件
「ふぅむ……」
快晴を纏う爽やかな朝。桃達が微笑ましい遣り取りをしていたちょうど同じ時刻、初老の陰陽師・八乙女隆栄はおよそ朝である事を感じられない暗がりに佇んでいた。
噎せ返る鉄錆の匂いは数時間を経た今でも薄れる事はなく、暗がりでも尚紅く地面を染め上げている大量の血液は極彩色に輝く花畑のようだ。その中心。ビニール製のシートに覆われた『ソレ』は、明確な存在感を放ち本能に強烈な畏怖を投げ掛ける。
「……………」
しかし隆栄は意に介さず、ビル群に切り取られた路地裏の異空間を歩き回る。ヘドロと血が入り混じりこの世のものとも思えぬ悪臭が籠る地獄絵図のようなこの場に於いて、平然と眉一つ動かさぬ隆栄の方が寧ろ異質。袴の裾が汚れるのも厭わず、初老の陰陽師は『現場検証』を続けるのだった。
ここは『事件現場』である。昨夜未明に発生した二件の惨殺事件。その内の片方、状況から鑑みて恐らく『最初に被害にあった犠牲者』が、今正に目の前で事切れているのだ。
「はいはーいっと、お疲れさん。相変わらずこのテの事件は惨たらしいねぇ、どーも」
不意に緊張感のない声が空間の入り口から聞こえて来た。隆栄は一時思案を止め、声の主に視線を移す。そこには見張りの警官の間をすり抜け、隆栄の方へと向かって来る一見胡散臭い無精髭の中年男性がいた。
「厠か。向こうの現場検証と鑑識は終わったのか?」
「……八乙女さん、もういい歳なんですから二段ボケとかやめましょうよ。僕の名前は御手洗ですって。それ、娘さんと同じ方向性ですよ?」
「失礼な。あくまで桃が私の真似をしているだけだ。しかもあ奴はただ音訓を入れ替えている程度に過ぎないのだからな。あんな低レベルの小童と一緒にされるのは遺憾だ」
「………はあ」
歳不相応のしたり顔を見せる初老の陰陽師に、御手洗は嘆息する。事件現場でのやり取りとしては相当に不謹慎であるが、それは今に始まった事ではない。この二人が絡むと緊張感というものが何処かへ飛び去ってしまうようだ。
この男『御手洗 恭一郎』は御守警察署の警部である。所属は『特殊秘匿事件捜査課』。通称『特秘課』と呼ばれ、主に超常現象や怪異についての捜査を担当している。
その存在自体が秘匿とされている怪異を捜査する組織と言うだけあって、公はおろか警察署の中でもごく一部の上層部にしか知られていない。幾ら警察とは言え陰陽師でもない人間が、人知を超える力を持つ超常現象や怪異に相対した所で何の対処も出来ないが、被害者が人間とあらば警察が捜査しない訳にもいかないのだ。故に、その捜査を専門家である陰陽師(御守に於いては八乙女)に依頼し、事件捜査のサポートと対外隠蔽工作、更に鑑識による科学捜査の情報提供などが主な仕事となる。その仕事の性質・理由により署内でも疎まれた存在であるが、この御手洗は生来の性格によりさして気にしてはいないようだ。
「こほん……それで、何か分かりましたか?」
切り替えるように咳払いを一つ。仕事である以上けじめは付けなければならないのだ。そも、雑談をするには場が悪すぎる。
「ん? ああ……まあ、それなりにな」
ポツリと言葉を漏らすと、隆栄は足下のビニールシートに目を落とす。その視線には被害者への憐憫と弔い、そして己の管轄で被害に遭わせてしまった事への懺悔が滲み出ている。
「順を追って説明するが、現時点ではっきりしている事が三つある」
袴が汚れるのも躊躇わず、隆栄は片膝を着く。続いて軽く合掌すると、おもむろにビニールシートを剥ぎ取った。
―――そこには、見るも無残な姿に変わり果てた一人の男性が横たわっていた。
眠っているようにしか見えない、などと生易しい表現は出来ない。息がある可能性など万に一つも存在しない。それは誰の目にも明らかであり、間違えようのない事実。そう断言出来てしまう程に彼は明確に、絶対的に『死亡』していた。
「………………」
職業柄、惨殺死体など見飽きている恭一郎でさえ顔をしかめ僅かに視線を逸らす。見飽きている、と言っても決して見慣れている訳ではないのだ。覚悟は出来ている分衝撃は薄れているにしても、それ故に『自分も近い将来こうなってしまうかも知れない』という恐怖はむしろ一般人よりも大きい。だからこその反応だった。
「まず一つ目は単独犯である事。そして二つ目、犯人は『喰人鬼』ではないと言う事だ。遺体は三体共全て失血死している。が、肉は一片たりとも無くなってはいない。切り裂かれている者もおるようだが、それはより血を噴出させる為の行為で、肉を『喰われた』者はいない」
淡々と隆英が検分を口にする。
「と言う事は、犯人は所謂『吸血鬼』ってヤツなんですか?」
「残念ながら、そう短絡的な訳でもない」
検分を受けて恭一郎が尤もな言い分を返すが、隆栄はそれを即答で否定し、頭を振る。
「大抵の妖は人間の体液を好むが、肉まで喰らおうとする種はそう滅多にいない。人肉を好む妖は知能も妖力も高く、そして獰猛だ。このように中途半端に遺体を放り出すような事はしない。それこそ骨の髄までしゃぶり尽し、むしろ現場は綺麗なままで事件が起こった事すら分からないであろう」
仕事柄、何件かそのような事案を取り扱っている恭一郎もその意見には納得する。迷宮入りとなった失踪事件の中の何割かはこの『喰人鬼』により何の痕跡もなく『消された』人間である。遺留品等の物的証拠が残りにくく、且つ遺体自体が上がらないのでは解決する事がまず不可能。加えて大前提である妖の存在を公にする事が出来ない以上、迷宮入りとせざるを得なくなるカラクリだ。
「要するにこの事件は、少なくとも『喰人鬼』による喰い荒らしではないと断言出来る。小物の妖か……或いは『妖化した人間』の仕業か。まあそのどちらかであろうな」
「ちょ……ちょっと待って下さい。それじゃあ殆ど何も分かってないのと変わらないじゃないですか?」
「当然だ。世の中に妖などどれ程の種類がいると思っている。その内の大多数が人間の体液を好むのだぞ? 防犯カメラなどに姿が映っていたのなら話は別だが、たったこれだけの現場検証で相手の種まで特定出来る訳がなかろう。『相手が喰人鬼ではない』と言う結論が、今はっきりしている事の一つなのだよ。すまんがそれ以上の事は現段階ではまだ分からん」
「…………そう、ですか」
恭一郎は落胆の色を隠せなかった。事件の捜査と言うものは存外に時間が掛かる。現場を検証し、推測し、証拠・物証を集め、可能性を一つずつ潰して行き、その末に真実に辿り着く。
無論、解決に至る時間は短ければ短い程いい。だがしかし、解決までの過程にただ一つたりとも間違いなど有ってはならないのだ。掛かった時間よりも確実性が重要視される、繊細な仕事なのである。
「……まあ、確証はないがある程度の推測は立てられるがな」
恭一郎の落胆を見て、隆栄が独り言のように呟く。
「この手際の悪さから見て、犯人は知性の低い低級、若しくは『なり立て』である可能性が高い。加えて素手で皮膚を裂いている事から鋭い爪や牙を持っていない事も分かる。喰い破りも引き裂きも力技だ。それに特化した『道具』も『技能』も持っていない」
隆栄が説明する。しかし恭一郎は別のある点が引っかかっていた。
「……さっきから随分と『妖化した人間』が犯人である可能性を推していますね。低級の可能性と同列に並べながらも、僅かに誇張しているように見受けられます」
「うむ……気付いたか」
すると隆栄は少し困ったような表情で受け答える。
「正直、そちらの方が可能性は高いのではないかと思っている。ある『娘』が突然妖化し、その混乱の末にこの者達を襲い、若しくは誘惑し、血を啜ったのではないかと」
「……ある……『娘』……?」
「そう、それこそが今の段階ではっきりしている事の三つ目だ」
恭一郎の顔を真っ直ぐに見据え、隆栄はキッパリと言い切る。
「犯人は『女』だ。それも年端のいかぬ、な」
「女……と言うのは……」
「言葉通りの意味だ。犯人は女。人間の女が妖化したのか、或いは女形の妖、このいずれか。しかもうちの娘と同年代か、恐らくそう大差はなかろう」
「確かに……向こうの被害者には下半身を露出している遺体もありますが……でもそれだと『少女』と呼べるような人物がこの凶行に及んだと……? 俄かには信じがたいですね」
「妖化したのであれ女形の妖であれ、立派に妖だ。一般人では及びの付かない力を持っていたとしても不思議ではない。そして何より、遺体に残留している妖気が若い女特有の種である事を物語っている。まず間違いはない」
可能性として分かっていながらも、まさか『女性』がこの残忍な事件を巻き起こしたとは。恭一郎は頭を殴られる思いだった。しかしそれを告げるのは歴戦の陰陽師。この場で出任せを口にする理由などないのである。
「ともあれ、現段階ではっきりしている事などその程度だ。捜査の足しになるかは分からんが……こちらも色々と調べてみよう。何かあれば八乙女神社の方へ頼む」
検証に一先ず区切りを付け、隆栄は再び被害者にシートを被せると足早にこの異空間を後にする。
「ああ……お疲れ様でした。こちらも何か分かり次第連絡します」
「ふむ、期待しておるぞ」
隆栄と入れ替わりで警察の捜査員がガヤガヤと現場へ入り始める。その真中、恭一郎はビルに切り取られ小さく折り畳まれた空を見上げた。
「…………………」
足元の惨状など感じさせない程に、空は蒼く煌びやかに澄み渡っていた―――――