その玉座に座る者
この世に生まれ出でるもの、その全てが才を秘めている。だがその力に気付く事もなく朽ちてゆく者は少なくない。
私の才は……父から継いだものが多い。
父の名はルキフェル。最も才ある熾天使の一人だった。その力故に欲した神の座を奪えなかった脱落者。
神から最も愛されながらも反逆者として邪が巣食う地獄へと堕とされた。そこで諦めればいいものを父は諦めずに二度目の反逆を天へと起こした。天地が胎動し、光と闇が混ざり混沌と化した地上。
何がそこまで父を駆り立てたのかは分からないが、その二度目の反抗も本人の失踪、生死不明の一報が魔王軍を駆けた時、絶望だけが地下世界を覆い尽くし、頭を垂れ、皆が膝を折った。
紅い荒野が永遠と続く大地に父の統一力で築き上げた地位とその領土だけが残り、一人離れ里に暮らしていた正当な 「魔王」 の血を継ぐ私の下に使いが送られ、次期王として生きる定めとなった。
「魔王」 とは名ばかりのこの私に何が出来ようか。二度目の反乱の時も父から戦力外通告を受け、半ば強制的に母と世界の片隅で隠居生活を送っていた私に何が出来るというのだ?
あの戦いに負け、心身共に癒えぬ傷を負った彼等に戦争不参加者がどんな言葉をかけてやればいい?こんな私が彼奴らに何をしてやれるというのだ。いや、しかし、だからこそ、父から継いだ地位と名誉を守り、混沌と化した大地に魔王という秩序を再び蘇らせるのだ。それがこの世界に住む者達の拠り所となろう。
たとえそれが……如何なる犠牲を伴うものだったとしても。
色々な事が頭を駆け巡り、その新たな責務の重圧に頭を抱える。そもそも魔王って何をすればいいんだ?離れ里から城に連れてこられて数日、脳が状況に付いていかない。魔王と言えば勇者。やはり神の尖兵である人間が魔王を目指し、進撃してくるものなのか?前の大戦の時は人間も巻き込まれてはいたが……どうなんだ?何せ戦争不参加者だから分からない。やらなければならない重圧と反比例して何をすればいいのか?が膨らみ途方にくれそうになる。吐きそう。
「……それにしても父は、何を考えこの地下世界をここまで築き上げたのだろうか」
おじいちゃん(神)への反抗の為だろうか?魔王城から眺める景色は今日も相変わらず暗く湿っぽい印象を受ける。眼下には父の従えていた魔王軍の選りすぐりの尖兵六千匹の悪魔が私を見上げている。
新しい王の誕生に、戸惑いと動揺を隠せないのだろう。体を翻し、私は再び王の玉座に鎮座する。どう声をかけていいかも分からない。私の成すべき事が何なのかを考えながら項垂れると私の頬に少し長めの黄金の髪がかかる。この金色の髪は父からでは無く、母から譲り受けたものだ。父からは才を、母からは容姿を受け継いだ。私的には軟弱者に見られかねないこの容姿に些か不服だが、大切な母から譲り受けた身体に文句は言えない。肌の色も死人の様に白ければハクが着くが、ただの色白である。ちなみに眼も母親譲りで碧眼だ。
「新魔王様……王位継承の式典もこれにて完了でございます。そろそろお食事の御用意をさせて頂きます」
一人だけで食事を摂るにはテーブルはどこまでも長く私の為だけに料理が広げられる。
「本日は、育ちの良い天使の子が入りました……」
私が幼き頃から、ずっと世話係のじぃ……バアルは私に様々な術を仕込み、なによりよく父の事を教えてくれた。私は父の姿をよく知らない。バアルが話す事が全てなのだ。 バアルは父の事を尊敬し、父が起こした戦争の時も、最後まで父の傍に居たと聞く。一見、黒い牧師服に帽子を被り、人の良さそうな老人に見えなくも無いが、身内には優しく敵には容赦無い、魔王軍の要ともなりうる実力を持つ。多分、怒らせたら怖い。私は溜息を吐きながら、まだ少し原型の残るバアルお手製のグロテスクな天使料理を見下ろす。他の料理は普通なんだけどなぁ。そもそも天使って虚像じゃ無かったっけ?
「じぃ。これは食せねばならぬモノなのか?」
「魔王様、じいではありません。魔王様の側近バアルで御座います。王が食わぬと言うのならそれに異議を唱えることはありませぬ。ただ、腕を振るった自慢の天使料理を食べて下さらないというのなら……」
「お、怒っているのか?」
老人の目の奥がややギラつく。
「魔王軍スタッフが後でおいしく頂きますからご心配無く」
よかった。幼き頃から一緒に居てくれる存在であるため、私はバアルに甘えてしまう癖がついた。
「それはそうと魔王様、実は今日お耳に入れて置いて欲しいお話が御座います」
バアルがこういった切り出し方の時は、決まって父の話か、これから私が魔王としてどうずべきかという小言に違いない。
「魔王様ご自身に関わるお話なのですが」
「よい、早く申せ」
「実は、魔王様にはご兄弟がいらっしゃいます」
私は初めて聞くその言葉に、動揺を隠せなかった。あの天界を振るわせ、地獄の王と恐れられた父に、私以外にも子が居たなどと言う。これは何と言う脅威か?この座を狙って攻め入られる可能性もある。そうか、あれか、魔王vs魔王という展開だな、これは。勝てる気がしない。
「お父上のルシファー様は、とても美しい六枚の翼をお持ちでした。それと同じく、魔王様を含め六人の子を授かったのです」バアルは私の動揺した顔を見ながら続けた。
「……新魔王様はその中でも、一番最後に生み落とされた子なのです」
「じぃ、という事はだ。私の知る母上の他に5人もの母がいるのか?」
兄弟がいる。しかもあと5人も。この事実は少なからず、冷静な私の心を乱すのに充分な破壊力を持つ。あの少女の様に美しく可憐な母が、六人もの子を産み落とした肝っ玉母さんだったとは。母が父に無理矢理産まさせられたのだとしたら耐えられない。
「魔王様…保健の授業を受け直されますか?一人の女が6人の子を産み落としたとしても不思議ではございません」
「……そうだな。」
私は少し顔が熱くなった。よかった。
「では聞き直す。あの私の知る、魔界の環境にも馴染めず、命を落としていった、病弱で…美しく優しい母上から産まれたのか?」
「いえ、魔王様の知る美しい母上にお子は1人でございました。最初の妻との間に子は1人。2人めの妻との間に4人でございます。」
「……そうか……(本当によかった)」
魔王は、バアルが美しいを強調させた事が気になった。自分ではマザコンではないと、断じてないと信じていた。
脳裏に仄かにその雰囲気を残す優しかった母。その眼には常に優しさと憂いを宿しており、黄金に輝くつややかな髪は、貴族を彷彿とさせる気品を感じさせた。1人の子を授かっているとはいえ、その華奢な肉体は強く少女の面影を残していた。いや、もう少女と呼んでも問題無い。
ふと思う。
「……もしや、母は天使だったのでは?」
終始無言のバアルだったが、呆れた様な顔をしながら重い口を開く。
「残念ながら、天使ではございません。それでしたら、父方こそ、堕天してはおりますが、天使には変わりありませんが。どう望まれようと母方は地上の住人。人間で御座います」
「フフッ…そうであったな魔界にすら馴染めぬ、脆弱な人間?脆弱な……人間!」
私は、驚きのあまり、食卓にならぶ天使料理以外の料理をぶちまけてしまった。これでは他の魔王に勝てる見込みが無くなってしまう。
「え、どうかされましたか?(あ、言っちゃった)」
「おいっ!!私自身すら知らない重大な秘密を何と無く流そうとしてるんだ!俺は半分人間と言うことなのか?あの脆弱ですぐ死ぬあのか弱気者どもの?」
溜め息をつくバアル。
しばらく間を置き、食事が台無しではないですか、と料理を片付け始めている。あれは……あれは完全に誤魔化せてるつもりだ!
私の知る限り、地獄の王ルキフェルは人間が相当に嫌いであったはずなのだ……もしや私が地の果てに追いやられたのもそれが関係しているのか?
まだ父が大天使と呼ばれた時代、人間を監視する役を命ぜられた父だったが、全ての命令に従順に従ってきた天使よりも、貧弱で、能力の乏しい人間などに肩入れしている神に、嫌気がさしていたと聞く。
そしてその事が天界を騒がす原因でもあったはずなのだ。
困惑の解けない私をよそに、バアルは言った。
「ご兄弟方の行方なのですが実はここより上の人間界に、早くも上がられたようで御座います」
「なんだと!」
言い知れぬ焦りは増すばかりであった。
天界から地上よりも、遥か深い地獄にいる悪魔達は光を知らない。地上には悪魔にとっては好物の、憎悪や嫉妬、様々な狂気がそこら中に転がっていると聞く。しかし天界から地上に差し込む光は眩しく、身体を焼く。
人間と交わるなど…父であったから成せた事。そんな場所に私の兄弟達は上がったのだ。
「魔王様。ご兄弟方はもしや、天界を目指したのではないでしょうか」
兄等は父の敵討ちでもしようというのか?
「バアル。何が言いたいのだ」
「魔王様にもその時が来たのではないでしょうか。」
「俺に地上に上がれとでも言うのか!!」
地上に向かった顔も知らぬ兄弟達、その真意は私には解らないが、例えば単身ココを抜け出せたとして、何が出来る?99%無謀な行いであるには違いない。
「バアル、例えばだ。1人で地上に出て、天界を目指し何がある?」
「それは、我らが御敵天使ども、世の神がその玉座に鎮座しております。今こそ、前魔王様の敵を射つときでございます」
馬鹿馬鹿しい、私はそう考えている。
父の生死に関しては確かに悔しい思いもある。しかし、全てを投げ出してまで天使を、神を滅ぼす事が果たして正しい事なのだろうか。最愛の母はもうこの世に居ない。
「それで、誰が報われるというのだ」
「私達、魔族でございます。」
それは違う、私は復讐など望んでいない。
ほとんど記憶にない父などにくれてやる命などない。母が慈しみ、紡いでくれたこの命を…魔族の為とはいえ捨てる訳にはいかなかった。魔王は、バアルの肩を軽く叩いた。
「復讐は、他でもない、お前自身が望んでいる事だ。私には関係ない」
そう言い放つと魔王は食卓を後にして城を出た。城の外には今日も鉄臭い雨が降る。
赤くてむせかえる様な匂いの雨だ。今日も一日中、下級の悪魔共が飛び回っていたせいであろう。 腹を空かせ共食いでもしたのだ。おびただしい量の血が降っている。
私が時折通うこの場所も、真っ赤に染まっていた。魔王城近くに改めて造られた母の銅像がここには立てられている。足を崩し、うつむく母の憂いを帯びた眼差しにかつての母の記憶を思い起こす。戦争が始まった時、私は何故か城から母と一緒に追い出され、遠く離れた地に匿われた。その事について、バアルは一切触れたがらなかった。この銅像の下に母の遺体は無い。その匿われた離れ里に私がその身体を埋葬したからだ。本来なら母の好きだったこの白い花が咲き乱れる場所に埋葬してやりたかったが、私は誰にも母の遺体を触れさせなかった。私はまだまだ子供なんだろうな。私は空から降る血の雨が、母の像や白い花にかからない様に指を弾くと、圧縮された魔力が弾け、血の雨だけを吹き飛ばす。
赤みを失った白き花達は再び輝きを取り戻し、母の像は美しい銅の色を取り戻す。肉体の清浄化を促す魔法に結界効果を合わせ、この辺りにだけ血の雨がかからないようにする。この力は父からのものでは無い。母から受け継いだ癒しの呪いだ。人間の中には特定の方法を経て魔術を行使出来るものが存在する。それらを私達は魔術師と呼んでいる。父から受け継いだのは破壊の力だ。
「母上。私は…私には…じぃの言っている事が分からない」
母はここに居ないと分かってはいるが、幼い頃、優しい母と過ごした幸せな場所。ここに来てはつぶやいてしまう。そして、今日も同じ疑問を問いかけてしまうのだ。
「母上。何故私をお創りになったのですか?」
私には自信がなかった。父の子である事も、魔王として与えられた場所も。ただ言われるがまま生きてきた事が悲しくなっていた。
「相変わらず、弱弱しいオーラが出てるなぁ~ボウズ!」
そこには大きく翅を広げたベルゼブルがいた。ベルゼブルはかつて父と一緒に天界へ戦争を仕掛けた悪魔だ。バアルの話によれば、父に等しい力を持つ者だという。
「こんな場所で、何をしている」
「べっつに~('ε')ただ、お前さんが考えてる事が丸見えなんだよなぁ」
「!?」
「まぁ、そう警戒するなって(^皿^)だがボウズ、一つだけ言っておくぞ。俺は地獄がどうなろうがかまわねぇ。飽きたんでな。空飛びたくなったら、でかい翅でいつでも飛んでやるぞ」
私の心は見抜かれていた。
人間は好かないが、地上が気になるのは確かだ。ベルゼブルは大きな翅で飛ぶことが得意だ。おそらく、地上に届くほど飛べるのはコイツくらいのものであろう……少しの迷いが出た。
決して天界への復讐心などは持っていない。
兄弟達の行方がそれほど気になるわけでもない。ただ、母の生まれた世界がそこにあると思うと、地上への興味が心をくすぐるのだ。
<長女>
__ 同時刻魔王城。
思わぬ魔王の反抗に、考える術を失ってしまったバアルが窓から外を眺めている。
「一体、私たちはどうすれば…(いや、私はどうすればいいかの間違いか)」
魔王様のあの目は、魔王すら辞退してやるといった決意の目であられた。
「まぁ…どちらにしろ、魔王様が地上を目指す時点で、ルキフェル様の血を継ぐ者はここに居なくなる」
地上より上で何が起きているかは解らないバアルであったが、上に向かった兄弟達からの情報が流れてこない事を考えると、恐らく失敗に終わったのであろうと推測していた。
「最後の望みが、失われないだけでもよしとするか。魔王様なら、成して下さると考えたのですがね」
ふと背後に気配を感じて振り向くバアル。
そこには長く波をうつ黄金の髪を垂らし、聡明そうな瞳で凝視するする少女の姿があった。見覚えのあるその顔にバアルは驚きを隠せないでいた。
「久しぶりね、バアル。どうしたの?元気無さそうね、貴方らしくもない」
そこにはかつての魔王候補、ルキフェルと最初の妻リリスとの間に出来た第一子、 リルムの姿があった。
「り…リルムお嬢様……何故こんな所においでなのです?天界へ向けて地上に上がったのでは?」
数年前にこの城を後にしたリルムが何故ここにいるのかそれが疑問だった。
「私も弟達と一緒に地上を目指したけど、行けなかったの。他の弟達は私が無理矢理行かせたけど」
バアルはリルムが地上に行っていないという事実に驚くと同時に、安堵のような感情が生まれる。
「なぜ、行けなかったのでございますか?」
「神様も馬鹿じゃないって事。前の大戦以降、地上への入り口は厳重に門兵によって守護されているわ」
驚くバアル。
「まさか…ゲートキーパー?!」
「そう。 天界への門にしかいないと思ってたんだけど、ここにもついに配備されたみたい」
「それなら、この私もお供しましたのに」
「無駄よ…あいつは、天界の者の血を引く者にしか倒せないはずよ。だから私が相打ち覚悟で隙をつくった」
「そうでしたな…あの化け物、 ルキフェル様が健在の時は何ら問題は無かったのですが…」
「そうね…それが、バアルが私達に天界を目指せという理由でもあるものね。実質的に熾天使だった父の血を引く私達にしか門番は倒せない」
ギクリとした表情をするバアルに、微笑みながらリルムは答える。
「大丈夫、貴方を攻めたりしないわ。 天界への門が開かれたらバアル達も来る手筈だったんでしょ?」
面目無いと、バアルは頭を掻きながら下を向いた。
「その事を最近魔王になった末っ子に伝えようと来たのだけど、どこにいるか知らない?」
少し残念そうに、バアルは城を出ていかれましたと答える。
「そう…まぁ、上に行かないって言うんなら問題ないわね」
思い出したようにバアルが聞く。
「して……他のご兄弟達は…?」
「あぁ、心配しないで頂戴。私は大怪我を負ってしまったけど、あの4人は門を越えられたはず。知らないのは、ここから離れた場所で暮らしていた末子だけだから」
「…リルム様…なんて弟想いの」
「へへ、そんなのはいいから、折角怪我も完治した事だし、久しぶりにバアルの天使料理食べたいわ!」
只今!!と勢いよくバアルは厨房へ駆け出した。
「お嬢様が好きだったのは…確か青年天使の心臓でしたかな」
バアルはウキウキしていた。もともと料理など出来たものではなかったのだが、ルキフェルに付き添い、いつからか身の回りの事を任せられるようになった頃、バアルの人生でもっとも喜ばしい言葉がかけられた。
「…バアル。お前が捌く天使は何故こんなにも美味なのだ」
そのお墨付きを貰って以来、バアルは料理をする事に幸せを覚え、いつ、どこに居ようとも料理が出来る様に、鋭く研いだ大きな包丁を持ち歩いていた。
「新魔王様は私の料理が好まれないのか…いつも残される。 魔王様の為に少しでも力が付くよう、なかなか活き良いの天使を狩ってきますのに」
厨房には先ほど下げられた魔王への食事が、ほとんど手付かずのまま広がっていた。
「これは私が責任を持って処分しなければ」
そう言うと、皿に盛られた天使の目玉をパクリとつまんだ。
「うむ…んまいぃ(*´∀`*)しかし、香りが少し足りなかったか。今度はもう少し香りをつける為、コウモリの頭と一緒に煮てみましょう!私もまだまだですな…」
<未子>
「…ベルゼブル。お前は地獄がどうなろうと構わないと言ったな。何故だ?お前ほどの力を持つものが、何故そんな事を言う? 私など、今ここでひねり潰してしまえばオマエがこの地獄を導く存在にもなれるのだぞ?」
「俺はなぁ。お前の親父と張り合うことが好きだった…。唯一のライバルってやつだ。だが今や、そんなやつもいないからなぁ」
魔王は、ほんの少しの屈辱を感じていた。
ベルゼブルが自分に対して、何の意識もしていないという事が分かったからだ。仮にも地獄の王ルキフェルの血を継ぐ者。
本当に”魔王”とは名ばかりの自分に腹が立つ。
「勘違いするなよ。別に俺はオマエに地上に行って暴れろとか言ってんじゃねぇんだ。それに…俺の息子も地上に出てるんでな」
「えっ、なんだと!」
「そろそろ様子でも見に行こうかと思ってな。だから、まぁ…お前を地上に連れて行くのはついでだ」
魔王はずっと自分の居場所に違和感を覚えていた。地獄は嫌いじゃない。だが、何もかもを捨てる勇気が湧いてきた。
「私は…上がる…」
「おっ!そうだぜ、男は決心ってな!! あいつに(バアル)話しつけてくるか?」
「いや…じぃには会わん。このまま上がる。」
バアルはずっと傍にいてくれた。寂しさはあるが、バアルも望んでいた事だ。そもそも、私がいなくなっても、この地獄が今のまま変わる事はないのかもしれない。
ベルゼブルの大きな背中にまたがり、ゆっくりと地獄の空へと舞い上がった。空気を羽音が震わせながらベルゼブルは飛翔していく。
決断し、迷いの無くなった魔王は全身をうつ魔界の雨も気にはならなかった。
「なぁベルゼブル。父上はどんなお方だったのだ?私にはあまり記憶が無くてなぁ」
「地獄を捨てようって時に父の話か。 まぁ、おまえが上を目指せば必然的に父に近付く事になるわけだが……」
その含みのある言い回しが魔王にはよく理解出来なかった。
「まぁあれだ、奴は…誰より強く、気高く、 そしてどこまでも純粋で、人を惹き付ける奴だったなぁ…。おれも、あいつに勝てたらそれを手に入れられると思ったんだがありゃ特別なもんらしい」
「王としての才か?」
「はは、それは違うぞ?あいつの良さはその性格だな。神から与えられた能力に依存しないあいつらしい良さだ。その力もお前ら兄弟に分け与えたって話だしな」
父は自ら才を私達の為に捨てたというのか?なら前大戦の父の力は全盛期の半分以下にも満たなかったはずだ。
「俺には解らん。神に成り損ねた没落者の良さなど」
少し、ムッとした雰囲気を背中越しに感じた。
「坊主は、父親が嫌いか?」
よく解らない。解ってるのは、母上を孤独にし、不幸に陥れた事くらいだ。私の母、ユーリ=マイリアードはその死の淵に立たされながらも他人の事を考えていた。
母が亡くなった夜、俺は1日中泣いていた。
病弱な母を置いて一体何をしていたのだと、父に憤りを感じずにはいられなかった。
「ん?どうした坊主?顔が険しくなってんぞ?」
「いや、何でもない。少し昔の事を思い出してただけだ」
薄暗い雲を抜け、地表から12Km上空まで到達すると、雨はもう無く眼下には黒雲の海原が広がっていた。
そして上を見上げると地面が反転した様に天井が赤壁で覆いつくされていた。そう、ここまで来てやっと解る。この地下世界は言わば爪弾きの牢獄なのである。
「他の兄弟や、父が天界に抗おうとする理由が何となく解る気がするよ」
「だろ?並の悪魔じゃ、こんな場所には到達できないし、一生知らないで終わる者も当然いる」
「いや…、知らない方が幸せだ」
「ハッハッ!そうかもな」
どんどん天井の壁に近づいていく。
あと数メートルで手が届きそうな所までくると、私達の体に異変が起こる。重力が反転して、天と地が逆さまになったのだ。
「おぉ、こ、これは?」
「ん?あぁ初めての奴は必ずそうなる。落ちないか不安にな」
「当たり前だ。オマエならともかく、私はあまり飛ぶ事になれていない」
「かっかっか。あんた、最初はなんの面白みも無いやつだと思ったけど、結構あんた見所あるかもな」
「な、何を失礼な。それより、ここから一体どうすれば上にいけるのだ?」
そうだなぁ…と手をこすり合わせる独特のしぐさをしながら考えるベルゼブル。その姿はいつの間にか形を変えており、いわゆる人型となっていた。
「なっ?!」
振り返った私は驚きのあまり動きを停止させる。そこには中年ながら若々しく角張った輪郭と逞しい四肢を持った男性が立っていた。相手を力で捩伏せるタイプの武闘派の様な雰囲気を持つ。私とは正反対のタイプだ。
「ん?あぁ、足が多いと歩くのには邪魔だからな」
「形態変化か・・・。父上の世代の悪魔の殆どはそれが可能と聞いているが・・・」
「あぁ。俺らが生まれた時代には、どの形状がこの大地に適応しているか解らなかったからなー。おのずと様々な姿に変身できるようになってるのさ」
「う、羨ましい・・・。でもなぜ貴方はよりによって蝿なのだ・・・?」
「あぁ・・・それは、俺らの世代では数十人くらい自由に姿を変えられる奴がいるんだ。だが、俺らは個性を大事にする・・・みんなキャラが被るのをすごい嫌がってなwそれぞれモチーフをくじで決めていったんだ。で…、まぁ運悪く俺はハエだったって訳。」
「不憫だな・・・」
「最初はな…。他人のくそになんかになんか興味はないのに糞ハエだとか言われて…(´д`。)でも、俺はそれをバネに強くなってそいつらを見返してやったのさ。今じゃ気に入ってるぜ?悪魔っぽくてな」
「結構、苦労したんだな・・・。」
「ここで生きていくのは結構骨が折れる。 まぁ、王の血を引くあんたにゃあ無関係だろうがな」
と、嫌味無く笑うその姿に自分にはないものを感じ、魔王は少し嫉妬を覚えた。
「で、ベルゼブル殿、どちらにいけば上に出られるのだ?」
と言い終わらないうちに、すごい勢いで何かがベルゼブルを貫いた。身体は地面に貼り付けにされ、一瞬でその表情は驚きと殺意に満ちていた。俺は光る物体が飛んで来た方に注意しながら、ベルゼブルに近づく。
「だ、大丈夫だ坊主。こ…これを待ってたのよ。まぁ…いきなり刺さるとは思わなかったがな」
肩から光る棒を抜くと、血が噴出す。
「これは、天使特有の光の矢。ゲートキーパーが、遠くにいる部外者に放つ矢だ。…ちゃんと方向は確認出来たか?」
「あぁ、どちらから放たれたかの検討はついてる。」
「その場所に、地上への入口がある」
ベルゼブルの瞳は燃えるように紅く、真っ直ぐに私をみつめていた。
「・・・行け!お前に悪魔の血は流れていない。まず濃厚な悪魔の血を持つ俺から狙うはずだ。まぁ、お前がゲートキーパーに敵だと認識されたら関係ないがな。俺の直線上のルートから外れて走れ!」
程無くして2射目がベルゼブル目掛けて放たれる。俺の目では追うのがやっとだが、ベルゼブルは流れるようにそれをいなす。
「よし、この距離なら当分は避けられる。複眼を舐めんなよ!」
ベルゼブルとゲートキーパーの直線上のラインに気をつけながら姿勢を低くして走る。
ターゲットは後方にいる為、姿勢を低くする必要はないのだが、音速で飛んでいく光りの矢への恐怖心が自然とそうさせてしまう。
一歩一歩確実に、そして素早く地上への門へと足を運ぶ。その間も、等間隔に矢は放たれていく。その度に囮役を引き受けたベルゼブルの安否が気になったが、ゲートキーパーに逸早く辿り着く事が俺にできる最良の行動だ。
そして、私は門の側まで辿り着いた。
「こ、こいつはなんだ!?」
地上へのゲートを跨ぐように立つ大きな光の影が。その4本足の終結部には胴体があり、手や顔の輪郭まである。魔界の闇に一際明るく輝くその姿は、どんな魔物よりも不気味に思えた。
ベルゼブルの肩を貫いた矢はその顔にある舌が変化して放たれている。放つ際の動作は息を吸い込むような動作から舌が変化し、息を吐く動作からそれらは放たれていた。
魔力が実体化した体のようで、あらゆる物理法則を無視して音速の矢は放たれる。
その衝撃派はその本体に近付くにつれて強くなる。気を抜くと鼓膜が衝撃で破れそうである。
魔王はそろそろと、足元にあるゲートに近付く。ゲート自体は魔力を注ぎ込むと開くようになっているようだ。扉を開けるのは容易いようだ。最大の難関はゲートキーパーということだ。
魔王が門の中央に備えつけられている宝玉に魔力を注ぎ込むと、施錠は簡単にはずれ、二枚の扉は左右に開ける。
「ついに、地上に」
と、頭上に殺気を感じ、上を見上げる。そこには、巨人の股の間から遥か上にあったはずの頭が、4本の足の結合点から胴体ごと伸びている。魔王の体感時間が止まる。
眼にと止まらぬ速さで魔王は両手で体を鷲掴みにされてしまった。そして、巨人の顔の前まで持って来られる。
それは、魔王絶命のピンチと同時に、囮になっていたベルぜブルの死を意味した。
無念だ。
「ベルゼブル・・・すまない」
ここまでこんな不甲斐ない私に付き合ってくれて…ありがとう。捕らえられた魔王だったが、意外にも光の巨人から言葉が発せられる。
「・・・天シ・・・?ニンゲン?・・・アク魔・・・違ウ。・・・ココ通ルのか?」
これは好機。こいつはどうやら、天界側の門番の様で天使と人間は対象外らしい。これでこの門を通れる、そして安堵の表情を浮かべた魔王は通る為に答えた。
「ああ、通してくれ俺は…。」
こんな俺の為に尽くしてくれたベルゼブル…
その思いに答える為にも、約束を果たす為にもここを通る。
「俺は天使だ。ここを通してくれないか?」
「認証確認…天シ。」
スルスルと、丁寧に空いている門の前にその体を下ろしてくれた巨人。
「あぁ、ありがと」
そして、地上へと続く門にその足を踏み入れる。
「お礼ついでに忘れていた事がある。」
巨人が再び魔王を見下げる。
「さっきの間違い訂正する。私は…魔界の…この牢獄に住まう悪魔達の王だ!部下が一人お前に殺された。そのケジメはつけさせて貰う!!」
「・・・オウ・・・?」
次の瞬間、光を帯びた炎が魔王の拳に集まる。そして近くにあった足の一つにその拳をめり込ませる。
「消し飛べ!!」
その言葉と供に幾つもの光の筋が発生し、爆発が発生し、足の一本が吹き飛ぶ。その轟音と供に態勢を崩す巨人。
「ギギギ・・・テキ、テき、敵。認証エラー駆除対象。」
ほぼゼロ距離で放たれる光の矢。寸前で当らなかったものの、俺はその衝撃で全身を強く地に打ちつけてしまう。その一撃で骨は軋み、身動きひとつ出来ない。
…さすがは蠅の王、ベルゼブル。
こんなモノを数十本も避け続けていたなんて。
「全く、ホントに惜しい部下を無くした。」
ゆっくりと、そして不気味に俺の体を口に鋏む巨人。
「…ハハ、すまないな…ベルゼブル。今の私には不意打ちで足一本が精一杯だ。許せ」
そして、閃光が一閃走ると大量の電撃が体に走る。最初は解らなかったが、この上空に響き渡る音は私の叫び声らしい。
体が激しく震え、少しずつ焼かれていく俺の体。
「バ、バアル、すまない…な…。オ、お前の、お前の望みを叶えられなくて」
電撃が止むと、全身に力が入らなくなる。
軽く鋏んでいた俺の体を今度は噛み潰そうと力が込められていく。徐々に軋み、悲鳴を上げていく体。口からは、血が溢れだした。
そんな状況の中、優しかった、母の顔を思い出す。走馬灯と言うやつだろう。いい思い出はあまりないが、母との思い出は別だ。
最後にいい思い出の中で死ねる様にという脳のせめてもの配慮だろうか。そう、母は慈しんでくれた。こんな俺を母が紡いでくれたこの命、天界との戦争なんかで失いたくないと思った時の事を戒めた。
「…ね…ない… …死ね…ない、死ねないんだよ俺はこんな…所で」
骨が更に軋む音がする。
「俺が…何かを成さな…ければ…、母の行いは…」
幾つかの骨が音を立ててヘシ折れていく。
「…無駄になって…しまう」
グシャリと何かが潰れた音がする。
「ふざけるなあぁ!!!」
その咆哮と供に魔王の体は光に包まれ、白い天使の様な翼が体に現れる。その羽ばたきと供に潰れたのは巨人の顔面だった。魔力で出来た体は実態を持たないにも関わらず、血飛沫をあげる。苦しむ巨人。
そして次の瞬間、地獄の底から高音の風切り音と供に、赤い槍の様な氷柱が放たれた。
それはとてつもない勢いで巨人の胴体を貫き、天井の大地に磔にする。
赤い氷柱が通ってきた道を中心に、雲が弾け、大きな穴を造っている。
巨人から放たれる光が大地を淡く包んだ。
そして、続け様に4本の氷柱が巨人に刺さっていく。両手、足二本にそれぞれに打ちつけられていく。そして、足の残り一本に赤い氷柱が刺さる。
「こ、これは一体?底から?いや、この高さだ……ありえない」
と、焦げた自分の身体が、思い出した様に悲鳴を上げる。氷柱が刺さった地面の近くに力無くを横たえる。そしてある物が眼に入る。
巨人の右手に刺さった赤い氷柱に黄金の紐のような物が伸びていて、その先に別の窪みが出来ていた。
「・・・?」
そして、その窪みから顔を出したのは少女の顔だった。
「ぶふぇっ、砂食べちゃった」
「・・・!」
「ぃよいしょ。」
その少女は地面から這い上がる。何の衣服もつけていない少女の体が、巨人の光に照らされている。そこに厭らしさは無く、ただ美しいと感じる。しゅるしゅると音を立てて解けていく黄金の紐は少女の髪の毛だったらしく、その長さは通常の髪の長さになっていく。そして、魔術で衣服を構成すると、こちらを見る。
「コラ、末っ子くん。姉の裸を見て興奮しないの」
「でえええ!!お姉様?!」
私は驚きのあまりらしくのない驚き声を上げる。
「さてと、しばらく大人しくして貰う為に。……殺ってキィちゃん」
そう言うと、その初対面の姉の頭から生えている一対の翼が、大きく、鋭く展開し、光の巨人を細切れにする。よく見ると、それは姉の頭の上に鎮座する蝙蝠の様な小さな生物だった。
「これで、貸し借りゼロよ。門番さん」
唖然とする末っ子こと、この私。
「これが…、本物の悪魔」
「何言ってんの?貴方は新魔王でしよ?」
「いや、俺なんて・・・」
ポンと両肩を姉に叩かれる。
「貴方が何者であれ、貴方は魔界の王よ。」
その言葉と、俺の眼を覗き込むその優しい眼に不安は無くなった。そして、ちょっと顔を赤くしながらこう訂正した。
「は、裸だったのは、少しでも空気抵抗を無くす為だから。淫魔と呼ばれた母リリスとは違うからね」
と念押しをされた。
「リリス?全ての男を惑わすと言われる…魔界で伝説の美女…の子供?」
父上も、惑わされた一人のようだった。
「恥ずかしいけど、そうよ。ちなみに名前はリルムよ。まぁ…その娘である私は美女でもなんでもないけどね」
ぶんぶんと俺は顔を横に振る。嫌みの無いその顔立ちは恐らく会う人全員に好感を持たれるであろう。
「さ、行くのよね?上(地上)に…4人の貴方のお兄様達もきっと待ってるわ。ところで…えーと…名前は…?」
「私の……いや、俺の名前は…ウェルティア」
ためらいながらも、名を名乗る。
「ふぅ~ん……随分女っぽい名前なのね」
俺自身、名前の由来は知らない。幼い頃から、まるで女の様な名前のせいか、気に入った事は無い。
「女の名前で何が悪い!」とは殴りかかれずに、ムッとした顔をするに留めた。俺を見ながら 初対面の姉は急かせてきた。
「ムッとしてないで、そろそろ行くわよ。そんなに綺麗な羽まで生やしちゃって、歩けないなんて許さないわよ!!」
俺は傷ついた身体を片脚に重心を掛けながら、なんとか支えていた。翼を解放したせいか、体中の魔力がどんどん無くなるのが分かる。 ずるずると片脚を引きずりながらゲートへと近づく。折れた骨は母親譲りの治癒魔法で大体は繋がっているが。
しかし開けたはずのゲートは閉じられていた。どうやら一定量の魔力を注ぎ込んで開く扉は、開いている時間がそう長くはないようだ…この世界の摂理も、それほど甘いはずがなかった。また初めから魔力を注ぎ込まなければならないが、今の俺にその力は残っていない…
「末っ子ちゃんはそこで待ってなさい」
見かねたリルムは、片手を宝玉に当て一瞬で扉を開けた。
「さ。ここは初体験の人が先よ…どーぞ★」
扉の先は真っ白く何も見えない。眩しすぎる程の光が待ち受けている。
「……この先が…地上。…人間の住む世界なのか」
正直、踏み入れるのが少し怖かった。帰ってこれる保証も無いのだから。振り返ると、リルムが早く行けと言わんばかりの顔をしている。
嫌な予感がする…
「……押すなよ…。絶対に押すなよ!」
「…分かってるから早く~o(^^o) (o^^)o」
覚悟を決め、身体を動かそうとした瞬間だった。
「えぃっ★(*^▽^*)押すなってことは押せって事だって人間界で習った気がするわ」
「ぶぁぁああああかーーーーーー!」
俺はリルムに飛び蹴りを食らって扉の先に進む事となった……。
序章―――――――――――――終り