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シェイプオブダーク  作者: ノすけ
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一章 重なる闇

 この章のみ、まとめて書いたものなので、少々文量があります。

 自分は本来、ワードで文章を書いているもので、不慣れなところなどあるかもしれません。

 文体や、行間の空け方など、指摘していただけると嬉しいです。

 よろしくお願いします。

「ねえ、さっきから誰と話しているの?」


 そう言って俺を見る母さんの目が、たまらなく怖かったのを今でも覚えている。

 その頃の俺はまだ幼くて、自分と、他の人の見ている世界が少し違うのだということに気がついていなかった。それだけに、その一言は俺の心に深く突き刺さったのだと思う。

 昔はどうしていいのかわからなくて悩んだものだが、今、振り返ってみると母さんの反応は当然のものだったんじゃないかと思う。


 自分の息子が、突然何もないところをじっと見つめ、誰ともなく話しかける。

 そんな場面を何度も、何度も見せられて、平然としていられる親はいないはずだ。


 見て見ぬふりをして、そんなはずはないと否定して、自分の息子はまともだと信じようとして、でも結局、耐え切れなくなって、確かめるしかなくなった。あれは、そういう目だったんだ。


 そして、俺は優しい母さんにあんな目をさせてしまった自分自身に、脅えていたのだ。


 あの日から俺は、どうやら自分にしか見えないらしい「あいつら」を無視することに決めた。


 普通の人には見えないけれど、普通の人のように話し、世の中のいろんなところをふわふわと飛び回る。触ろうとしても触れない。いつも炎のように少し揺れている、あいつら。

 幽霊、とか、そんな名で呼ばれるあいつらが見えるということを、俺はひたすら隠そうとして生きてきた。


 秘密を持つ、ということはつまり、自分を偽って生きることだ。

 そういうのは周りの人間に確実に伝わる。

 他人との関わりにおいて、いつも一枚壁を作ってしまうようなところがあるせいで、俺には小学校や中学校では友達らしい友達ができなかった。


 友達がいない、ということは、競い合う相手もいないということ。

 張り合いのない生活を送っていれば当然、努力にも価値を見出すことも難しくなってくるわけで、俺は勉強にもスポーツにも打ち込むことができず、ダラダラと生きることを余儀なくされた。


 高校生になった俺は、最近、よく思い浮かべる。


 もしも、あいつらが見えなければ!

 俺は親とも仲良くやれていたはずだし、親友とまではいかないまでも、隠し事なく気さくになんでも話せる友達だってできたはず。そうすると自然に勉強を頑張ろうかという意欲も湧いていただろう。部活でスポーツに打ち込むのも悪くない。きっともう少し楽しい青春の日々を謳歌できていたはずだ。


 そう。今の俺がわりと駄目な奴になってしまっているのだとしたら、それは俺のせいじゃない。

 全ては幽霊のせいなのだ。



「…………で、なにこれ?」


 俺が書いてきたA4十枚分の原稿から視線を上げた涅子ねこ先輩の表情は、期待していた反応とはかけ離れたものだった。元から表情豊かな人ではないけれど、なんというか、粗大ごみをどうやって捨てようか思い悩む人、とか、それに近い何かを感じる。


「それは、ですね。他人とは違う性質を持って生まれた人間の苦悩を俺なりに考察して書いたもの、です」

「いや、ただの愚痴だろ。君の」


 食い気味に核心をついてくる涅子先輩の呆れ声に、ぐっと言葉が出てこなくなる。


「ええっと? いち、に、さん……あのな、私はあと九枚分も君の愚痴を読まされなきゃならんのか?」


 細くて長い指で俺の原稿をめくり、涅子先輩は実に嫌そうな表情でこっちを見てくる。


「い、いやいや、もちろん後から話も進みますって!」

「何ページ目から?」

「ええっと、五ページ目くらいから、ですかね」

「付き合いきれんわ」


 途端に読む気が失せたのか鼻を鳴らして、ペッ、と原稿を机の上に放り出す涅子先輩。


「やっぱ、駄目……ですかね?」

「まあ、それはそうだろう。別のを書いてこい」


 つまりはボツ、ということらしい。

 我が文芸部の部長にして、絶対的な権力を持つ涅子先輩の判決はいつだって端的で、無慈悲だ。


「でも! ほら、マジで幽霊が見える奴の心情ってレアっていうか、普通の人には新鮮に……」

「駄目な理由は、二つ」

「……はい」


 指を二本立てて俺の話を遮った涅子先輩の目が、じろりと俺の方を向く。


「一つは、フィクションの世界には幽霊が見える奴なんて腐るほどいるってこと。全然新鮮じゃない。二つ目は、幽霊が見えることと勉強、スポーツ、友達の数には何の因果関係もないってこと」

「う、ぐ、でも実際、俺は……」

「君がどうなのかは知らないけど、私、別に苦手なこととかないし」

「……そうですね、はい。先輩、成績いいし、運動もできますもんね」


 ぐうの音も出させてもらえないとは、このことだった。


 俺、米倉日向よねくらひなたは生まれつき幽霊が見える。


 それと同じように俺の先輩、黒部涅子くろべねこもまた幽霊が見えるのだ。

 しかし、先輩は俺と違って勉強では常に学年上位。文芸部というインドア集団の中に籍を置いているにも関わらず足とかびっくりするくらい速いらしい。あと、美人だ。これも重要。


 少しタレ気味の目元が特徴的で、凛とした強さを感じる顔立ち。もともと地黒らしく、やや褐色っぽい肌に、男子と見間違うようなベリーショートの黒髪がとても似合っている。手足がすらっと長くて、頭が小さいというモデル体型かと思ったら、制服の上からでもわかるくらいに胸がでっかい。


 そりゃこんな人に、俺みたいな奴の劣等感なんて理解できるわけないよな。


「あ、でも、友達があんまりいないってのは俺も先輩も一緒ですよね?」

「…………あぁ?」

「すみません、口が滑りました」


 思い付きで喋ったら、めちゃめちゃ睨まれた。こんなドスの利いた声で凄まれては俺も謝るしかない。

 事実だからこそ言っちゃいけないこともある。


 まあ、涅子先輩、とっつきにくい感、半端ないもんなあ。俺も最初は怖かったもの。


 たまたま涅子先輩が幽霊をガン見しているところ出くわさなかったら、こうして同じ部活に入ることもなかったと思う。その点は俺のこの忌々しい個性に感謝すべきなのかもしれない。


「私は友達がいないんじゃなくて、必要以上に他人とベタベタ関わりをもつのが嫌いなんだ」


 大きな胸の前で腕組みして、ぶすっとした顔で、もぞもぞと言い訳じみたことを言う先輩可愛い。


 体育で二人組のペア作らされるのとか苦手なタイプなんだろうなあ。言わないけど。


 俺もそういうのはあんまり好きじゃないが、先輩の場合は相手の方が遠慮しちゃう気がする。


「……しかし、これ、ボツかあ」


 この二日、寝る間も惜しんで書いた原稿を手に取って、息を吐く。

 ちらちらと涅子先輩の方を窺ってみたが、もはやそれは決定事項らしい。

 先輩はもう、持参してきたらしいブックカバーつきの文庫本に視線を落としていた。

 これ以上駄々をこねると、本気で怒られそうだ。俺はすごすごと、部室における自分の定位置に戻る。


 部室、とは言っても俺達、文芸部は総員三名の超弱小文化部なので、与えられた活動場所も狭い。

 本来は国語科資料室、という辞典やら古典やら文豪の傑作選やらがたくさんの本棚にみっちりと押し込められた場所。要するに物置だ。なけなしの空きスペースに折り畳み式の長机を二台くっつけて置いて、パイプ椅子に座って、本を読んだり、ダラダラと話したりして過ごす。それが文芸部の主な活動だった。


 もちろん、文芸という名前がある以上、年に一回、部員が書いた作品をまとめた冊子を作るようなこともしなければならない。

 俺はその冊子に載せるための原稿を持ってきたつもりだったのだが、駄目だった。


「はい、残念賞。取り付く島もなかったねえ」


 涅子先輩が座っている位置から一番離れたパイプ椅子に座った俺の前に、ころんとあめ玉が一つ転がってきた。見たことない包みだけど、黄色ってことはレモン味か? これ。


「仕方ないだろ。小説を書くのは初めてなんだから」


 俺はぼやきながら、あめ玉が転がってきた先、長机を挟んで正面に座っている奴の方を見る。


「しかもなんか怒らせてたし。でりかしぃがないのはいかんよ、日向くん」

「はいはい。俺が悪かった俺が悪かった……って、なんだこれすっぱ!」

「あ、やっぱりい? 超すっぱいってネットで評判になってたからポチったんだけどさ。ガチすぎて私も食べ切れなくって困ってたんだよねえ」

「そんなもん、人に舐めさせんなよ」


 やべえ。舌がぴりぴりする。すっぱいっていうか、これもう痛いじゃねえか。


「あはは。ごめんねえ。まだまだあるんだけど、食べる?」

「いらん。つうか、これほんと無理。きっつい」

「あはははは。ひっどい顔!」


 涙を浮かべて目を細める俺を見て、文芸部員の一人である葛西琴子かさいことこは楽しそうに笑っていた。

 黒髪を細くて赤いリボンでくくったサイドテール。とにかくきょろきょろとよく動くどんぐり眼。

 俺と同じ高校生とは思えないほど背が低くてあどけない顔立ちの葛西は、こうして無邪気に笑っていると、中学生はおろか小学校高学年くらいに見えてしまう。本人が曰く「小六で私の時間は止まってしまった」らしく、体つきも、まあ、小学生にしては育ってるほうだよな、くらいの感じだ。

 明るくて、話しやすいのはありがたいんだが、こういう悪戯好きなところは困りものでもある。

 見た目可愛いだけに、こっちとしてはなんか本気で怒りにくいし。


「……なあ、暇な時でいいからさ。お前も俺が書いたやつ、読んでくれよ」


 あめ玉の表面のすっぱい粉みたいなのが剥がれて、ようやく甘い部分にたどりついたところで、俺は自分の原稿を葛西の方に差し出した。しかし。


「えぇー、ヤダよお。私、つまんない文章読むと眠くなるんだもん」

「おい。決めつけで人が頑張って書いたものの良し悪しを判断すんなよ」


 つまんないとかズバッと言うのやめてね。マジで傷つくから。


「涅子さんの言ってたとおり、どーせいつものネガティブ発言みたいなのが書いてあるんでしょー? 私、日向くんのそーいうとこは嫌いなんだよねえ」

「うぐ」


 女子に面と向かって嫌いって言われんの辛すぎる。やべえ、呼吸が、なんか変な感じになるぞ。


「だいたいさあ、日向くんは自分がそこそこ恵まれた環境にいることを自覚すべきだよね」

「と、言いますと?」

「わかんない? 女子が二人に男子が一人。それもみんなでそこそこ仲良くやっていけてるのって、なかなかないシチュだよ。二次元だったらラブコメ主人公の待遇だからね、これ」


 大きな両目をジトッと半分閉じて俺を見た後、葛西は自分の手元に視線を落とす。

 さっきからちまちま何かやってるなあ、と思ってたら、縫い物か。

 葛西は文芸部に籍は置いているけれど、あんまり活字は読まないし、文章も書かない。そのことについて今さらツッコむ必要はないだろう。こいつがかなりヘビーなオタクで、自作の衣装でコスプレしてイベントなんかに参加してるらしいってことは、俺も涅子先輩も知っていることだし。

 そのイベントに涅子先輩も誘っている点については、全面的に支持している。超頑張れ、葛西。

 しかし、まあ、恵まれている、かあ。


「そのことは俺も、じゅーぶん理解してるぞ。涅子先輩もお前も、いい人だし、ぶっちゃけ可愛いしな」

「ひゅいっ?」


 本心そのままの俺の言葉に、変な声を出した葛西の手が止まる。

 そりゃここまであからさまに褒めれば誰だって多少は動揺するわな。


「じゃあ、なんでいっつも愚痴ってんのさ。俺は友達少ないーみたいなこと」

「そりゃそうだろ。高校ではこうしてお前らと仲良くできてるけど、そんなラッキー二度と起きないかもしれないからな。次、いつ、ひとりぼっちになるかわからない以上、楽観視はできん」


 実際、中学時代は酷いもんだったしな。いじめとはまた違うけど、クラスで浮いてた自覚はある。

 その原因の心当たりも、ちゃんとあるんだ。


「……そ、それはいくらなんでも考えすぎなのでは?」

「俺の座右の銘は、一寸先の闇を見る、だからな。大学に、就職、社会人までの将来を見越して愚痴ってるんだよ」

「どうしてそう後ろ向きなことに前向きなのさあ。そんなん悲しいよぉ、日向くん」


 呆れたように言う葛西だったが、こればっかりは性分だから仕方ない。

 今が楽しいから未来もずっと楽しい。そういう考え方ができれば幸せなんだろうけど、ふとした瞬間に襲ってくる漠然とした不安みたいなのを無視できるほど、俺の神経は太くない。


「日向」

「はい?」


 これまでずっと文庫本に目を落としていた涅子先輩が、突然話に割り込んできた。

 じいっとこっちを見つめながら、先輩は言う。


「慎重なのは悪い事じゃない。その点、私も意見は君と同じ。ウチみたいな進学校に受かってもそこで満足せず勉強しなきゃと思う姿勢とか、もっと色んな人と関わりたいって願望とか、なんの役に立つのかわからないスポーツもできれば人並み以上に出来るようになりたいとか、その原稿に書いてあることは、ある意味、君の向上心の裏返しみたいにも感じられる」

「ええっと……」


 これは、もしかして、褒められている、のか?

 涅子先輩、たまにこうやって遠回しな言い方することあるからなあ。咄嗟にだと、理解するのに苦労する。


「ただし、現状を低く見過ぎて捻くれた物の見方をするのは、多分、君の本質じゃない」


 あ、これ、叱られてるパターンのやつだったわ。

 ぴしゃり、と言い放った涅子先輩の態度に、上げて落とすタイプの説教なのだと俺は悟る。


「日向、君は確かに特別な人間だよ。だけど、特別な人間だからって、特別なことが書けるわけじゃない。もっかい、自分のことを見直してみるといい? そうすればもっとマシな何かが書けるはずだよ」

「……また、意味深なことを」


 俺らしさは残しつつ、前向きなことを書けってことだろうか。

 先輩の言いたいことはぼんやりとわかったけれど、性根の部分の問題だからなあ。難しい。


 結局、誰にも最後まで読んでもらえなかった原稿を前に俺が頭を抱えた、その時だった。


『校内に残っている生徒の皆さん、及び、各部活動の顧問の先生方に連絡です。本日の下校時刻は五時三十分になっています。戸締りをして、早めに帰宅することを心がけてください。繰り返します……』


 校内放送だ。この声は、生徒指導の青木先生か?

 繰り返しの放送を聞き流しながら、俺はふと思う。


「いや、いくらなんでも早すぎないですか? 今、五月の終わりですよ?」


 部室の壁にかけてある古い丸時計の針が指し示す時刻は、五時十五分過ぎ。

 日が完全に落ちてしまうまでには、二時間以上あるはずだ。

 高校生の下校時刻としては、相応しくない気がする。


「あれ? 日向くん、知らないの? この頃、街中で起きてる事件の話」

「事件? なにそれ」


 初耳だ。目を瞬かせる俺に、裁縫道具を片付け始めた葛西が答えてくれる。


「傷害事件、だっけ? 先週から立て続けに三件起きてるらしいよ。詳しいことはよくわかんないんだけど、路地裏とか地下の駐車場とかで、意識のない人達が倒れてるのが見つかってるんだって」

「倒れてたって、まさか死んでたわけじゃないよな」

「その辺りの情報はまだ、伏せられているみたいだな。今日、私にも布施先生から伝言があったよ。今週は念のために、うちも下校時刻を早めることになったんだそうだ」


 布施先生というのは文芸部の顧問のことだ。

 先生から部長の涅子先輩にお達しがあったってことは、結構、深刻な状況なのかもしれない。


 全然知らなかった。

 流石は俺。おしゃべりする友達なんて文芸部にしかいないから、仕方ないよね。


「しっかし、傷害事件ねえ。どこの誰がそんなはた迷惑なこと……」


 人が人を本気で殴っている姿を最後に見たのはいつだっただろうか。

 小学校ではしょうもない理由で掴み合いみたいなのをしている奴らがいた。

 中学校になってからは、人と人が面と向かって喧嘩する様子を見ることはほとんどなくなった気がするんだけど。

 居るところには居るもんなんだなあ。血気盛んな連中が。関わらないよう気をつけよう。


「……日向くん、気付いてる?」

「何が?」


 突然、無表情になって立ち上がった葛西が、妙に低い声で呟いた。


「奴らが動き出したみたい。早めに手を打たないと」

「ああ。例の組織の話か。わかってるよ。近々、向こうの方から何か仕掛けてくるはずだ」

「流石だね。今度もなかなか、大変なことになりそうだよ」

「望むところだ。別に、これが初めてってわけでもないだろ?」

「気をつけてよ、相棒」

「お前もな」


 俺と葛西は不敵に笑いあって、どちらともなくパチンとハイタッチする。ううむ、気持ちいい。


「おーい、二人とも、馬鹿なことやってるんじゃないよ。被害者もいるんだ。不謹慎だろ」

「はーい。ごめんなさーい」


 俺と葛西の「悪の組織の暗躍に気がついた強者達」のコントは、涅子先輩のお気に召さなかったらしい。

 しかめっ面で注意されてしまった。即興だったにしては、割と上手いこと言えたつもりだったんだけどなあ。


「涅子さん涅子さん、じゃあ、今日はどうすんの? もう終わり?」

「そういうことになるだろうな。あと十五分で何かできることがあるわけでもない」


 すっと、読みかけだった文庫本にしおりを挟んで閉じて、鞄にしまう涅子先輩。

 これでお開き、ということなんだろう。


 まだ随分と早い時間だ。家でなにすっかなあ。

 撮り溜めてるアニメも特にないし、好きな漫画やライトノベルの新刊の発売日もまだ先。

 やりたいゲームもないし。

 帰ったら時間を持て余しそうな予感がする。


 そう思いながら、俺が机の上の原稿を手に取り、少し悩んでゴミ箱に放り込んだ時だった。


「おおっと、そだそだ。日向くん。今日は君に渡したいものがあったんだった」

「俺に? さっきのあめ玉だったらお断りだぞ」

「違うよお。まあ、できればあれももらって欲しいんだけど……ほい、これ、新しく出たやつ」


 葛西がごそごそと鞄をあさった後、小さくてちょっと洒落た紙袋を差し出してくる。

 俺はそれを受け取り、中身を確認して、すぐにそれが何なのかに気がついた。


「お前、これ、買ったのか!」

「ふっふっふーん、そうだよー。たしか、映画館に行きそびれたーって悔しがってたよね?」


 紙袋に入っていたのは、アメコミが原作のヒーロー物映画のブルーレイディスクだった。

 俺も葛西もアメコミのヒーローが大好きでよく話題にすることがあるのだが、この映画、ちょうど財布に余裕がない時期に公開されたせいで、観に行けなかったんだよな。

 ネット上でもすごい高い評価だったし、葛西もベタ褒めだったから、円盤になるのをずーっと待ってたんだが。


 そうか。とうとう発売されたのか。これは嬉しい。


「流石、琴子様。マジ天使かよ」

「我を崇めよ、称えよ、日向くん。そして熱く感想を語り合おうではないか」


 得意げに腕組みして、大仰にふんぞり返る葛西。

 こいつはどっかの喫茶店かなんかでバイトしているそうで、趣味に対して割と金に糸目をつけないのだ。その恩恵を俺もたまに受けていたりする。

 レンタルするのも、新作だとなかなか馬鹿にできない額だからな。これは助かる。


「ありがとな。帰って、そっこーで観るわ」

「私も昨日、観返したんだけど、やっぱ超面白かったから! ヒーローもカッコ良かったんだけど、特にね、ヴィランがいいの! 悪役は悪役なんだけど、こう、目的がある意味筋が通ってて、共感できるっていうか」

「あ、その辺にしてください。ネタバレNGなんで」


 目をキラキラさせて語りだした葛西の様子に、危険なものを感じた俺はストップをかける。

 こいつほっとくと、ラストシーンとかの話も平気でするからな。それだけは防がねばなるまい。


「話は明日な、明日。また部室で話そうな」

「んむぁー! 伝えたい! 喋りたい! 語りたい! でもそれが許されないのはわかってるから辛い!」


 頭を抱えて悶えだした葛西を見て、その気持ちが分かる俺は苦笑いするしかない。

 自分の好きな物を理解してくれる人がいて、その好きな何かについて話せる楽しさっていうのは、とても貴重なものだから。それをおあずけされれば、まあ、身悶えもするだろう。


「うん。二人とも、楽しそうで何より」

「ああ、なんか、すんません」


 いつの間にか騒ぐ俺達の傍に立っていた涅子先輩が、じゃれ合う子どもを見るような顔で笑っていた。

 涅子先輩はこういう映画観ないみたいだからな。

 置いてけぼりにしてしまったのが何だか悪いような気がして、俺はつい謝ってしまう。


「いいんだ。君たちの様子を見ているのは、割と楽しいから。でも」

「でも?」

「目の前でそうやってイチャイチャされるのを見せつけられるのは、結構ウザい」

「ええー、じゃあ涅子さんもしましょうよお、ヒーローについて語り合ってイチャイチャーって」

「はは。気が向いたらな」


 ちょっとむくれて腰元に抱きつく葛西の頭を、涅子先輩が柔らかく撫でる。

 俺も混ざりたいなあ、あの空間。

 混ざった瞬間、生まれるのは地獄だろうから、やらないけどさ。


「さ、二人とも。帰ろうか」


 スカートの裾の中から取り出した鍵を、涅子先輩は指の先でチャラリと回した。

 名残惜しい気もするけれど、今日は帰ってからの楽しみもできた。

 明日は葛西と映画についてたくさん話したい。できれば涅子先輩とも。

 だから。


 どこかの迷惑な奴が何もせず、下校時間がいつも通りに戻ればいいなと、そう思った。




 世の中には、見えない人が思っているよりもだいぶたくさん、幽霊がいる。


 薄暗い墓地や、いわくつきのマンションの一室、ずっと昔に潰れた廃病院、何故かたくさんの事故が起きるトンネルなどなど、いわゆる「それっぽい」心霊スポットになんか行かなくてもいいのだ。


 わりと身近に、あいつらはいる。

 気がつく人間が少ないだけで、本当は珍しくもなんともない。

 その証拠じゃないが、俺の学校からの帰り道にだって、それこそ見飽きるほどの幽霊が浮かんでいる。


『…………………』


 例えば、学校を出てすぐに通り過ぎる商店街。何の変哲もないパン屋の前の電信柱の傍らにはいつも、ぼーっと突っ立っている爺さんがいる。

 白髪に白いひげ、骨と皮だけが残ったようなやせ細った体つきで、毎日毎日ぶかぶかのポロシャツに、よれよれの茶色いズボン。体の輪郭がほんの少しだけ揺らめいているところ以外は、ただのくたびれた老人にしか見えないこの爺さんは、幽霊だ。


 この爺さんの幽霊が、なぜこのパン屋の前にずっと居るのかはわからない。もしかしたらこの場所で死んだ人なのかもしれないし、中で働いている誰かと関係のある人だったのかもしれない。幽霊は無視すると決めている俺の場合、そこは想像するしかないけれど。


 何もしないなら、誰かに話しかけることもないのなら、見えないのなら、いないのと同じだ。


 まあ、一口に幽霊と言っても色々な奴らがいるんだけど。


『ブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスキモイキモイキモイキモイキモイキモイ……』


 次に見かけるのは、だいたいずーっと悪口を呟いているお姉さんの幽霊だ。

 いつ、どんな客が買い物に来るのかわからない小さな服屋のショーウィンドウの前で、親指の爪を噛みながら中を覗き込んでいるお姉さん。バサバサになった金髪に、灰色のスウェットの上下で、足元は裸足のこの人は、ここにいる時は確実にこうやって呪いの言葉を吐き続けている。


『ビッチビッチビッチほんとクソビッチウザいウザいウザいウザい死ね死ね死ね死ね死ね死ね』


 この不気味なお姉さんがここにいる時は例外なく、中でちょっと歳食ったギャルみたいな見た目の店員さんが店番をしている。ちらっと横目で中を覗いてみたら、やっぱり今日も同じ人だった。

 ダルそうにカウンターに肩ひじをついて座って、スマホの画面を覗き込んでいる店員さん。

 生きてた時にこの幽霊があの店員さんと何か因縁があったということは、誰にだってわかるだろう。

 悪口の内容から考えると、多分、男性関係のトラブルかな。

 それが原因でこの人は自ら命を絶った可能性もある。

 怨念、とか、悪霊とか、そういう恐ろしいものを連想するお姉さんではあるけれど、悪口を言う以上のことは特にできないらしい。俺がここで見かける時はいつも、不思議と無くならない爪を噛み続けながら、ぼそぼそ何か喋っている。


 ぶっちゃけ、俺はこのお姉さん幽霊にここまでさせる何かを植えつけたあの女の店員さんの方が怖い。


 そんなことを考えながら商店街を抜けてしばらく歩くと、道の傍らに小さな公園が見えてくる。


『いえーい! あははっ! ふぅーっ!』


 滑り台とブランコ、低い高さの鉄棒に、公衆トイレ。学校の教室よりちょっと広いくらいのスペースしかないその公園では、いつもテンションの高いガキんちょがはしゃいでいる。

 半袖短パンに、黄色い通学帽を被って遊び回るあいつもまた、幽霊だ。

 月曜日から金曜日まで飽きもせず、鉄棒で逆上がりや、なんか名前はわからんけど凄い技をやってたり、頭を下にして滑り台の坂を滑ったり、帽子をフリスビーのように投げては落ちる前に拾おうとダッシュしたり、あの公園でできそうな全ての遊びを満喫しているらしい。

 俺が学校に行くのが無性に面倒くさい日も元気に遊んでいたガキんちょ幽霊だが、たまたま日曜日に通りかかった時にはいなかった。あと、ブランコを使っているところも見たことがない。

揺らせないから、つまらないのだろうか。幽霊にも色々、事情があるらしい。


 とまあ、こんな感じで。


 幽霊はどこにでもってわけではないけれど、いるところにはいる。


 いつも通る道でも、偶然立ち寄った建物の中でも、それこそ誰かの家の中にだって、いるんだ。俺にはそれが見えている。子どもの頃から、ずっと変わらずあいつらの姿を見て、声を聞いてきた。


 そして、俺の十五年と少しの人生の、あいつらとの付き合いの中で学んだことは一つ。


 幽霊は、生きている人間に大きな影響を与えない。ってこと。


 俺が知る限り、テレビの中から這い出てきて人を絞め殺したり、トラックを勝手に操って事故らせたり、壁に血の手形をつけたり、そんなことができる幽霊はいなかった。


 探せばもしかしたら、どこかにそういう奴もいるのかもしれない。

 だけど、それはきっと生きている人間の中で罪を犯してしまうような連中の数よりも、ずっと少ないんじゃないかと思う。生身の人間より恐ろしい、なんてことはないんだ。


「それは、わかってるんだけどさぁ」


 中にはね、ちょっとばかり強烈な奴もいるんですよ。困ったことに。


『ああああああああああああああっ! いでええええええええええええええええええっ!』


 やっぱり、今日も聞こえてきた。俺はいつものように、登下校用のバックパックに手を伸ばす。


『だれかっ! だずげて! いでえんだ! 足が! 手があああああ!』


 俺が下宿しているアパートに帰るため、必ず通らなければいけない十字路には、いつも断末魔が響いて

いる。

 その声の主の男は横断歩道の真ん中に転がって、全身血塗れになりながら、おかしな方向に曲がってしまった手足をばたつかせて苦しんでいる。

 いつも、いつまでも、休みなく、救われることなく、ずっと。


『なあ! なんでだよ! だずげてくれよおお! お前! いつもここ通ってんだろ! おい!』


 見るな。絶対に、あいつの方を見ちゃいけない。

 あいつには俺が見えていて、俺にもあいつが見えているけれど、無視をするんだ。


 普通の人と、同じように、するんだよ!


 俺はバックパックから取り出したイヤホンをスマホに繋いで、音楽を流す。

 大好きなヒーロー物の映画のサントラを、耳が潰れるほどの大音量で流し続ける。

 周りの音全部を消し飛ばすために。


 だって俺には助けられないから。


 見えても、話せても、あの苦しんでいる幽霊を救うことはできないから。

 無視して、吐き気のするような罪悪感を飲み込んで、目を逸らして歩き続けるしかない。


 そんなことが、これまで生きてきて何回あっただろう。


 幽霊は生きている人間に大きな影響を与えない。それなら。

 興味を持たなければ、いないのと一緒だ。それは生きている人間でも幽霊でも変わらない。


 だから俺は今日もまた、いつもの憂鬱な十字路を足早に突っ切ってしまうんだ。





 控えめに言っても、最高だった。

 葛西から借りた映画のエンドロールが流れていくのを観ながら、俺は胸の中に溜まった興奮と満足感を息と一緒に吐き出した。

 やっぱりヒーロー物の映画はいい。わくわくする物語とド派手なアクションがあって、大抵はすっきり問題が解決してハッピーエンドで終わる。かと思いきや、次回作に続くような謎や不安要素も残っていて。

 この映画はいわゆるヒーロー物のオリジン。そのヒーローがどうやってヒーローになったのかを描く内容だったけど、これ一本でファンになってしまうほどよく出来ていた。


 人並み力を持つ超人になってしまって、その力を誰かのために使おうと決意して、普通の人の枠から離れてしまったことで悩む。そして苦難を乗り越え、倒すべき敵と向き合う。かっこいいヒーローのお話。


 幽霊が見える、なんて、特殊な体質の俺としてはついつい憧れてしまうわけだ。


「……うわ、やべ。もうこんな時間か」


 ゲーム機を使って映画を流していたテレビの画面から時計へと目を移した俺は、もうすぐ九時になろうかという時刻になっていることに少し驚く。ほとんどの映画は二時間くらいで終わるんだから、このくらいの時間になるのは予想できていたはずなのに。


 そういえば途中、一回も時間を確認しなかったな。そんだけ夢中になってしまったってことだろう。


「飯、は、コンビニでいいか」


 冷蔵庫の中には卵と、ベーコン、野菜が少しあったはずだ。

 だけど、今から米を炊いて、おかずを作りだすには少し遅すぎる。

 どうせ映画にはまり込むのはわかってたんだから、帰り道で買ってくればよかった。


 適当に弁当でも買ってきて、風呂はシャワーで手っ取り早くすませよう。宿題もしないといけないし。

 一気に現実に引き戻され始めた頭で、こういう時、一人で暮らしていると気楽でいいな、と思う。


 地元の中学校を卒業した後、家からとんでもなく離れた街中の進学校に行きたいと言った時、俺の両親は特に反対もせずに受け入れてくれた。


 小学校や中学校では体質に上手く折り合いがつけられなくて、俺がクラスでいつも浮いていたことは二人とも知っていたから。

 環境を新しく変えてみるのもいい。

 勉強さえきちんとするなら。

 そう言ってくれた。


 本当は親でさえ心のどこかで俺を怖がっていたんじゃないかと思ってしまう、自分のひん曲がった性根には流石にうんざりだ。

 素直に感謝しろよ、アホ。


「お父さん、お母さん、ありがとうございますっと」


 二人が家賃と光熱費と食費と学費を出してくださるおかげで、俺は美人な先輩と可愛い同級生がいる部活で楽しく過ごすことができております。

 勉強、できるだけサボりません。


 そんな念を実家に送りつつ、俺はテレビの前の座椅子から勢いをつけて立ち上がった。

 部屋着と寝間着を兼ねたTシャツに、ジャージの下という気の抜けきった格好だけど、問題ないだろ。

 誰に見られるわけでもないし、このままコンビニに行ってしまおう。

 

 靴下を履くのすら面倒だったので裸足にサンダルを引っ掛けて、俺はアパートから外に出た。


 本来は大学生とかが借りるのを目的にしてるらしい、小綺麗だけど家賃はそこまで高くない我が家から夜道を歩くこと五分。

 二十階建て以上のマンションとか、雑居ビルとかが立ち並ぶ通りにコンビニはある。


「観終わった、最高かよ……っと」


 感想は、また明日な。

 コンビニへ向かって歩きながら、スマホで葛西にメッセージを送っておいた。

 耳に残った映画の音楽を口ずさみつつ、どこが面白かったかなあ、と印象に残っている場面を思い起こす。あれは良かった、これも良かった、あそこに隠してあった小ネタに葛西は気づいただろうか。次回作はどうなるだろうか。原作について調べればわかるかもしれない。などと。


 楽しくてしょうがない考え事をしていた、その時だった。


「…………………ん」


 ぞわり、と、冷たい風が撫でていったような寒気を背筋に感じた。

 反射的に体を震わせながら、俺は突然の感覚がどこからやってきたのか確かめるために辺りを見回す。


 これは、あれだ。

 どっかに幽霊がいやがるな。長年の経験でなんとなくわかる。


 自分が歩いている歩道の前と、後ろ。ガードレールを挟んで右側の車道。道の脇には街灯と街路樹に植え込み。

 目を凝らしてみても、特に何も見つからない。


 おかしい。気のせいにしては妙にはっきりとした感覚だった。


 別に幽霊が見たいわけじゃないけれど、何が原因かわからないってのは気味が悪い。


「うーん? あ」


 腕を組んで首を捻ったその拍子、偶然上がった視線の先に妙な物が見えた。


 何だ、あれ。人、か? いやいや、ちょっと待て。そんな馬鹿な。


 シュッ、シュッ、シュッと一定のリズムで、高いマンションとマンションの間をジグザグに縫うように跳び回る一つの影。最初は見間違いかと思ったが、それは瞬きしても消えず、何度も何度も高い建物の上を行き来し続けていた。


「嘘だろ、おい、マジか」


 遠ざかっていく影を、俺は自然と駆け足になって追いかけ始めていた。


 普通の人には見えちゃいけないものを散々見てきた俺だけど、あんなのは初めてだ。確かに幽霊の中にはふわふわ浮いている奴もいるけれど、それとは明らかに違う気がする。

 スマホのカメラで撮っとくか?

 いや、駄目だ。暗いし、もうちょい近づかないと多分何もわからない。


 自分の内から湧いてくる野次馬根性と、好奇心に従って、とにかく走る。


 あー、これ、さっきの映画の影響もあるわ。あの影、もしかして、闇に紛れて活動するヒーローかも。なんて、つい思っちゃってるもの。やべえ、イタすぎる。でも、実際、見えてるしなあ。


「……って、あ! そっちかい!」


 それまでは大きな通りの上を進んでいた影が、急に左に進路を変えた。

 つられた俺も向きを変えようとして、そこで立ち止まる。


「いや、これはちょっと……なあ?」


 俺が差し掛かった曲がり角。

 その先は、建物と建物の間の暗くて狭い路地に繋がっていた。

 当然、灯りなんてほぼなさそうだ。

 単純に視界が悪くて危ないってのもあるけれど、それよりなにより。


「いかにも、だよな」


 こういう路地の先には、大抵、ろくでもないことが待っている。

 もちろん、お話の世界なら、だが。


 ガラの悪いチンピラが人を襲ってたり、黒いスーツの男たちが取引をしていたり、恐ろしい化け物が何か食ってたりするのは、こういう人気のない路地の先なんだよなあ。


 そこに通行人が迷い込んだら最後。ひどい目に遭って、ぐしゃああ。ぎゃああ。最悪、死ぬ。

 映画なら序盤の数分で片づけられる展開なんだけど、自分がそうなるのはまっぴらごめんだ。


「はあ。なに考えてんだ、アホかよ」


 さっきまで追いかけてたあの黒い影。あれだって何なのかよくわからないわけだしな。ヒーロー?

 こんな日本の、平和な街で?

 ヤクザはおろか不良だってろくに見たことないのに、何と戦うんだよ。


 …………でも、ちょっと待て。ほんとに平和だったか? この街。


 そうだ。学校で、涅子先輩と葛西から聞いた、あの事件。

 人が意識を失って見つかってるとかいう、あれ。


 学校の下校時間が早まったってことは、ある程度、信用できるスジからの話なんだろう。それこそ警察とかから言われたのかもしれない。そして、このタイミングで俺が見た怪しい影。


 これって、本当に偶然か?


「ははは、まさかな。流石に、それは」


 ごくり、と、勝手に唾を飲みこんだ喉が鳴る。


 幽霊が見える。そんな体質のせいか、俺はこれまで生きてきて、暗い夜道を怖いなんて思ったことはなかった。だけど、目の前の少しばかり見通しが悪くて、狭い道の先を覗くことができない。

 そんなはずはない。あり得ないと、頭ではわかっているつもりなのに、腹の底から湧き上がってくる恐ろしさを無視することができなかった。


 もし、もしもの話だ。

 さっきまで俺が見ていたあの影が本物だったとして、この道の先で人が倒れているような何かが起こっているとしたら?

 見て見ぬふりをした俺は、臆病者の人でなしになってしまうのだろうか。


「……ばっかみてえ」


 何をこんなしょうもないことで真剣に悩んでんだ俺は。

 もしも、なんてあるわけないだろ。


 このまま通り過ぎて、コンビニで晩飯を買って帰るんだよ。

 飯を食ったらシャワーでも浴びて、宿題とか明日の授業の予習だってやらなきゃならない。

 それなのに、つい立ち止まってしまう理由があるとしたら、一つだ。


「はあ、涅子先輩、恨みますよ」


 特別な人間だからって、特別な物が書けるわけじゃない。だったっけか。


 部活の時には涅子先輩が何を伝えようとしたのかはよくわからなかったけど、あれって要するにごちゃごちゃ言う前に行動を起こせってことだよな。

 確かに今、俺は妙な状況の中にいる。それは裏を返せば、面白いネタにも成り得るわけで。


「ちょっと行くだけ、行ってみるかなあ」


 このまま帰ると、気になって寝つきが悪くなりそうだ。


 なあんだ、結局、何もないじゃんか。そんなスッキリした気持ちで帰るためには、自分の目で確かめるしかない。俺が言うのもなんだけど、幽霊の正体見たり枯れ尾花ってね。怖いと思うから怖いんだ。


「おばけなんてなーいさ、おばけなんてうーそさ、ねーぼけーたひーとが、みまちがーえたーのさ」


 誰が年中寝ぼけた奴だっての。と、鼻歌に自分でツッコミを入れるというよくわからない遊びをしながら、俺は路地へと足を踏み入れた。

 左右の壁と壁の距離が近いせいで、足音のサンダルの底が地面をこする音がやたらと耳障りに感じる。息遣いも特別荒くなってるわけじゃないのに、はっきりと聞こえてしまうし。

 ぞわ、ぞわ、とさっきあの影を見た時の寒気に似た感覚も強くなってきてる、のか?

 それは俺がビビってるせいなのか、この先に本当に何かあるからなのかも、もうよくわからない。

 あと少し、もう少しだけ。最初の曲がり角まで行って、何もなければ素直に帰ろう。


 よし、決めた。これで十分、自分を納得させられる。

 さあ、着いたぞ。この角を左に曲がった先だ。

 一度大きく息を吐いてから、俺はそうっと頭だけを出して道の先の様子を窺う。


「すると、そこにいたのは……なんつって、はは、は、は、あ」


 あれ。

 なんだよ、これ。


 わざとおどけた独り言を呟いて、笑い話にでもしてやろうと思ってたのに。

 俺の目に飛び込んできたのは、異様としか言えない光景だった。


 人が。人が倒れてる、んだよな。あれ。


 暗くて、見えにくいけど、一、二、三、四人、いや、五人だ。


 路地の地面にピクリとも動かず横たわっている男が四人と、女の子が一人。

 男たちは全員、死んだように力なくうつ伏せになっていたが、女の子だけは違った。へたり込んで、俯き、肩を震わせている。


 泣いてるのか?

 それより、どういう状況なんだこれ。あのお兄さん達、大丈夫だよな。生きてるよな?


 こういう時は、警察? 救急車? どっちから連絡すればいいんだっけ。

 とにかく、あの女の子に話を聞かなきゃ。ここで何があったのか、まず確かめよう。


「…………っ!」


 俺が路地の角から飛び出した瞬間、女の子が弾かれたように顔を上げた。

 女の子と俺の視線が、勢いよくぶつかる。視線には重さも速さもないけど、そんな気がした。


 赤い。すごいな。片方の瞳だけ、綺麗な赤だ。


 自分を見る女の子の、左右で色が異なる目がとても現実離れをしていて、俺はこんな状況にもかかわらず息を呑んでしまった。

 見惚れた、といってもいいかもしれない。


「あのっ、大丈夫ですかっ? 怪我とかないですかね?」


 多分、俺と同じか、ちょっと年上くらいじゃないだろうか。


 左側の前髪だけが長い左右非対称のショートカットで、色は上品な感じがする金色。それが色素の薄い白い肌によく似合っている。でも、顔立ちを見る限り外国人って感じではないな。目つきが鋭い気はするけれど、それが浮いてしまわないくらいの美人さんだ。

 そして、やっぱり両方の瞳の色が違う。長い前髪で隠れている左が赤で、右は黒。もしかしたらハーフ的なやつなのかもしれない。オッドアイ、とかいうんだっけ、こういうの。


「すぐ助け呼びますからね。待っててください」

「だめ!」

「うわ! びっくりした」


 警戒されてしまわないようにと愛想笑いを浮かべた俺がスマホを取り出したのを見て、女の子が血相を変えて叫ぶ。なんだ? どうしたんだこの人。


「だめって……この状況、やっぱ警察とか呼んだ方が」

「余計な事しなくていい! お前さっさと、ここから……」


 うわ。この人、結構口調きっついな。

 怒ってるのとはまた違う感じはするけど、そんなに睨まなくてもよくないか?


 いや、違う。この人、俺を睨んでるわけじゃない。


 女の子の目が一度細められた後で、大きく見開かれる。

 激しく揺れ動く瞳が向けられた先は、俺の、後ろか?


「はずれ、ですねえ」

「!」


 いきなり耳元で、声がした。


「あんた、どっから……」


 反射的に後ろを振り返ると、息がかかるような距離に見知らぬ男の顔があった。

 誰だ、この人。いつの間に近づかれたんだ。


「はずれ、はずれ、はずれ、はずれ、とぉ。あーあぁ、ついていない。アンラッキーです」


 驚く俺を完全に無視し、男が倒れている人達を順番に指差した後で、深い溜息を吐いた。

 男がひどい猫背なせいでわかりにくかったけど、身長は俺よりかなり高い。こけた頬に、血色の悪い肌の色。顔に刻まれている皺の数を見ると、四十、下手したら五十代だと言われても頷けるかもしれない。薄ら笑いを浮かべた顔は、目ばかりがぎょろりと大きくて、この暗さの中でも薄っすらと光っているように見えた。

 身なりにも無頓着なのだろう。髭も髪も適当に伸ばされた状態で放置されていて、着ている緑と灰色の中間みたいな変な色のスーツもどうすればそうなるんだというくらいにしわくちゃだった。


 そんな男があからさまにがっかりしたような表情を浮かべて、俺の横を通り過ぎていく。

 一歩一歩進むたびに聞こえてくる、コツン、コツン、という硬い音。その音で俺は、男が右手で杖をつきながら歩いていることに気づいた。


「四分のゼロ、ですか。確率的には有り得る結果とはいえ、ガッカリはしますよねえ」


 低くて、しゃがれているのに、妙に耳に残る声で男が恨みがましそうに言う。

 俺に話しかけてきてるのか、それともただの独り言か。言ってる内容もまるでわからん。けど。


 こいつは、やばい奴だ。


 さっきから俺の勘が、それをガンガン訴えかけてきている。

 身なりが小汚いとか、風貌が不気味だとか、そんな問題じゃないんだ。こいつの周りに漂っている空気は、違う。普通の、道端ですれ違うような人間とは明らかに違うんだ。

 何の変哲もない道路の真ん中に、血まみれの肉の塊が置かれてたら誰だって避けて通るだろう。そんな得体の知れない違和感をこいつは醸し出している。


「………………」


 すぐに、逃げなきゃ。

 できれば、あそこの女の子も助けて、この場から立ち去らなきゃ駄目だ。

 そうしないと、何かとてもまずいことになる気がする。

 男の不意をついて突き飛ばし、女の子に駆け寄る。そんでダッシュで逃げる。男の杖がオシャレ的なやつではなくて脚が悪いんだったら、それでいけるはずだ。


 人が四人も倒れているこの状況をほったらかしにしてしまうのは気が引けるけれど、後から警察に通報すればなんとかしてくれるよな。たぶん、きっと、そうに違いない。

 今はとにかく、目先の危険から逃げるのが最優先だ。

 一、二の、三で走り出すぞ。さあ、一、二のっ……


「おい」


 三で動き出そうとしたその時、俺の動きを察したように男の杖が胸元に伸びてきた。

 しまった。勘付かれた。と思った時には、もう遅い。


「勝手に動いたら駄目でしょう。五番目ぇ」


 俺が想像していたよりずっと機敏な動きで距離を詰めてきた男に、肩を掴まれる。

 さほど強い力が込められているわけではないのに、身を乗り出して顔を近づけてきた男の爛々と輝く目が怖くて、俺は動けなくなってしまった。


「私はね、察しが悪い人間を相手にすると、苛々するんですよ。この状況をよく見ればわかるでしょう。倒れている人間が四人。立っている人間が一人。次は自分の番だと、思うのが普通じゃありませんかねぇ」


 そんな普通があって、たまるか。


 やっぱり予感的中だ。この気色悪いオッサン、まともな話ができそうにない。

 しかも、俺の番ってどういうことだ。俺もあそこで倒れてる人達みたいな目に遭うってことか?


「いやあ、それは、ちょっと遠慮したい、ですかね。ほら、あの人達、あんまり寝心地よくなさそうだし」

「んん? 何を嫌がるのです? 用意していたハツカネズミが全て死に絶えたと思ったら、たまたま迷い込んできた野ネズミが大当たりを引き当てる。実に劇的、ドラマティックな結末だ」


 本当に不思議そうに首を傾げるオッサンの、俺の肩を掴む手にだんだんと力が入ってきている。

 どうしよう。ほんと、全く何言ってるか意味がわからないんだけど。怖すぎて泣きそうだ。


「だぁいじょうぶ。苦しいのは少しの間だけですから。あなたもはずれで死ねば何も感じなくなります。当たりなら、何物にも代えられない快感を得られますからねえ。ささ、一つ、運試しといきましょう」


 にやあっと口の端をつり上げたオッサンが、俺を掴んでいるのとは逆の手に握っていた杖を放り出し、その代わりに懐から何かを取り出した。


 細長い円柱形の先端に、長い針が一本。


 注射器だ。俺の歳まで生きていればそれを見たことがない奴はいないだろう。


 まずいまずいまずい! 注射器は、洒落にならんって!


「ちょ、おい、オッサン! くそ、離せって!」

「こらこら、動き回るのは良くないですよ。まあ、どこに打とうが効果に影響はないのでいいんですがね」


 なんとか逃げなきゃ、マジで殺される。

 オッサンの手から逃れようと必死で抵抗してみたけど、駄目だ。こいつ見た目の割に力強い。

 なんでこんだけ暴れてんのにびくともしないんだよ!


「さあ、実験です。あなたの新しい扉が開くといいですねえ」

「待って! 嫌だ! このっ、だれかああああっ!」


 楽しそうに言うオッサンの手に握られた注射器の針が、俺の腕に近づいてくる。

 先端の小さな穴、そして透明な筒の中に入っている黒い液体。

 なんだよ、その悪ふざけみたいに悪趣味な色は!


 あと数センチで、針が俺の皮膚の下に潜り込む。その直前だった。


「お、あァ! げほっ、ごほあっ!」


 唐突に、誰かが激しく咳き込む声が聞こえた。

 俺の悲鳴もかき消すほどの大きさのそれが、狭い路地に反響する。


「……おやあ?」


 その音にオッサンの動きが止まる。

 そして怪訝そうな表情を浮かべつつ俺から手を放して、くるりと体の向きを変えた。


 助かったのか? でもなんで?


 とりあえず注射器の脅威からは逃れられたらしい。俺は自分を救ってくれた音の出所に目を向ける。


「ああ、あたりはこっちでしたか」


 さっきまでピクリとも動かずに倒れていた四人の中の一人が、地面の上で胸を抑え、背中を丸めて身を捩っていた。何度も何度も、それこそ内臓でも吐き出すんじゃないかというほどに激しくその人は咳き込み続ける。


「ずいぶんと効き目が出てくるまでに時間がかかりましたねえ。ま、いいでしょ」


 肩をすくめながらそう言ったオッサンは、俺から完全に興味を失ったらしい。その証拠に、注射器も懐にしまっちゃったし。こっちを見ようともしない。これは逃げ出す絶好のチャンスだ。

 だけど、俺はすぐに動き出すことができなかった。


「……なんだよ、あれ」


 胸元を服の上から掻きむしる男の人。その背中から、淡い光のようなものが湧きだしていた。

 目の錯覚じゃない。赤とも、青とも、黒とも似ていて、そのどれとも違う色。炎のように揺らめくその光は、俺にとって見覚えのあるものだった。


 子どもの頃から嫌というほど見てきた光。


 ぞわぞわぞわ、と、鳥肌が立つような寒気が背中を下から上に這い上がってくる。

 さっき通りで感じたものとは比べ物にならないほどに濃い、幽霊の気配を感じる。でも、どうして。


 なんで生きている人間から、これを感じるんだよ!


「くる、しい……ちくしょう! 暗い! なんも、見えねえじゃねえか!」


 首を絞められているのに無理矢理声を絞り出しているような酷い声をあげながら、男の人がのろのろと立ち上がる。それに合わせるように、背中から炎のような揺らぎが吹き出した。

 水にドライアイスを放り込んだ時と似ている。湧き上がってきた炎が地面を這い、広がっていく。


 こんなのは、知らない。幽霊に似てはいても、明らかに違う。


「いいですね。いいですよ。とてもいい! 闇が噴き出し始めたこの瞬間! 何度見ても、いい!」


 杖のオッサンが立ち上がった男の人を見ながら、嬉しそうに叫ぶ。その目は、今起きている光景を見逃さないようにと限界まで見開かれているのがわかった。


 俺は、逆だ。

 これはヤバい。何かとんでもなくまずいことが起きる気がする。


 ボケっとしてる眺めてる場合じゃないだろ! さっさと逃げ出さないと。

 そうだ。さっきの女の子。あの子は?


 自分の身が危なかったせいで、気にしている余裕もなかった。探してみれば、女の子はさっきと同じ場所にへたり込んだまま、炎を吹き出し続ける男を呆然と見上げていた。


 今、何が起きてるのか、わかってないのか?


 あの炎みたいなやつが普通の人に見えるのかどうか、俺には確かめようがない。大喜びしているオッサンには多分、見えているんだろうけど、あの人が俺と同類だってパターンもあり得る。認めたくないが。


 もし、今のこの、異変にあの女の子が気づいていないとしたら?

 逃げ出すことができずにいるとしたら?


 助けられるのは、俺だけじゃないのか。


「ああ、あああ! あつい! なんだよコレ、あつい、あつ、あ、あああああっ!」

「……!」


 男の人から噴き出す炎の量が急激に増えた。

 背中だけじゃない。

 肩や、腰、腕や脚の先へと燃え広がっていく。

 ついには目や口、体の内側からも、その炎は溢れ始めてしまった。


「くそっ、おい! あんた、そんなとこでへばってないで、早く逃げ……」

「そうです! 蓋を外しなさい! あなたが押し込めていたものはなんですか! 心の奥底に溜め込んでいたものを、淀ませ、濁らせ、歪めていた闇を! 吐き出せばいい!」


 女の子の注意を引こうとした俺の声は、オッサンのわけの分からない叫びにかき消されてしまった。


 わかった。わかったよ! 行けばいいんだろ行けば!


 俺がオッサンの脇を抜けて、駆け出したその時。


「お、あ、は、ああああああああああああああああああああああああああっ!」


 絶叫と一緒に、火柱が生まれた。

 燃え盛る炎が男の人の全身を包んで、目や口から迸る真っ黒な何かが、一直線に路地のほの暗い闇を切り裂いて空へと伸びていく。それは、今まで見たことのある何よりも濃い黒。その存在感に圧倒されて、俺はそれ以上、動くことができなくなった。


「あ、ふ、ああああ、あぁ」


 どれだけの時間、その黒い柱は伸びていただろうか。

 男の人の悲鳴が弱まり、呻き声に変わっていくのと同時に噴き出す黒の量が減って、柱がどんどん細くなっていく。最後に残った微かな炎のようなそれさえも消えた時、男の人はずるずると地面に崩れ落ちた。


 これで終わり、なのか? なんだったんだ今の。


 口を開けて、棒立ちになっていた俺の前で、それは始まった。


「……欲しい。欲しいんだよ」


 両手で顔を覆った男の人が呟いた瞬間、その背中から、一本の手が生えた。


 …………手が、生えた?


 思わず自分の目を疑ってしまったけれど、黒い手が男の人の服を破るでもなく、ずるりと音を立てて生えてきたのだ。

 指の向きからすると右手だなあ、と混乱した頭がどうでもいいことに気づく。


「は?」


 唖然としたような声をあげたのは、俺じゃなかった。

 さっきまでひどく興奮していたはずのオッサンが、大口を開けて固まっている。

 嘘だろ。あれ、あんたのせいじゃないのかよ。


「か、金だ! まずは金! 金が欲しい!」


 何の脈略もなくそんなことを叫んだ三本腕の男の人から、また手が生えた。

 今度は脇腹からさっきよりも少し細くて、長い手がずるりと伸びる。今度は左手だ。


 どうしたんだ、突然。欲しいって、なんだよ。そりゃ、お金は誰だって欲しいだろうけど。

 あんたの腕、今、四本になってるんだぞ。お金よりも気にした方がいいと思うんだが。


 だけど、男の人は止まらなかった。


「ああ、あああ、欲しいんだ! いっぱい、たくさん、山ほど欲しい! 美味いもんが食いたいよ! あと、女だ! 可愛くて、胸のデカい女がいい! 車もだ! ローンなんて嫌だ、現金で買うんだ! そんでめっちゃデカい家建てて、、酒飲んで、遊んで、遊んで遊んで遊んで! そんでぐっすり寝て、また遊ぶんだよ! ああああ、駄目だ。欲しい! 全部、欲しいんだよぉ!」


 人の欲望をあからさまに聞くのが、こんなに聞くに堪えないものだとは思わなかった。

 耳を塞ぎたくなるような大声で、欲しい、欲しいと、男の人が叫ぶたびに、一本、また一本と黒い腕が生え続ける。右手、左手、右手、左手、右、左右左右と、交互に、不揃いな長さの腕が生えていく。


 ずるり、ずるり、ずるりずるずるずるずるずるずるり、と。


 その背中から、腹から、肩から、腰から、胸元から、男の人が元々何だったのかわからなくなってもなお、おびただしい数の腕が生えるのが止まらない。


「欲しい、欲しいい、欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲し欲し欲ぉ、げ、おあえええええ!」


 黒い腕の最後の一本は、男の人の喉の奥、口から生えてきた。


「お、おぎぃ」


 白目をむいて、生えてきた腕のせいでまともに喋れなくなっても、男の人は言うのだ。


 欲しい、と。


 喉から手が出るほど、欲しいってか。どんな悪趣味な冗談だよ、これ。


「…………つまらない」


 男の人、というより、もう腕玉と言った方がいいようなそれを無表情で見つめながら、オッサンが鼻を鳴らした。


「食欲、性欲、睡眠欲。一皮剥けば、原始人のような欲求の塊、ですか。おぞましい。見るに堪えません。醜い。なんて単純で、深みもなく、醜い闇でしょう」


 言葉の通り、腕の塊になってしまった男の人へ何か汚い物でも見た時のような視線を向けるオッサン。

 気持ちが悪いってところには同意だけど、なんだろう。どうもそれだけじゃない気がする。

 はっきりと断言はできないけれど、期待外れとか、失望とか、そんな感じか?


「あれは、もう駄目ですね。しばらく暴れたら勝手に食い潰される。貪物(ハンガー)の典型です。何の価値もない」


 はんがーって、なんだ? 服をかけておくあれじゃないのは流石にわかるけど。

 腕玉のこと、だよな。このオッサンの口振りだと、あんな化け物を見るのも初めてじゃなさそうだ。


 そんなことを考えていた時だった。


「すいませんねえ、あなた」

「!」


 悠長、とはこのことを言うのだろう。棒立ちになっていた俺の背中に痛みが走る。


「そういうわけなので、我々が逃げる時間を稼いでくださいな」


 蹴っ飛ばされた。という事実に気づいた時にはもう遅かった。

 バランスを崩した身体が勝手に、前へと進む。なんとか転ばないようにと、一歩、二歩、三歩目でどうにか踏ん張って、堪えて。


「ほぉ……し、ほし」


 その時にはもう、腕玉は俺の目と鼻の先。喉から手が出た顔の白目が、こっちを見ていた。


「うわ、やば」


 ひたひた、ひたひたひたひた、と音がして、無数の腕が男の人を脚の代わりでもするみたいに持ち上げる。

 ダンゴムシとか、ゲジゲジとか、パッと見で何本脚があるかわからない類の生き物と同じ動き方だ。理屈じゃなくて、これは生理的に受け付けられそうにない。


「お、とこ?」

「ひっ……」


 腕玉の奥の白目がジッとこちらを見つめた後、男の人が確認するみたいに呻く。


「おとこ、いらない。いらないいらないいらなぃいいいい!」


 どうやら俺の存在はお気に召さなかったらしい。無数の腕が怒り狂ったように蠢きだす。


 まずい、これ、本気で殺される!

 自分に迫ってくる腕に、俺は思わず目を閉じて。


「危ないバカ!」


 叫び声と共に腰元にやってきた衝撃に吹っ飛ばされた。


「は? なに、どしたの?」

「ボサッとするな! さっさと逃げる!」


 目を開けた俺は、自分が金髪で片目だけが赤い女の子にタックルされたことで助けられたことに気づく。

 俺を押し倒した状態で上になっていた女の子は怒鳴ったかと思えば、さっさと立ち上がって走り出していた。そりゃそうだ。この状況で逃げる以外の選択肢なんてないだろうが。


 仰向けの状態だった俺も大慌てで女の子に倣って立ち上がり、走り出す。


「おんな? おんなだ。欲し、あれ、欲しいぃ」


 腕玉がそんなことを言っているのが聞こえたけれど、一旦無視だ。走れ! とにかく、走るしかない!


「何なんだよあれ! 化け物ってレベルじゃないって!」


 先に走り出した女の子だったけれど、そこまで足が速いわけではなかったらしい。さほど運動能力に自信はない俺でも、すぐに追いつくことができた。ただ、路地が狭いせいで抜き去ることはできない。

 そうじゃなくても女の子に助けてもらっといて、ここで我先にと逃げたら色々終わりな気がする。男として。


「つかキミも何者? なんであんなとこいたの!」

「あれは見ての通りの化け物! 私はさっきの杖ついた奴に命狙われてる女! お前はそれに巻き込まれた! わかったら余計な事考えてないで走れ!」

「なるほどごめん黙って走る!」


 悲鳴ついでに尋ねてみたら、これ以上ないくらいにわかりやすい答えが怒声で返ってきた。

 女の子の言うとおりだ。とにかくこの狭い路地から出て、出たら叫び散らして助けを呼んで、後は警察とか機動隊、自衛隊? とかになんとかしてもらおう。

 この緊急事態にしちゃ割と冷静に頭が働いてるんじゃなかろうか。そう思ったのだが。


「……マジかよ」


 ひたひたひたひたひた、と、背後から音が聞こえてきた。

 いや、違う。正しくは上からだ。


「ほしいいいいいいいいっ!」


 振り返った瞬間、垂直な壁を這うようにして進んできていた腕玉が猛然と突っ込んでくるのが見えた。


「やばいって!」


 このままじゃ、避けられない。俺は咄嗟に前を走っていた女の子に力一杯飛びついた。


「ふぎゃあ!」

「おわああっ! うげ、いってええええ!」


 女子を庇ってアスファルトに倒れ込む。映画なんかではよくある奴だけど、生まれて初めてやってみたら尋常じゃなく痛かった。地面に叩きつけられたせいで息もできないし、硬い路面に削られて、身体のあちこちの肌がズル剥けたのを感じる。

 転んだのなんて小学生以来だけど、こんなにきつかったっけか。そりゃ泣くわ、小さい子。


「ほ、ほ、ほ、ほしいよ。くれよ。にげんなよおぉお」


 ひた、ひた、ひた、と、少し離れたところで腕玉が姿勢を立て直しているのが見えた。

 頑張って体を張ってはみたけれど、所詮はその場しのぎだ。状況が良くなったとは微塵も思えない。気合で立ち上がって、また走り出したとして、どれだけの時間逃げていられる? 捕まればどんな目に遭うかわからない。俺も、そんで、この女の子も。


「……もういい。お前は、ここでじっとしてて」

「は?」


 今度も先に立ち上がったのは女の子の方だった。抱きかかえていた彼女が離れていく感覚と一緒に言われた言葉の意味がわからなくて、俺はアホみたいに口を開ける。


「さっきの聞いたはず。あいつが狙ってるのは私。何もしなきゃ、お前は、多分助かる」


 お前は。そう。俺は、助かる。

 腕玉が欲しがってるのは俺じゃない。女だと、言っている。


 あの化け物がどんな存在なのかは、わからない。けど、俺は聞いた。あいつが吐き出した欲望を。そして、その欲しいという言葉の意味もわからないほどガキじゃない。

 女の子が殺されるより恐ろしい未来が、脳裏をよぎる。

 とても嫌な、吐き気がするような想像をしてしまう。


 見ず知らずの相手だけれど、さっき抱きかかえた身体はとても軽くて、細かった。

 あの子は間違いなく普通の人間だ。化け物と戦って勝つようなお話の中の強い何かじゃない。


 ただの女の子を、俺は見捨てるのか。いつも幽霊を無視しているみたいに!


「……逃げろ!」


 気がついた時には、俺は女の子の手を掴んで、力一杯後ろに引いていた。

 強引に、自分の後ろへ追いやる。


「バッ、お前、殺され……」

「はやく、行って! 多分、五秒もたないから」


 馬鹿なことをした馬鹿なことをした馬鹿なことをしたやっちまったぞこれは本気でやらかした。


 恐怖で勝手にカチカチと歯が鳴りだす。それでも俺は両手を広げて、立っていた。

 こんなに頼りない壁もないだろう。だけど、せめて、時間くらい稼げるなら。


「どけ。いらない」


 歯を食いしばる暇もなかった。

 自分が何本もの腕に殴られたのだと気づけたのは、壁に叩きつけられてから。


 五秒だなんて自惚れ過ぎだ。腕玉にとって俺は、濡れたティッシュ程度の障害物にもならなかったのだろう。

 視界が揺れている。聞こえてくる音に現実味がない。頭と体と手足がバラバラになった人形にでもなった気分だ。自分の体のはずなのに、どこに何があるのかもわからない。どうにか生きてるとわかるのは、全身を襲ってくる痛みが教えてくれるからだ。


「くそ! やめろ! はなせ!」


 駄目だ。腕玉に捕まってもがく女の子が、見えるのに、遠い。

 ほんの数歩先の光景なのに、俺には見ていることしかできない。

 悲鳴が聞こえるのに。苦しんでいる。嫌がっている。怖がっているのは、わかってるのに。


 まただ。いつもと同じ。俺は見てるだけなんだ。

 いつもいつもいつも見えてるくせに、わかってるくせに、特別なものが見えようが、聞こえようが、何もできない。何もしてやれない。目を背けて、無視して、なかったことにして!


 悔しいよ。誰か、助けてくれよ。頼むから!


 そう願った時だった。


『どうして泣くんだ、少年』


 力強い声が、そう言った。

 誰か、来てくれたのか。そう思って顔を上げた俺の目の前に立っていたのは、人じゃなかった。

 黒く、揺れる、炎のような影。


 蝋燭が人の形を壁に写し取ったような姿のそれは、確かに俺の前に立っていた。


『死ぬほどの怪我じゃないだろう。君は助かるじゃないか。その涙は、なんの涙だ』


 得体の知れない声に言われて初めて、自分の頬を温かい何かが伝っていくことに気がついた。


 知るもんか。理由なんてない。本当は泣きたくなんてないんだ。俺は、ただ。


『ただ、立ち向かいたい。違うか』


 そうだよ。悪いかよ。それができなくて、悔しくて、たまらないんだよ。


『いいや、悪くない。私も同じさ。君と同じ、所詮は無力な幻だ』


 どことなく悲し気に揺れた炎が、俺の前にしゃがみ込む。

 その表情のない顔には、二つの紅い目が浮かんでいた。

 じいっと、俺を覗き込むようにして、炎は語り掛けてくる。


『君には戦えるだけの力がなく、私には戦うための体がない。だが、方法はある。たった一つだけ』


 黒い炎が俺に伸ばしてきたのは、手だった。

 掴めと言わんばかりに差し出されたそれの意味が俺には、わからない。


 駄目だ。また、妙なものを見ているだけだ。

 現実逃避、しんどいから目を背けて、見なかったことにするための言い訳を、俺は。


『隠すな! 向き合え!』


 身も竦むような叱責に、俺は思い出す。

 向き合え。そうだ。本当は。俺は。

 見て見ぬふりをしてきたのは、できないと思ってきたからだ。最初から諦めるしかないと思って、しんどくて、目を背けてきた。だけど、本当は。


 俺は、本当は、これまでずっと!


 燃える。俺の左手が。

 掴んだ黒い炎に焼かれるように、呑み込まれていく。だけど、何故か怖くはなかった。


『心は決まったようだな、少年』


 さっきからなんなんだよ、あんた。偉そうに。知ったふうな口ばっかりききやがって。


『威勢がいいじゃないか。そうだな。私のことは、こう呼んでくれ』


 俺の体の左側を包んだ闇色の炎が嬉しそうに告げる。

 さあ、一緒に叫べと、言われている。そんな気がしたから!


炎傷(スカーレッド)!』


 俺と炎、二つの声が重なった。


「その手をっ、離せえええええええっ!」


 叫びながら立ち上がり、黒く燃え上がった左の拳をきつく握りしめる。

 勢い任せに腕を大きく振りかぶって、俺は力一杯、腕玉を殴りつけた。


「ほっ? ぼおおおおおおおおおっ!」


 ゴッと、思っていた以上にすごい手応えが拳骨から肘の先まで突き抜けて、女の子を掴むのに夢中になっていた腕玉が、文字通り吹っ飛んでいく。


 嘘だろ。五、六メートルは殴り飛ばしたぞ、これ。


 女の子を取り落とし、相当離れた所の壁にべしゃりと激突した腕玉と、俺は自分の左手を見比べる。

 幻覚じゃない。やっぱり、どう見ても燃えてるんだよな。これ。色は、黒いけど。


「げほっ、ごほっ…………お、お前、それ」

「ごめん、きかないで。俺にも全然よくわかんないから」


 腕玉から解放された女の子が、咳き込みながら俺を見ている。もしかしなくても、俺が燃えてるのわかるんだよな。俺が死んで、幽霊的な存在になったとか、そういうわけじゃないよな。


 というか、女の子、服! 腕玉にもみくちゃにされてたせいでめっちゃ破れてるから!

 なんかすっごい際どい感じになってるから! お願い、指摘する前に気づいてくれ!


『おい、少年。集中しろ。まだあの化け物を倒したわけじゃないんだぞ』

「うおわあ!」


 女の子があられもない姿になってたせいで目を泳がせていたら、耳元からさっきの声が聞こえた。

 低くて、それでいてよく通る男の人の声だ。どっから話しかけてきてるんだ、これ。


『私なら今、君と共にある。この燃え上がる左側が、その証だ』

「……でしょうね、うん。他に考えられないもんな」


 男の声に合わせて、黒い炎が意志を持ったようにふわりと揺れた。

 これが何なのか、とか、どういう仕組みなのか、とか、そういうのは今考えるのは止めよう。

 大事なのは現状、俺が怪力になってて、あの腕玉をなんとかできそうだってことだ。


 ちらりと視線を向けると、流石にダメージがあったのか、腕玉が激突した壁の所で苦しみの声をあげつつ、うごうご悶えているのが見えた。見れば見るほど、気色悪いなあ、あれ。

 だけど、チャンスだ。今の俺なら女の子を抱えて、走って逃げるくらいのことは……


『逃げるな、少年』

「は?」


 走りだそうとした俺を制するように、耳元で黒い炎が言う。

 何言ってんだ、こいつ。せっかく助かるかもしれないんだ。迷う余地なんてないだろうが。


『思い出せ。立ち向かうと決めて踏み出した一歩だろう。背を向ければその一歩は、価値を失うぞ』

「…………」


 さっき倒れてた時に、考えていたことの話をしてるんだよな。こいつは。

 その通りだ。俺はあの腕玉をなんとかしたいと思った。

 見て見ぬふりをして、人任せにするんじゃなくて。


 自分が、どうにかできたらと、思ったんだ。


 馬鹿だとは思う。意味がないとも、格好つけるなよ、とも。だけど、今回はいつもと違うんだ。


「…………わかったよ。暴力は嫌いなんだけどな」

『暴力は確かにいけない。だが、守るべきものを背にした時、悪と立ち向かう時に握る拳は、暴力じゃない』

「いや、どういうこと?」

『正しい武器になるってことさ。悩むなよ、少年』


 さあ、いけ。と、黒い炎がどこか楽し気に言う。


 なんかいちいち説教臭いなあ、こいつ。言い方も遠回しで面倒くさいし。そんな溜息を吐いた瞬間。


『来るぞ! 迎え撃て!』

「!」


 黒い炎の警告と同時に、腕玉の体が膨れ上がった。


「ほしいいいっ! ジャマすんなぁ!」


 元々の男の人の体を覆うように生えていた無数の腕が、急に伸びて襲い掛かってくる。

 長さが変わるのかよ、それ! しかも速いって!


「うわ、ちょっ、いや、無理無理無理だって!」


 上から、下から、右左と、文字通り手当たり次第に迫ってくる腕を、どうにか躱したり、弾いたりしてやり過ごそうとしてみたが、いくらなんでも数が多すぎる!


 なんとか目で追えてるのは我ながら凄いとは思うけど、これ、長くは保たないぞ!


『仕方ない、私も手伝ってやろう』


 そう言うが早いか、俺の左手が勝手に動いて近づいてきた腕の一本を掴む。これは俺の意志じゃない。


「おい! 勝手なことすんなって!」

『いいから、振り回せ!』


 黒炎のやつ、人の体だってのに適当なこと言いやがって! わかったよ、やればいいんだろ!


「おぉおラァッ!」


 左手だけじゃ、駄目だ。俺は燃えていない方の右手も添えて、掴んでいる腕ごと化け物を振り回す。

 壁に、地面に、何度も何度も力一杯ぶつけるだけの攻撃だ。


「うげっ、んぎっ、ぼっ、ほしっ、ぐぎぃっ!」


 一撃一撃と衝撃を与えられるたびに、建物の壁面や地面のアスファルトに亀裂が入り、化け物の何本かの腕の関節があらぬ方向に曲がってしまっているのが見えた。悲鳴らしいものが聞こえる感じだと、ダメージはちゃんと与えられてるみたいだ。


「じゃまだあああっ! お前はっ、いらねえんだよぉおおおおおお!」

「げっ!」


 振り回されたのがよほど堪えたのか、掴んでいた腕を急激に縮めて、化け物が接近してきた。

 まずい、近すぎる。この距離と数じゃ、避けきれねえ。


「くそ! お前、気持ち悪いんだよ! 離せって!」


 癇癪でも起こしたように、黒い腕が俺の体中を掴んでくる。ものすごい力だ。

 いくら体が強くなってても、俺の腕二本じゃ圧倒的に数が足りない。肩や首、脇腹に、俺を握りつぶそうとする腕玉の指が食い込んでくる。このままじゃ絞め殺されてしまいそうだ。


『落ち着け! これは窮地じゃない! 好機ととらえるんだ、少年!』

「そういうのいいから、具体的なアドバイス!」

『燃やせ! 炎で焼き尽くせば、こいつも耐えられないはずだ!』

「燃やすって、この黒い火、どうやってデカくすんだよ!」

『左手に意識を集中させろ。後は気合だ! 目一杯、声を張れぇっ!』


 わかったよ! 頼むからな、謎の炎。燃えろ。とにかく燃え上がれ、腕玉を包み込むくらいに!


「おおおおおおおおっ! 燃えろやあああああ!」


 喉が潰れるほどに声を張り上げながら、左腕の筋肉を締め上げて力を込めた。腕そのものを爆発させるようなイメージで、とにかく、強く、強く、拳を握りしめる。


「うぎっ、ぎゃああああああああああああああああああ!」


 急激に左腕に纏っていた炎が勢いを増し、腕玉の全身を包むほどに燃え広がった。

 突然、不気味な色の炎に襲い掛かられた腕玉が断末魔の悲鳴をあげて、悶えだす。


『いいぞ、このまま消し炭にしてしまえ!』

「い、いやだああああっ! きえ? 消える! なくなる! 俺が!」


 火あぶりにされた化け物が自分で自分の腕を掻きむしりあいながら暴れるが、俺は握っている腕だけは離さないようにと指先に力を込め続けた。この炎の勢いなら、いけるはずだ。


「だめ、ダメだあ! ほし、ほしい! ああああっ!」


 苦し紛れに腕玉が俺の体のあちこちを掴んでくるが、さっきまでの力はなかった。少なくとも俺にはその腕たちが恐ろしいものだとは感じられない。ただただ、気持ち悪いだけの、欲望の形。


「ほしっ……」

「俺に、言うなああああああ!」


 欲しい、欲しい、なんて、人の迷惑も考えずにみっともなく喚き散らしやがって。

 いい加減、聞き飽きたんだよ、それ。もう、我慢の限界だ。


 俺は炎を纏っていない右腕で、化け物を殴りつける。

 全力で、容赦なく、フルスイングの拳を叩き込む!


「ほっ、ぼぎゃあ!」


 庇うように重ねられた無数の腕を貫いて、俺の拳は腕玉の中央を捉えた。

 最初に殴りつけた時よりも重く、はっきりした手応えの後、腕玉が弾き飛ばされた。ピンポン玉が跳ねるような軌道でバウンドしていった腕玉は、最後に突き当たりの壁にぶつかって動かなくなる。


「はっ、はっ、はっ、はああ……終わった、んだよな。これ」


 化け物の腕たちが、黒い炎で焦がされたみたいにボロボロと崩れ落ち始めていた。

 焼かれた炭が欠けていくようにグズグズと破片が剥がれ、だんだんと腕玉が元の男の人に戻っていく。


 大丈夫だ。立ち上がってこない。そのことを確認してから、俺は自分の左腕を見つめた。


「なんなんだよ、マジで。なんで、燃えて……って、あれ」


 まずい。体が、動かない。というか、これ、とんでもなく、眠い?


「……やっば」


 かくん、と膝が勝手に折れるのを止められなかった。眩暈のように視界がぐるぐると回ったかと思え ば、抗うことができないほどに瞼が重くなってくる。

 駄目だ。これは、我慢できない。


 授業中に居眠りする時の何倍くらいだろうか。焦る俺の意識とは裏腹に、急激に力が抜けていく。


「…………あ」


 そうだ。あの女の子は大丈夫だろうか。ようやく俺がそんなことを思い出した時。


「ありがと」


 ぼんやりとした視界の中で、片方だけ赤い瞳と、綺麗な金色の髪が揺れているのが見えた。

 どういたしまして。助けられて、良かった。そんなことを言いたいのに、声が出てこない。


「無理しないで。寝てて。また、会いにくるから」


 は? 会いにって、どういう、こと、だ?


 俺が意識を保てたのはそこまでだった。

 最後の最後、俺の勘違いじゃなければ、あの女の子は笑ってくれていたと思う。






「いやあ、焦りましたねえ。まさか、突然、被検体が覚醒するとは。予想外、大誤算ですよ」


 それは、暗い路地の一角。街灯の光も届かない、ほとんど闇の中とも言えるような場所で、その男は嬉しそうな笑顔で佇んでいた。


「やーれやれですよ。私はともかく、あの娘、死ぬ気だったんでしょうかねーえ」


 こん、こん、ここん、と、手にしている杖でリズムを刻む男は、壁に背中を預けて大きく息を吐いた。


「はてさて、無謀、無意味、無茶な計画だとは思っていましたが、これはいい」


 男は言いながら狭い路地の曲がり角から、ひょいっと顔だけを覗かせる。

 その視線が向けられた先、そこに居たのは倒れた少年が一人と、その傍に寄りそう金色の髪の少女だった。


「面白いこと、エキサイティング、インタレスティングに、なってきましたよぉ」


 くすくすくす、と押し殺したような笑いが路地の空気を揺らしていたのは短い間のこと。

 その男は最後にもう一度、杖で地面を叩いてから、夜の街の底へと消えていったのだった。

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