序
「はっ……はっ……は――――!」
一寸先も見通せない闇の中。千々に乱れた呼吸を強引に整える。それは最早意地の領域だろう。呼吸と共に集中力も研ぎ澄ます。下を向く暇すら与えられない。身体は限界に程近く、否、常人であればとうに動けなくなっている筈であろう重傷に見舞われているが、『彼女』は猛りだけで己の状態に蓋をする。
「ギャァァァァ!!」
「ッ!!」
この世の物とも思えぬ叫び声が響く事、優に三桁。数などものの問題ではない。上下前後左右あらゆる角度から響くその不吉な音色は、しかし『彼女』にとって唯一の足掛かり。研ぎ澄ました全神経はこの声を捉える為に発揮される。
「ふっ!!」
貯め込んだ息を裂帛の気合いと共に短く吐き出す。突如として背後から現れた刃物よりも鋭利な『ソレ』は、文字通り紙一重の差で『彼女』の頬を掠めて行く。同時に『彼女』自慢の黒髪が一房切り裂かれ宙に舞うが、そんな事には構っていられない。反応が僅かでも遅れていれば、すわ無惨な生首の出来上がり。それが髪の毛だけで済んだのだ。充分に僥倖と言えよう。
背後からの襲撃を躱した『彼女』は、慣性に逆らわずに身体を翻す。流れるような動作で振り翳した右手には紙で出来た一枚の札が指に挟まっている。純白だった筈が今や朱に染まりきった巫女服の袖から、間髪入れずに取り出したものだ。『彼女』は『ソレ』の主――妖と体を入れ替え、擦れ違う刹那
「やあああああっ!!」
全身全霊を込めて札を叩き付ける―――!!
「ギャァァァァァ…………!!」
空気が爆ぜ、妖を焦がす。断末魔を響かせ、闇より生まれ出た人有らざる存在は、僅か数刹那の内に闇へと還る。浄化の光に包まれ、その醜悪な矮躯は散り際のみ美しく虹色の粒子に彩られた。否、それは妖にとって最上の責め苦。地獄の業火とも氷獄の棺ともなろう。『彼女』は慈悲も是非もなく、妖を祓い還したのだった。
「はっ……はっ……は……っ!」
呼吸を整えられたのは一息分だけ。その分の酸素を使い切れば当然息が上がる。矢継ぎ早に現れる『異形』を相手に、僅かの紆余を回復に当てる。
『どうした? もう終わりか? これでは昨日と差して変わらぬではないか。成長のない素に意味などない。座して死を待つつもりか?』
唐突に在らぬ方向から声を掛けられる。声の主は視認出来ない。闇の中、或いは外からの叱咤の声に、『彼女』は自尊を傷つけられる思いだった。
「まだ……まだ……!」
原動力は怒り。さて、それは不甲斐ない己が実力に向けたものか、はたまた不遜な声の主に向けられたものか。いずれにしろ、死に体と言っても過言ではない『彼女』は限界なんて知らない、とばかりに気力を奮い顔を上げる。
裂傷のない箇所を見つける方が難しい程、傷だらけの痩躯。着込んでいる見目麗しかった巫女服は今や襤褸布のようだ。左腕は腱を切断されたのか、動かない。大量の出血により右目は塞がれている。吐き出した唾は九割方血の固まりで、噛み締め過ぎて砕けた奥歯の欠片が混じっていた。絹糸のように艶やかだった黒髪はバラバラに解れ、背中で二つに分けていた片方は既に無くなっている。両の脚は裂傷と疲労により力が入らないのか、膝がガクガク笑っていた。真新しくも生々しい傷口は鮮血を吹き出している。とてもではないが、まだ幼さを僅かに残した少女の有るべき姿ではない。大の大人ですら苦痛により心が折れても詮無き事である。
しかし『彼女』は立つ。どれほど血を流そうが、疲労困憊になろうが、座り込む事など許されない。それは己に課した義務であり、身体よりも傷ついた己の尊厳の為であり、何より先達に追い付き追い越す為の代え難い近道なのだから。
『ほう……まだ挫けぬか。よかろう、ではそろそろハードルを上げるぞ。見事乗り越えて見せい』
声が僅かに弾むのは、『彼女』が見せた成長の兆し故か。手を抜くなど論外。意地には敬意を払って然るべきだ。『彼女』の体力残量を考慮しつつも、敢えて今までよりも無理難題を課そうと言う。故に『試練』。声の主にしてみれば、さながら教鞭を振るうかのように遠慮なく標を示す。
「はっ……はっ……んっ……は……あ……」
声に呼応し、『彼女』が動く。普段の『彼女』からは想像も出来ない鈍重さ。指一つ動かす事さえ血を吐くような苦痛を強いられる中、しかしまだ眼だけは死んでいない。心は折れていない。強靱な決意と意地、それだけが『彼女』の身体を支えていた。
四肢の中で唯一まともに動く右手で両の袖を漁る。取り出されたのは先刻妖を闇に葬り還したあの紙製の札と同じものが四枚。これが『彼女』の武器。闇の住人である妖に対抗する、最適にして最上の手段。無論ただの紙切れではない。永きに渡り伝え継がれた怪異を祓う神秘の魔弾、それがこの札――『陰陽呪符』と呼ばれるものなのである。
本来、この呪符は妖に叩き付けて使用するものではない。確かに先ほど『彼女』は呪符を叩き付ける事で妖を祓い還した。そのような使い方も出来るには出来る。だが、それではあくまで単発。妖一体につき呪符一枚を使用する羽目になる。つまり、効率が悪いのだ。勿体無い、と言い換えてもいい。
陰陽呪符は勿論、そこいらで売られているような代物ではない。その全てが手作りで、故に大量生産など出来ない。それは一枚一枚に、文字通り心血を注ぎ込んで作り上げるものなのだ。経験が浅いとはいえ、物心付いた頃からこの世界に身を投じている『彼女』でさえ、今までにたった十五枚しか作れていない。毎日呪符の精錬に費やしていながら、だ。しかもその内の十一枚を既に使ってしまい、残りは虎の子の四枚きり。『試練』が待ち受けている以上、いよいよ後が無くなって来たと見ていいだろう。
陰陽呪符はその名の通り、陰陽術を行使する為の触媒である。自らの血液で呪文や記号を書き記し、常日頃から『力』を注ぎ込んだ呪符にはそれ単体で強大な『霊力』が宿っている。呪符を掲げ、印を切り、自らの霊力を以て呪符に内在する霊力を起動させる。
とは言え、霊力は消耗品だ。つまり、幾ら呪符に内在されている霊力が甚大だと言っても、無限ではなくあくまで有限なのだ。車を走らせればガソリンが減って行くように、使えば使う程、残量がカラに近付いて行くのは道理である。
術を起動させる霊力すら残らない程に使い込んだ呪符は、後は搾り滓の霊力をかき集めて叩き付ける位しか使い道がなくなってしまう。そうこうしている内に『彼女』は、持っていた十五枚の呪符の内の十一枚を使いきってしまったという訳だ。
人ならば本来誰しもが持つ霊力。しかし一般的にはその存在すら知られていない。陰陽術は人間の可能性の限界とも言えるその力を最大限に引き出し、身体能力を飛躍的に上昇させ、森羅万象を繰り、人に仇なす人有らざる異形を祓い還すのだ。
人の世に異形など存在してはならない。そも、人で溢れ返るこの世界には最早、異形の住まう土地など在りはしないのだ。鋭い爪と牙を持ち、凶暴な性格で時に人を喰らい、時に人に災いをもたらす妖と呼ばれる異形。無用の混乱を避ける為その存在は秘匿されているが、『彼女』は秘密裏にその異形共を祓い人々の営みを守る使命を帯びた由緒正しき『陰陽師』の末裔なのである。
「すぅ……は……ぁ……」
深呼吸。出来るだけ深く酸素を吸い、出来るだけゆっくりと吐き出す。『彼女』は試練を乗り越える為に、精神を集中する。神経を極限まで尖らせる。残る四枚の呪符の使い方を考察し、動作のシミュレーションを繰り返す。三枚を右手の指に挟み、一枚を口に咥えた。白地に吐血が滲むが、気にした風もない。さて、この行為にどのような意図があるのか。因みにこの四枚は全て出涸らし。後は叩き付けるしか使い道のない代物である。
言うまでもなく、『彼女』自身の霊力にも限りがある。それは既に、肉体的疲労や怪我よりも深刻な程、限界に近付いている。呪符を起動させる為には自身の霊力を流し込まねばならない。数えて三百以上を繰り返して来た『彼女』の身体には最早、本来の百分の一も霊力が残されてはいなかった。使える陰陽術はせいぜい一度と言った所か。
「……ふっ……」
それは『彼女』とて承知済み。ようやく静まり始めた呼吸を諫め、臨戦態勢に移行する。押し迫る『試練』に向かう為の事前準備は整った。後は事を成し、予定通りに『試練』を乗り越えるだけだ。
「――――」
眼を凝らす。否、この一寸先すら見通せない唯闇の中では視力など役に立たない。眼を凝らすように神経を集中させる。僅かな変化、空気の揺らぎ、霊気の流れ、そして音。あらゆる情報を捉え漏らさぬよう細心の注意を払う。
深呼吸で取り込んだ大気に満ちる霊気を体内で還元すると、呪符を携えた右手と口唇に僅かな活力が戻る。雀の涙程度の量だが、ないよりは遙かにマシだ。そして訪れる試練の時。『彼女』は眼を見開き―――
『キシャァァァァァァ!!!』
「はっ!!」
妖の出現に合わせ、床を蹴り上空へと飛び上がった―――!!
突如としてその醜悪な矮躯を現した妖は獲物の消失に刹那の戸惑いを見せる。闇より生まれ出でたるは三体。先刻までは矢継ぎ早とは言え一体ずつ相手をしていたが、此度はその三倍が同時に襲い掛かる。妖の頭上で三つの影を確認した『彼女』は、そうでなくては試練にならないとばかりに呪符を咥えた口元を改めて引き締める。
妖三体が同時に襲撃を繰り出した中心点――『彼女』がコンマ一秒前まで居た地点――から宙返りで離脱する事、約5m。ノーステップでの跳躍でそれだけの距離を稼ぐのはおよそ人間業ではない。無論それは体内の霊力を操り身体能力を引き上げている故。人間など及びも着かない身体能力を誇る妖と渡り合う為には必要不可欠な技術だ。陰陽術の基礎にして奥義と言ってもいい。一般人にこの存在が秘匿される理由はここにもある。このような人間が増えてしまえば、常識が根底から覆され大混乱に陥るだろう。
「ギャァァァァァ!!」
動物で言えば猿程度の大きさ、尖った耳と鋭く剥き出した牙、紅く光る眼、額には小さな角、硬い体毛に覆われた躯、刃の如く長く研ぎ澄まされた爪を持つ妖。闇に生きるソレにとって『彼女』の姿を捉える事など造作もない。三体は即座に身を翻し、手負いの獲物を狙う。
「オン!」
妖の爪に捉えられるよりも一瞬迅く、『彼女』は身を屈め床に呪符の一枚を貼り付けていた。同時に二本指を立てた右手で印を切る。三方向から差し迫る凶刃に怯む事無く『作業』を行う。霊力が注入され、仄かに蒼白く光る呪符を見極めると、『彼女』は回避と同時に三体の間をすり抜ける。
「バク!」
全く同じ動作をもう一度。床に呪符を貼り付け、印を切り襲撃を回避する。
「ショウ!」
都合三度目。手にしていた三枚の呪符は床に貼り付けられ、淡く蒼い光を放つ。その鮮やかな色彩は闇夜に煌めくイルミネーションのようだ。
『ギャァァァァァァァァ!!』
「ハァ、ハァ、ハッ―――!」
引き回された妖は狂声を響かせ『彼女』の命を狙う。片や『彼女』は既に限界だった身体を強引に奮い立たせているのだ。無呼吸でいられる時間はそう長くはない。鬼ごっこは終わりとばかりに、呪符を貼り付けた三点の中心で片膝を着く。
「――――――」
否、それこそが『彼女』の狙い。逃げ回り、凶刃を掻い潜り続け、手間を掛けて準備を施したのはこの瞬間にこそ。満を持して咥えていた最後の呪符を右手に取る。
「オンバクショウキソワカ、オンバクショウキソワカ、オンバクショウキソワカ……!!」
苛烈なる霊力の奔流。額に当てた呪符と床に貼り付けられた三枚の呪符が共鳴する。呪符と呪符とが光の糸で結ばれ、世界との隔絶を成す。
「ギャッ!?」
妖にすら困惑が走る。否、妖であるからこそこの異常事態、そして己が命運の終焉を察知した。呪符が象る一辺約6mの三角形の中心に君臨する玲瓏たる死神。その姿に恐怖し、同時に最大限の防衛本能を以て襲い掛かる。
『ギャァァァァァァ!!』
三位一体とはこの事か。連携など出来るような頭脳を持つ筈がない妖は、しかし、脅威を排除すべく事ここに至って絶妙なコンビネーションを見せる。狂声がサラウンドに響き渡り、逃げ場などないと言わんばかりに『彼女』へと迫り往く。
「はぁっ!!」
それは先刻の焼き増し。三体が現れた瞬間と同様、強襲する凶器を跳躍する事で避けた。僅かに相違点があるとすれば……此度『彼女』が見せたのは宙返りではなく、単純に垂直跳び。先刻の離脱とは違い、ただ真上に跳躍したのだ。
「ギャァッ!!」
妖共はすぐさま体勢を建て直し、その落ち際を狙い身体に突き通さんと鉤爪を振るう。離脱としてはあまりに御粗末。霊力で増幅された跳躍力とは言え、縦に跳んだのでは後はそのまま同じ地点に落ちるしかない。空中で自由が効く程、陰陽術は万能ではないのだ。
故に―――勝敗は中空で決せられる。
「やああああぁぁぁぁっ!!!」
裂帛の気合い。眼下の敵に向け、最後の呪符を振り翳す。刹那、呪符が最大限の輝きを帯び、三角錐型の別世界が出現する。
……そう、それは紛れもなく『別世界』。敵を封じ込める監獄であり、同時に己の力を具現化する支配空間。『彼女』は残る四枚の呪符を以て現状考え得る最高の大儀礼を成す。
―――神秘の名を『八乙女流陰陽術火ノ式・煉焼結界』。括られた結界内の妖を塵芥すら残さず焼き尽くす絶技である―――!!
『ギャァァァァァァ……!?』
断末魔さえか細く消える。否、掻き消される。鮮麗すぎる光と熱に、妖は耐え切れない。紅蓮の炎は渦巻き幾千もの矢となりて降り注ぐ。それは圧倒的な質量と重圧を得て生命力を蹂躙する。体液の一滴さえ蒸発し、三体の妖は跡形もなく文字通り『焼失』した。
呪符三枚を床に貼り三角形を形作る。呪符と呪符を霊力の糸で結び、結界式を組み上げる。残る一枚で立体的に結界を発動させ、結界内を強力な炎で満たし、敵を焼き尽くす。これが『八乙女流陰陽術火ノ式・煉焼結界』の全容だ。大儀礼と呼ばれ、通常術よりも遙かに威力に優れる代わりに手間も掛かり消費する霊力も大きいこの上級陰陽術。満身創痍の『彼女』が使用するには些か荷が勝ち過ぎる。
しかしながら、最後に敢えてこれ程の大技を繰り出したのは『彼女』の意地ゆえ。そも、これは『試練』なのだ。出し惜しみなど論外。己が全霊を以て乗り越えねば意味がない。
「はぁ、はぁ、は……あ……」
破裂寸前まで肥大した心肺。動悸は暴れ出したまま収まる気配がない。致し方あるまい、『彼女』は霊力も体力も、そして手の内さえも文字通り全てを出し尽くしたのだ。両膝を着いたまま動けないでいる。
本来、出涸らしの呪符など何枚使用した所で此度の大儀礼を行使する事など不可能だ。搾り滓の霊力を掻き集めようが、総量などたかが知れている。
では何故、『彼女』は結界術を成し得たのか。その答えは『口に咥えた最後の呪符』にある。
この規模の結界を展開・維持するだけならば出涸らしの呪符で充分だ。基点となり得る霊力の通う触媒であれば、後はそれを『陣』と呼ばれる然るべき図形の頂点に配置し、霊力を通せばそれで事足りるのである。無論、更に大規模な陣を敷く場合はそれ相応の触媒を用いねばならないが。
しかし、術式を起動させる場合はそうは行かない。大量の霊力を流し込んで己のイメージする大儀礼を成す。それには自身は勿論、扱う触媒にも充分な霊力残量が必要となる。
故に『彼女』は、呪符を『咥える』事で内在する霊力を回復させた。人間の体液には自身の霊力が溶け込んでいる。それは血液や唾液は勿論、汗や涙とて例外ではない。『彼女』は紙製の呪符を咥え、吐血や唾液を染み込ませる事で一時的に呪符の霊力残量を術式行使に耐え得る程まで回復させた。体外に流出した霊力は術者自身に還元出来ないが、このように触媒に移し変える事は可能なのだ。
恐るべきはその機転。『彼女』は経験・英知・才覚の全霊を以て『試練』を乗り越えたのである―――が、
『ほう……これは見事、と言いたい所だが』
「…………え? ―――ッ!?」
不遜な声が再び闇に響く。疑問さえも届かぬ刹那、ザクン、と言う不可解な衝撃に見舞われる。『彼女』は自身の胸から生えている銀と紅に輝く奇妙な物体を見下ろした。
「―――ごふっ……」
食道に熱いものが込み上げ、それは留まる事を知らずに口腔から吐き出される。焦点は合わず、頭の中でカンカンとサイレンが鳴り響く。身体は灼熱に支配され、意識は朱に染まって行く。首だけをどうにか振り向かせると、そこには―――
「ギャギャギャァッ!!」
一際矮小な妖が一匹、狂ったように勝ち鬨を上げその表情を恍惚に歪ませていた―――――
「…………卑怯だわ」
「何が卑怯なものか。小鬼が三体きりなど、誰が言った? 単にお前の確認不足だろう。死角にも気を配れと常日頃から言っていた筈だ」
「だからって……あんなに小さいヤツを私の背後に潜ませておくなんて、陰湿にも程があるわ。いいえ、これは最早イジメよイジメ。親のくせに。イジメ、カッコワルイ。……ん? この場合は虐待になるのかしら?」
とある神社の地下の一室。結跏趺坐の状態で禅を組んでいた『彼女』は、眼を覆うように貼られていた呪符を剥がしながら溜息と共に悪態を吐く。詰めを誤ったのがそれほど悔しかったらしい。
地下部屋は闇に覆われてなどいない。照明は蝋燭が数本だけとは言え、部屋の広さを考慮すれば充分な光量と言えよう。部屋には『彼女』ともう一人。先程まで対峙していた妖など姿形もない。加えて、『彼女』も流血はおろか怪我一つ負ってはいないし、着込んでいる白と朱の巫女服がボロボロの訳でも、心血を注いで作り上げた十五枚の呪符の一枚だって失ってすらない。
先刻までの戦闘は、事実、『試練』であった。否、正確に言えば『修練』だ。これも結界術の一種で、所謂『イメージトレーニング』の最たるものと言える。
感覚も、運動能力も、思考も全て現実のものと同じ。動けば体力を消費し、斬られれば怪我もする。己の実力以上の挙動は行えない。だが『敵』や障害の出し入れは空間を維持している術者の自由。突き詰めれば、舞台を山奥や海中にする事すら可能だ。無論、訓練で得た経験は実体に反映される上、怪我などは一切残らない。
名を『修練結界』。仮想空間を作り、禅を組むだけで実戦訓練を積める陰陽術の秘技。此度はそれを用いた特訓なのであった。
「今日の戦果は……実動3時間で撃破数337体。一応過去最高記録だな。最後に結界術など使わなければ350は行けたであろうが……」
不貞腐れる『彼女』を尻目に、初老の男性は此度の結果を鑑みる。
「いーじゃないのよ。最後は派手にキメたかったんだもん。これ以上は無駄に数を増やしても意味ないでしょ。それよりもあれだけ追い詰められた状態で大儀礼を完遂出来た事を褒めて欲しいわね」
「戯け。如何に運用効率を抑え、数を撃破する事を目的とした訓練でそのような事は望んでおらん。陰陽師の戦いは基本的に一対多だ。無駄を無くし、常に余力を残しつつ一晩中でも戦い続けられるようにならねばダメだと何度も教えたであろう? たった3時間で手持ちを使い切りおって……」
「………むう」
訴えは一蹴される。その実、『彼女』は効率的に霊力を運用する事を苦手としていた。結界術もそうだが、大砲で軍勢に風穴を空けて一気に殲滅させるような、そんな大味な戦法を得意としていたからだ。故に此度の訓練である。
妖が徒党を組んで一度に大群を成す事などそうそうありはしない。細く、長く、戦い続けられる事が重要なのだ。それは太陽に弱い妖の性質にも通ずる。要するに、朝日が昇るまで負けなければそれでいい。
「……よい。今日の修業はこれにて終いだ。明日も学校があるんだろう、しっかり身体を休めておけ。もう少し力の使い方を研究しておくのだな」
「……………」
男性は立ち上がってそう言い残すと、地上へ通じる扉へ手を掛ける。時刻は既に夜半。本来であれば年端も行かない『彼女』が起きていていい時間ではないのだ。ドアを開き、未だ座禅を組んだ格好のままの『彼女』を振り返らず
「……まあ、結界術の着想と手捌きは見事だった。威力も申し分ない。精進するがいい」
常に辛辣だった彼が最後に一言だけ、甘い評価を残したのだった。
「…………そんな取って付けたように褒められても嬉しくないわよ。ホントにそう思うなら面と向かって言えってーの」
独りごちて、足を崩す。とは言え、今日の修業はこれで終わり。その最後に予期せぬ賞賛を得、ほっと気を緩める。あとは湯にでも浸かり眠るだけだ。賞賛に対してさえ良しとしないのは、己への厳しさ故。確かに今回の訓練での課題という点では及第点とは言えない。それ以外の部分で褒められた所で、『彼女』の言う通り取って付けたようにしか聞こえないのである。『彼女』はまだ若い。極点への道のりは険しいようだ。
「はあ……仮想とは言え、つっかれた……。お風呂入って寝ちゃおう。明日は一限から英語だったっけ」
陰陽師の夜は長い。が、決して日常生活を蔑ろにしている訳ではない。『彼女』とて現実の中で普通の女の子として生きなければならない宿命がある。
―――『彼女』こと『八乙女 桃』、現在中学二年生。父である陰陽師・隆栄の下で日々修業に明け暮れる、前途有望にして多難な陰陽師の卵である―――