B02・出会い
九月になって、学生達は学校へと戻った。
お陰で日曜日とは言え、図書館はほとんどが空席だった。学生達は夏休みの課題が出来なくても、九月に入ってまでやることはないだろう。ましてや図書館まで来て宿題をやることもなかろう。図書館での学習が身に付いたかどうかは、夏休み明けのテストで判断されるのだ。彼らはしっかりテストが出来ただろうか。今の私にそんなことは関係の無いことだが。
空席の目立つ図書館の閲覧室で、いつものように私は、同じ席に座って以前と変わらずに研究に没頭した。相変わらず、図書館に来ると私の頭の中は、思考の実験場と化すのだった。
八月中も時折、彼女の姿を目撃した。どうしても席が空いていない時、彼女は何の躊躇もなく、私の隣に座った。そして、いつもの口調で私に声を掛けた。
「ここ、よろしいでしょうか?」
私も変わらずにこう応えた。
「え、ええ、どうぞ」
その受け応えは機械的でもあり、半ばルーティンワークと化していた。
九月に入っても、彼女は時々姿を見せた。だが、面白いことに彼女はその都度、私の隣に座ったのだ。他にも席が空いているのにも関わらずだ。
「ここ、よろしいでしょうか?」
「え、ええ、どうぞ」
その時だけ、この会話をその都度繰り返した。
だが、私は何の期待などもしていなかった。只の彼女の気まぐれだと、高を括っていた。実際に、そうだったと今でも私はそう思っている、いや、そう思いたいのだ。
九月の終わり頃、彼女はまた私の隣に座った。
そしてその日、図書館の閉館時間の一時間前、そう、それは彼女が席を立つ時間だったが、その前に彼女は、私に声を掛けてきたのだった。
「いつも、図書館にいらっしゃるのですね」
彼女は、ペンケースにシャープペンシルを片付けながら、私の横顔を微妙な微笑で見詰めながら言った。
私は不意を衝かれてたじろぎながら、彼女の方を見て、どもりながら答えた。
「え、ええ。個人的に事象を研究してましてね」
我ながら、的を得ていない答えだと自覚していた。だが、私の逸る心はそう答えることしか出来なかった。私は、顔が火照っているのを十分に自覚していた。
「へぇ、研究ですか」
彼女は、私に目を細めて笑った。
「何の研究なんですか?」
彼女は、大きな目を見開いて私に訊いてきた。
「物理なんです。それも重力粒子の関係で……」
私は、彼女の顔を見ることは出来ず、参考文献に視線を落としたままに答えた。
「それで、トポロジーと次元定理の数学書なんですね」
私は、私と彼女の間に置いた数学書にチラリと目が走った。彼女がその数学書と私の返答で多少なりとも、物理の事柄が理解出来る知性を持ち合わせていることを私は悟った。
「でも、私には難しそう」
私は思い切って、彼女に訊いてみた。
「貴女は、図書館で何を?」
彼女はイタズラっぽく舌を出して、笑いながら答えた。
「私は会社のレポートをまとめてただけです」
私は、横目で見ていた彼女のレポートを思い出しつつ、彼女に言ってみた。
「でも、複雑な統計計算をこなしていらっしゃった」
彼女は頭に手をやってから、彼女の大きな目が私を下から覗き見ながら言った。
「あら、やだ。見ていらっしゃったんですかぁ? 意地悪だなぁ」
はにかんでから、彼女は照れ臭そうに答えた。
「一応、そういうことは好きなんです。マーケティング資料作成の時には重宝してます」
そう言い終わると、彼女は慌てて荷物をまとめて、カバンの中に押し込めた。
「じゃ、私はこれで」
そう言うと、彼女はカバンを持って席を立った。
「さよなら」
私は、席を立った彼女の後姿に挨拶した。彼女は一瞬こちらを向いて会釈した後、小走りに閲覧室の出入り口に消えていった。私は、その彼女の後姿を見るともなしに見送った。
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