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私という物

作者: ちまた魅魔

 細胞の塊なのに考えることは異ならないし、人格も異ならない。更にいうと原子や分子の塊であり、物であるともいえる。ただ私はいつからか手足を動かして、喋って、いつの間にか細胞をコントロールしていた。そんな私が恐ろしく感じる。生物を認識できるのはとても恐ろしい。生物が生まれたとか原子の集まったものがある理由なんて存在しない。ヒトとは、分からないことが在るのが最も恐ろしいと感じる物である。


 生物は進化し続け、生き残ることを目標にしているらしいのだが、死ぬことが怖いとか存在が消えるのが怖いからだろうが、そんなの私にとっては馬鹿らしく、いっそ無くなる時は意識も無いまま消えていきたい。それが幸せだ。


 さて、生物とは生きる物と書く。ただ私にとっては生きるという表現が不快に感じてしまう。そもそも生きるというのが不明確であり、抽象的であるといえる。自分自身を認識している時が生きているのであり、認識できなければ生きていない。曰く生きていない状態というのは、都市伝説だと花畑だの三途の川だの輪廻転生だの云うが、そんなことはないのだと思う。多分そうだと思っても、ないのだと気付いているはずだ。認識というのもなんだか変な話で、そこに居るというのを鏡や写真で認識できてしまう。言ってしまえば自分の居たところに物があるのだ。その物を見ることによって、ヒトは騙されていくのだ。


 ヒトはいつの間にか物を操り、存在が固定化され、生きることに執着し、概念を決めあってきた。ただその起源を辿ろうとすると、とても恐ろしくーーなにより私もそうしてきたようにーー全てが嫌になってくる。存在自体消されるのが嫌となっていく。だが、それは取り消すことができないことであり、対峙すべき問題ではない。重要なのはもうそこに自分という物が存在してしまっていることであり、それには意味がないことを理解することである。そしてその目に写っている物がそうではないかもしれないという疑いと、自分という存在は希薄であることを理解するというのを持つべきである。


 以上、(世間一般的に)馬鹿な私の考え方。

なんか時間とらせてすみません。

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