駄目か?』
「別に」
どう考えても男の洗顔より、涅子先輩の料理姿でも眺めているほうが楽しいだろうに。物好きな奴だ。
『ああ、もちろん、トイレの時は離れておくからな! あと、君も年頃だ。ナニしたくなった時も遠慮なく言ってくれ。プライバシーはきちんと守ると約束するよ』
「……頼むから、先輩の前でナニとか言うなよ」
やっぱり、オッサンだわ、こいつ。言い回しが下品なうえに古臭いんだよ。
「………………」
洗面台の前に立って、気がついた。鏡の中の寝起きでぼんやりとした顔の俺の横に、スカーの姿はない。幽霊と同じように、こいつも鏡には映らないみたいだ。それは俺が、光とは別の何かを見ていることの証明でもあるわけで。
「考えても、仕方ないよな。それはそれ、だ」
そんなことより、洗面台に歯ブラシ、一本しかない。良かった。他に誰か来ている感じじゃない。憧れの先輩には実は彼氏がいて、みたいな悲しい現実を突きつけられることはなさそうだ。安心した。
「てか、あれ、ちょっと待てよ」
鏡に映った自分を見て、一つ、違和感を覚えた。
服が血や埃で汚れてるのに、身体の方がやけにきれいすぎやしないか?
昨日の怪我、どこいった?
腕玉に襲われた時、俺は地面に飛び込んで、全身あっちこっちを擦りむいたはずだ。それなのに肘にも、膝にも怪我らしい怪我が見当たらない。いくら擦り傷でも一晩で完治するってのはおかしいだろ。
「いや、それより、これ、まさか」
ぺたぺたと自分の体を手で触ってみて、気がついた。おい、この感じ。あれじゃないか。
「……やっぱりだ」
がばっと、思い切って上着のシャツを脱いで、俺は確信する。この体、知ってるぞ。
「先輩! 涅子先輩! ちょちょ、これ!」
「ん? どうした、日向ってきゃあああああっ! ななな、何で上裸なんだお前ぇ!」
「いやいや、見てくださいって! ほら、バッキバキですよバッキバキ!」
そう。見事に引き締まり六つに割れた腹筋。元々より一回り、いや、二回りは膨らんで存在感を増した胸、肩、腕の筋肉達。一晩で自分のものとは思えないほどに成長した肉体に、俺はぐっと力を込める。
「すごくないですか、これ! やっべえ、俺、めっちゃマッチョじゃん。かっけえ!」
「知るかあああ! ちょ、お前、寄るんじゃない! 来るな! こら! もうっ……」
ばかああああああああっと、俺は本日二度目になるビンタをもらってしまった。
涅子先輩、すんません。ぶっちゃけ、わざとやりました。