ー金曜日ー
目が覚めると、外はもうすでに昼間の様相を呈していた。
時計を見ると、10時過ぎだった。ベッドから抜け出し、それを折りたたんで服を着替える。顔を洗ってみると、おなかがすいていることに気づいたので、少し早めのブランチ(と言っても、おとといの肉じゃがの残りだけど)をとることにした。
おなかが膨れると、6時まで特にすることもないので、近所の本屋に行くことにした。家から徒歩で五分くらいのそこは、まあまあの規模の書店スペースに加え、内部に落ち着いたカフェがあって、そこで読書をすることもできた。僕はその店の雰囲気が好きで、月に一度か二度、足を運ぶ。
店内に入ると、入り口の最も目立つ位置に、新作がずらりと並んでいた。最近何かしらの賞を受賞したもの、人気作家の最新作、メディア化した作品の原作。みずみずしい顔ぶれの中に、今日僕が観に行く映画の原作本もあった。少し迷った末、僕はそれを開いた。
読み始めて数秒で、まずいな、と思った。
好きな漫画でもドラマでも、僕はネタバレを好まないタイプだ。最初にオチを知った状態で物語に触れるなんて、コース料理で一番最初にメインディッシュを食べるようなものではないか。それをおいしい食べ方と思う人も、いるのだろうけれど。
だから今回も、最初の数ページをなんとなく覗くだけにしようと思っていた。けれどこの本は、それを許してくれなかった。
流れるような文章が、遠慮仮借なく僕の想像力を掻き立て、小説の世界に閉じ込める。読みすぎてはまずい、という僕の理性の叫びは、先を読みたい、という本能的な情動によってかき消され、ページをめくる手が止まらない。ついにはまずい、と思うことすらなくなり、僕はただその本に没頭していた。
最初の章が終わり(この本は、四章に分かれていた)我に返ると、僕は大きく息をついた。こんな本、買わないわけにはいかなかいじゃないか。改めてその周辺を見渡し、この作家に関する情報がないか探してみる。ほかの作品があるのなら、ぜひそれも買ってしまいたかった。
するとこの本が並べられていたちょうどそのスペースに、店員さんの手作りらしき小さな看板があり、「……、圧巻のデビュー作!」と大きな文字で書かれていた。
僕は驚き、苦笑した。作家としてデビューし、それで食べていくことがどんなに大変か、ということは、以前調べたので何となく知っていた。しかしたまに、この人のようにデビュー作が大ヒットし、一躍有名作家となってしまう人もいる。僕は試しにそこに自分の名前が書かれているところを想像しようとしたが、うまくいかなかった。
僕はその本と、同じスペースで見つけた好きな作家の最新作とを購入し、店を出た。日差しはまだまだ眩しかったが、一瞬だけ、さわやかな風が吹いた。
約束の時間の五分前に、三条駅の改札についた。彼の姿を一応探すが、見当たらない。僕は適当な柱を見つけて、そこに寄りかかって待つことにした。
家にいる間に、彼女から借りていた本はとっくに読み終わっていたので、僕は今日買った本(好きな作家の最新作だ)を読みながら彼を待った。そこに出てきた、耳で空を飛ぼうとするウサギに、僕は好感を持った。
少し経ってから、彼が来た。時計を見ると、18時5分を指している。僕は本をしまいながら、彼に言った。
「早かったね。」
「おぅ。今日は時間が辛抱強く、俺を待っていたらしい。」
普段の彼はたぶん、10分後行動を心掛けている。
僕たちは歩き出した。三条大橋を渡り、そのまま通りを直進する。夕方の三条通りは人の往来も多く、少しずつ喧騒の満ちる気配がしていた。看板を持った客引きがしきりに、今日の獲物を捕らえようと目を凝らしている。
「夏休みはどうだ。」
正面を見たまま、彼が言った。
「最高だね。単位も取れてたし。」
「お前、もしかしてフル単か。」
「うん。」
彼はため息をつき、天を仰いだ。いや正確には、僕らが歩いている通りには屋根がついていたので、屋根を仰いだ。
「裏切者め。俺は物理と語学を落とした。」
「さすが。テストは受けたの。」
「テストだけ受けた。レポートは出していない。」
「落ちていく単位の運動を観測して、レポートを書いたら。」
「悪くないな。お前も手伝え。」
「僕の単位は落ちてないから。」
そんなことを話していると、目的の映画館についた。
学生に優しい値段でチケットを二枚購入し、館内へ向かう。僕たちはポップコーンとドリンクの値段を一目見て負けを悟ったため、二人とも手ぶらだ。中へ入ると、席は大方埋まっていた。
前のほうに並んで座り、新作映画の予告を見るともなく眺める。こういう予告編を見ると、どんな映画も面白そうに見えてくるから不思議だ。そんなことを考えていると隣で彼が、
「あんま面白そうなのがねぇな。」
と呟いた。僕はポップコーンを彼の口に押し込んでやりたかったが、手元には何もなかった。
席について十分もしないうちに、映画が始まった。
僕は最初の四分の一を書店で読んでしまっていたので、退屈するかと思っていたが、原作に多少の脚色が加わっており、その違いがまた面白かった。
物語は、余命がわずかな少女とその同級生の少年、というありきたりな設定ではあったが、それぞれのキャラクターがストーリーに奥行きを与えていた。登場人物一人一人に信念があって、中でも少女の体にかかる負担は承知で彼女をいろいろな場所へ連れていく少年と、少女を最後まで守りたい彼女の父親が大喧嘩するシーンでは、胸が詰まった。
「私は、君に遺書なんか絶対に書かないからね。」
物語が終盤に差し掛かったあたりで、少女が少年に言った。二人は崖の上の草原に座っていて、目の前には広大な海が広がっていた。
「遺書なんか遺したら、君はそこから前に進めないでしょう?」
少女はいたずらっぽく笑う。まっすぐ前を見たまま、少年は言った。
「何も遺さなかったら、俺はお前を忘れるかもしれないぞ。それでもいいのか。」
忘れないくせに。少女はそう呟くと、少し考え、
「でも、それは嫌だな。」
と言った。
少年が振り返る。少女は彼の目をまっすぐに見つめ、笑顔で言った。
「じゃあ、私は君に書いた遺書を、君との思い出が詰まったどこかに隠します。私が死んだら、君はそれを探して。」
少年は何も言わない。少女が続けた。
「これは、私と君との最後の勝負。」
二人は見つめ合う。少女の長い髪が、海風に揺れた。
少年が笑って、言った。
「10秒で見つけてやるから、そのつもりで書け。」
少女の顔に、飛び切りの笑顔が咲いた。
「約束だよ!」
二人が小指を重ねるシーンで、その場面は終わった。
少女の死後。少年は約束通り、遺書を探した。
彼女の日記。一緒に過ごした図書館。彼女に貸していた本。そのどこにも、彼女の遺書はなかった。
(考えろ。あいつなら、どこに隠す?)
君との思い出が詰まった場所、と少女は言った。家の周辺で、彼女が死ぬ前、一緒に出掛けたところ。思い出すとまた、涙があふれた。
(そうだ。)
少年は閃き、駆け出した。彼の考えが正しければ、急がなければいけない。
海沿いの町を抜け、坂を上り、たどり着いたのは、あの日の崖の上だった。
そこには、灯台が一つ建てられていた。少年は駆け寄って、その周辺をくまなく調べる。すると―
灯台の根元に、かわいらしい封筒が張り付けてあった。ガムテープで張られてはいたが、強い海風にあおられ、今にも飛ばされてしまいそうだ。少年は一瞬笑顔になり、急いでそれを手に取った。
中からは、水色のグラデーションの、きれいな便せんがいくつか出てきた。亡くなった少女の名前は、「渚」だった。
「航平へ」
そう始まった遺書には、少女の思いが真っすぐに綴られていた。
本当は遺書をきちんと遺したかったこと。でも航平には自分の死後、新しい人生を歩んでほしかったこと。だから航平が見つけなかったら、手紙がいつか風にさらわれてなくなる場所を選んだこと。
余命が決まってからの航平との日々が、本当に楽しかったこと。父とけんかしているのを隠れて聞いて、泣いていたこと。もっと素直にありがとうと伝えたかったこと。もっといろんなところに、連れて行ってほしかったこと。死ぬのは本当に怖いけれど、航平がいたから、笑っていられたこと。
少年は泣いていた。僕も泣いていた。隣で、あいつがむせぶのが聞こえた。
映画はその後、大人になった少年が、青空の下で灯台に花を添えるシーンで終わった。
映画が終わった後、僕たちは泣きはらした顔で、サイゼリヤで食事をしていた。僕はペペロンチーノを、彼はミラノ風ドリアの半分を粉チーズで埋めた、謎の料理を食べている。
「面白かったな。」
「ああ、面白かった。」
僕は顔を上げた。彼が素直に同意するとは、思ってなかった。
「陳腐な恋愛ものになってないとこがよかった。登場人物がみんな、迷いながら強く生きてる。」
彼は例の不思議な料理を食べながら、無表情で言った。僕はそれを見て、笑った。
「なんだよ。」
「いや、お前が映画を素直に褒めるなんて、似合わなくて。」
「俺は嫌いなもんは嫌いだが、好きなもんは好きなんだよ。」
憮然としたまま彼は言った。僕は楽しくなって、もう一度笑った。
「そういえば、これの原作を今日買ったんだ。読み終わったら貸そうか。」
彼が顔を上げた。目の前のチーズの塊よりは、興味をひいたらしい。
「それは気になるな。面白いのか。」
「僕が映画を見る前に、不覚にも読み進めるくらいには面白い。」
僕がネタバレを好まないことは、彼も知っている。
「そうか。」
彼は再び、チーズの塊の向き合った。
「読み終わったら貸してくれ。」
「わかった。」
そう返事して僕も、ペペロンチーノをフォークに巻き付けた。
僕たちは食事を終えると、三条駅に向かった。金曜夜の三条通りは、仕事帰りのサラリーマンと浴衣の男女、そして外国人でごった返していた。喧騒の中を、人ごみにもまれながら進む。
やっとの思いで三条駅につき、改札を抜けて、京阪電車に乗り込む。席に座って一息つくと、彼が口を開いた。
「ああいう映画を見ると、恋人がほしくなるな。」
鏡がないからわからないけれど、その時の僕は、空飛ぶウサギでも見るような顔をしていたと思う。
「お前、今日どうした?中身は別人か。」
「お前は日曜、女と出かけるんだろ?うらやましいよ。」
一瞬、自分のことを言われ返事に窮する。だが僕には、反撃するカードがあった。
「そっちこそ、狙ってたあの子はどうなったんだよ。同じサークルの、神原さんだっけ?」
「一昨日振られた。」
…どうやら、切ってはいけないカードだったらしい。
いったん出かかった言葉をすべて飲み込み、僕は考える。考えるがこんな時、大学生が思いつくことは一つだ。
「よし、飲もう。」
「初めからそのつもりだ、この野郎。」
なすべきことが決まったそのタイミングで、列車は出町柳駅に到着した。
酎ハイ、ビール、ポテトチップス、柿の種…
宴会に必要なものをすべて詰めたビニール袋を持って、彼の家に上がる。広さは僕の家と同じ六畳一間で、服や教科書が床の上に散乱していた。彼が無造作に落ちているものを押しのけ、僕らの座るスペースを作る。
僕は酎ハイを、彼は缶ビールを手に持ち、タブを開ける。プシュ、という音が心地よく響いた。
「乾杯。」
缶を掲げて一気にあおる。僕はそこまで酒は強くないので少しずつだが、彼はもともとが酒豪であるうえに、振られた身だ。とりあえず、最初の一本は空になった。
彼の話だと、神原さんと知り合ったのは5月の初め。それからサークルで仲良くなり、ついに7月に記念すべき初デートを敢行。手ごたえは悪くなかったらしく、それからも何度か二人で遊んだ。しかし最近になって、サークルでも何となくよそよそしくなり、ラインの返事もそっけなくなる。しびれを切らした彼が理由を聞くと、
「ごめんなさい、最近彼氏ができたから、もうあなたとは遊べないの。」
―「なんでその彼氏が俺じゃないんだよぉ‼」
彼は半分泣きながら、早くも空いた二本目の缶を叩きつけた。
僕はポテトチップス海苔塩味をつまみながら、彼の話を聞いていた。今日の買い物は割り勘だったので、つまみも遠慮なく食べられる。
「俺のどこが、そいつに劣ってるんだよ…」
「神原さんに聞いてみたら。」
「聞けるか、そんなこと。」
「じゃあわかんねぇな。恋愛なんて、所詮わかんねぇよ。」
そう言って僕も酒をあおる。彼と飲んでいると、つられてこちらのペースも上がってしまう。
「お前を振ったそいつが、見る目なかったんだって。いつものお前なら、そう言いそうだけどな。」
「あぁ、明日になったらそう言うよ。だが今は荒れる。」
僕は腕時計を確認する。時刻は、23時57分だった。
「あと三分で今日終わるぞ。」
「お前ってやつは…」
「冗談だよ。」
僕は笑った。
「飲もうぜ。」
彼も笑った。もう一度、缶を掲げる。水滴に光が反射して、きれいだった。
その後も彼と、夜通し話した。何を話したかは覚えていない。覚えていなければいけないようなことを、話すはずもない。
結局帰宅したのは5時過ぎ。東の空が、白んできた頃だった。




