A01・それ以前
私は図書館が好きだった。それは、彼女と出会う前から図書館が好きだったと思う。いや、彼女と出会ってからもっと図書館が好きになったのだ。
私は、四十歳を過ぎても独身の市役所職員。毎日窓口で福祉に関する問い合わせに応対している。しかしそれは、私にとっては生きるための行為に過ぎなかった。私にはもっと大切なことがあった。それは学生時代からの研究を続けることだった。
私は、研究職に就くつもりだった。だが、大学院を終了した段階で留学生に助手の座を奪われ、大学に残る手段がなくなり、仕方なく公務員になったのだった。
だが、私は研究を諦めきれなかった。今もこうして、頭の中で思考実験を行って研究を続けている。それが唯一、私が私に戻れる瞬間だった。
その実存を得る空間として、私は図書館を選んだのだ。自宅では研究の雰囲気ではないのだ。コンクリートに囲まれた冷たくて無機質な四角の空間にいると、研究する、探求するという実存感が湧き上がってくるのだ。
だが、その図書館が私を変えたのだ。彼女と出会ったからだ。この図書館で彼女と出会うことによって。
最初の出会いはごく普通の出来事だったように思う。だが、そうじゃなかったのかもしれない。そう思うのは、もう私だけしかいないからかもしれないが。
八月の暑い土曜日、図書館は学生達で埋まっていた。中学生、高校生、そして大学生。夏休みの課題をこなしているのか。それとも受験勉強をしているのか。だが、今の私にそんなことは一切関係の無いことだった。
ただ、私の隣の席にだけはいつも誰も座らなかった。私だけが、その場に相応しくない年齢だったからだ。だから、私を避けるように学生達は座っていたのだ。その日の空席も、私の横しか空いてはいなかった。
「ここ、よろしいでしょうか?」
そう私に声を掛けてきたのが、彼女だった。
その時、私は勝手に彼女のことを大学生だと思っていた。彼女もまた、大学のレポートの資料を探すために図書館に来たと勝手に思い込んでいたのだった。
「え、ええ、どうぞ」
私は予想もしていなかった声掛けに動揺したが、それ以上の緊張はなく、冷静に答えたつもりだった。
「ありがとうございます」
彼女は、私に微笑んでお礼を言った。私はなるだけ表情を変えずにうなづき、ノートに目を戻した。
彼女は私が元の様子に戻るのを確認すると、椅子を引いて座り、カバンの中からノートを取り出し、資料を開いて、シャープペンシルを走らせ始めた。
私は、悟られないように横目で彼女を見た。
ベージュのパンプスを履いて、ネイビーブルーのタイトスカートに、イエローのカットソーのシャツ。髪型は今時珍しくカラーリング無しの黒髪、前上がりのボブベースで、サイドを後ろへ流した、エレガントな巻き髪風ヘア。なかなか華やかな感じの、それでいて派手ではなく、どこか知的な匂いもする、感じのいい女性だった。
しかし、私には関係がないと思っていた。たまたま隣の席が空いていて、たまたま彼女が座っただけだ。それだけのことだ。
私は図書館の閉館時間の一八時までそこに居続けたが、彼女はその一時間前に図書館を出て行った。結局、それだけのことだと私は思っていたのだ。
お読みいただき、ありがとうございます。