悲劇のヒーロー
「あぁ、くそっ!!」
本日も、外からさんさんと陽が射し込む店内。わいわいと食事をしていた客たちは、男の怒声に動揺し、周囲は沈黙に包まれる。沈黙を破ったのは、近くにいたウェイトレスだった。
「あの、お客様……店内ではお静か――」
「あ?」
ひょろ長い体躯に似合わず丸々とした眼で見る男に、ウェイトレスは機嫌を損ねてしまったかと接客マニュアルを必死に思い出そうとして、
「あっ……あぁ、すまない。周りが見えていなかった。つい私の家と錯覚していた」
男は先程の雰囲気から一変、知的そうな優男になった。皺の寄っていた顔も元に戻り、本当に申し訳なさそうに焦りの表情を浮かべている。この時点で、彼女の頭から初めの印象は抜け落ちていた。
そこで、ウェイトレスは気付く。この男、何処かで見覚えがある。
不審げな顔をする男をジッと目すると、ウェイトレスはハッと、
「――もしかして、作家の……」
「今すぐ帰らせてもらう。本当にすまなかった」
言って、男はやや乱雑にコーヒー代を置きそそくさと出て行った。カランカランという鈴の音とともに、客たちは会話を再開させる。
男の正体に勘付いたウェイトレスは一人呟く。
「……やっぱり“あの人”、だよね……」
男は、今をときめく――というほどキラキラしているわけでもないが――人気作家の一人だ。写実主義者である男は、自分が見て感じたものしか書くことができない。それ故に、男の執筆する作品の主人公は無意識の内に男そっくりになる。
だからこそ、だ。
「書けない……」
内容の事もあり、よくスランプに陥る。
見たものしか書けないというのにおかしな話ではあるが――。男が現在執筆しているのは、現実的に起こりうるが身近にはなさそうな、例えば企業の闇や芸能人の不倫、事件の隠ぺい工作など。更には自殺、浮気、犯罪など。そういった社会の裏事情やドロドロした部分を主人公が見てしまうところから始まるものだ。残念ながら男の周りではそんなことは全く起こらず、知人から話を聞くこともない。それでどうやって書け、というのが男の心情である。
――……一体、どうしたらいい。
作品そのものを変える選択肢はない。まだ一話の掲載もされていないにしろ、既に今作のあらすじは発表されている。変更は不可能だ。
締切もすぐそこまで来ている。今日中に半分でも書き上げなければ絶対に間に合わない。これは男の経験則によるもの。
――どうしたらいいんだ……どうしたら……。
頭を掻き毟り、脳内をぐちゃぐちゃにしても一向に分からない。あの時主人公が何を思ったのか。あのシーンでどのように感じたのか。それさえ分かれば……。
気づけば、男は人で溢れかえる本通りまで来ていた。よほど苦悩していたためか、街の喧騒にも今気づいたばかりだ。
「……ん?」
すると、ポタリと何かが頬を伝う感覚が。
……おかしい。天気予報では今日は100%晴れだったはずだし、実際、空は雲一つない晴天だ。ほんのり鉄の香りがするそれを拭き取り、それが水でないとしり、男の体は息をするようにごくごく自然に後ろを向かされる。そして。
木から落ちたザクロのような末路を目の当たりにする。
耳をつんざく悲鳴に乗じ、目まぐるしく飛び交う人々。その中で、男は一人その場にへたりこんでいた。
目の前の光景におののき力が抜けたこともあるが……何よりも、男にとって理想的なものであったのだ。何故なら、その光景は正しく男が悩みに悩んでいた小説のシーンだったから。
――その日から、男に"スランプ"の文字はなくなった。
ここ数ヶ月で、男の知名度は格段に飛躍した。繊細な文章と凝りに凝った内容に誰もが魅了され、感化され、ついには海外進出の話まで出る始末。それもこれも全て、あの日起きた事件から始まった。
あの日以来、男は主人公に取って変わるように、様々な事件に関わった。男の意思とは関係なく、勝手に。それも、男が行き詰まりそうになる絶妙なタイミングを狙ったかのごとく。その遭遇率もあって何度か被疑者として連行されたこともあったが――男には毎度毎度完璧なアリバイがあった。
そして男は、その事実さえも文字で描き表してしまう。フィクションとノンフィクションの入り混じるそれに興味を持たな者はいるはずもなく、結果として大々的に売れまくったわけである。
そんな作品も、とうとう結末を迎えようとしていた。
「さて、どうするか」
男はいつも通りの足並みで街を歩く。家に閉じこもっているよりも、外の風を浴びているほうがよほど考えが浮かんでくる。……ただし、今回も今回とて浮かぶものがないわけだが。
――そろそろ、あれが来る頃か。
あれとは言うまでもなく、事件に関わりを持つためのキーとなるもの。どこかで声をかけられたり、逆に自分が声をかけさせられたり。
そんなものに頼ってしまう自分を情けないと思いつつも、頼った時の方が評判が高いのは事実である。
と、そこで。
「――来た」
足の動きがピタリと止まる。どうやら、あれがきたようだ。男の体は勝手に進路を変えると、別方向へと走りだした。そのままビル群は抜け、男の住むマンションへと向かう。体はなおも休むことなく、今度は階段を登り始めた。
「来た、来たっ、来たっ!!」
相変わらず、自身でさえも予測不能な今後に目を輝かせる男。呼吸のしんどさも忘れ、満面の笑みを浮かべ――男は屋上にたどり着いた。
「さぁ、次は何を見せてくれるんだ。何を感じさせてくれるんだ!」
声に合わせるように、誰もいないそこで歩を進めていく体。真っ直ぐ、真っ直ぐと。動きに躊躇も戸惑いもない。しかし、逆に男は疑問を抱いた。
なぜ、誰もいないのにこの体は躊躇なく進むのか、と。
フェンスに手が伸び、フェンスを飛び越えた行動がその答えだった。今まさに、自分の体はここから飛び降りようとしている。
「嘘……だろ?そんな、筈はっ――」
男の困惑を知ってか知らずか、体はフェンスを握ったまま斜めに――地上に傾く。
「ひっ!!」
恐怖でドクドクと五月蝿い心臓の音で、男は思い出した。それは、至極簡単な話だ。
男はそもそも、無意識の内に自分そっくりに主人公を書いていた。そして、主人公にとって変わるように事件に巻き込まれ――いつでも主人公の立ち位置にいた。ならば、主人公と男の終わりは、連動する。主人公の最後……最期を考えた時点で、この行動は明白だったのだ。
「嘘……だろっ!?」
考えにたどり着いた時には、もう遅い。とうとう痺れを切らしたのか、手がフェンスから離れた。
下から吹く強風で声も出せずただ迫り来る地面に恐怖を感じることしかできない。しかし、その中で男は。
主人公の気持ちを知る。
――そういうことだったんだ。主人公は、こんな恐怖を……。
あぁ……早く帰ってこの気持ちを書かな――
グシャリという音とともに、男の命は潰えた。
みんなはこんな主人公みたいに頼っちゃダメだけど私は頼りたいです。嘘です