8話 冒険者には勝てなかっ……いや、冒険者には負けてない
風光明媚なる豊かな自然の中に、石造りの神殿が存在する。
禁足地と呼ばれる、人の文明から隔絶された聖地だ。
そこには様々な竜が棲まい、暮らしていた。
彼らはある時代、ある約定が結ばれてより、人とかかわることを禁忌と定めていた。
人里には約定も禁忌も理解できぬ小さき竜がたまに舞い降りるのみで、智慧ある竜たちは、かたく、その約定を守っていた。
だが――当代の竜王は、人とのあいだに子を成した。
彼の考え、彼の思い……相手となった『人』とのあいだに、彼がなにをはぐくんだか、知る竜は誰もいない。
ただ、彼は娘を愛していた。
人から外れ、竜からは劣る娘を、愛していた。
……竜王の身ならば、『決して出ることまかりならぬ』とされる禁足地から出て、娘をそばで守りたいと願った。
それが、いくつの制約の果てであろうとも、娘を守りたいと願ったのだ。
◆
「頭を垂れよ」
生命には『格』がある。
人は普段――幸運にも――『格が違う』と認識できるほどの生物と接する機会はない。
だが、『絶対的な存在』に運悪く遭遇し、その生き物の言葉を耳にしたなら――
本能が、その言葉に従う。
べしゃり、と巨大スライムが平べったくつぶれた。
同時に、ハヅキが姿勢を正し、ぬかづいた。
そうしたあとで、自分の行動に気付き、ハヅキはおそるおそる顔をあげる。
視界に映ったのは、まばゆいばかりの輝きを放つ、真っ白い、男性――
その人が、スライムの中から排出されたアナを、優しく抱きあげる姿だった。
「死――」
彼がなにかを、言いかけた。
が、言葉を止めて、
「……うっかりしていた。私の言葉を聞いているのは、もう一人いたのだったな。頭をあげなさい」
そう言われて、ハヅキは初めて平伏以外の姿勢をとることができた。
真正面にとらえたのは、白い燐光を放ちたたずむ、初老の男性だ。
縦に裂け目の入った黄金の瞳に見つめられ、ハヅキはその美しさに呼吸を忘れる。
男性は耳をくすぐるような、心地良い、低い声で言う。
「君はアナスタシアの正体を知ってしまった」
声は平坦だったが、ハヅキは死を予感する。
これから彼への対応を一つでも間違えれば、ゴミのように処理されるのだという強い予感があった。
さきほどまでスライムにとりこまれていたせいで濡れた服が、冷や汗で湿っていくのがわかる。
震えをおさえこめているのは奇跡か、あるいは、『怯えた様子を見せれば殺される』と本能が理解しているからか。
男性は優しげにも思える声で続けた。
「智慧のない小竜が人里に偶然迷い込むことはあろうが、我らのような大きな竜を見るのは、初めてだろう? ……まして、竜と人の子などと、さぞ珍しかろうね」
「……」
「その珍しき存在を知り、君はどうする?」
「……は、え?」
「人は希少なものを求める。希少なる智慧、希少なる存在、希少なる力……そういったものを求める探究心ゆえ、人の世は発展し、そうして我ら『世界の精霊』たる種から見限られた」
「……」
「君は、この希少なる我が娘をどうする? 見世物にするか? 利用するか? それとも、我ら竜への足がかりとして、禁足地に踏み入らんとするか……嘘は許さない。正直な心根を述べてくれたまえ」
緊張でねばつく喉から、かすれた吐息が漏れた。
自然災害と対話しているような気分だ。
どうにかしなければ、死ぬ。
だが、こんなものを相手に、どうしろというのだろう――
力なき『人』たるハヅキは、彼の存在の求むるままに、正直に言葉をつむぐ。
「わ、私は……よく、わからない……半竜人と言われても……よくわかりません……希少価値と、言われても、うまく、想像できません……」
「……」
「で、でも、彼女は――アナは、私を友達と言ってくれた」
「……」
「人に迷惑ばかりかけて、避けられていた私の気持ちをわかってくれた。だから……彼女がなんであれ、私は、彼女を、友と思いたい……!」
重苦しい沈黙がおりた。
ただ、静かに時が流れているだけなのに、心臓が押しつぶされそうで、呼吸はだんだんと苦しくなっていく。
永遠に思われる、長い長い静寂――
それは、唐突に終わった。
「すまなかったね」
男性は口角をわずかに上げる。
それは『笑顔』というにはあまりにも小さな表情の変化だったけれど、ハヅキはようやく、自分の生存が確定したのだという安堵に包まれ、気を失いそうになった。
「我が娘はおかしなものを引き寄せやすい。君も……まあ、その一つだろうけれど、悪いものではなさそうだ」
「……」
「どうか、娘と仲良くしてやってくれ。そのお礼と言ってはなんだが――君の求めるものを、確保してあげよう」
男性は穏やかにほほえみ、言う。
「不遜な化け物よ、死ね」
その言葉一つで、巨大スライムの核は砕け――
散っていく水分の中、きらめく巨大な『核の欠片』と、もう一つ。
核から離れてなおそのかたちを失わない、プルプルと弾性を感じさせる、『スライムの角』――王冠のようなそのパーツが、残った。
『死ね』と言われただけで、あの強敵は、死んだのだ。
ハヅキは幸運に打ち震える。
なにせ――
もし、彼がハヅキの存在を思い出さぬまま、対象を絞らずにただ『死ね』と述べていたら――
自分はきっと、その命令に従うことを拒めなかっただろうから。