08 人殺し
人殺し、と初めて言われたのはいつだっただろうか。
これを考えるとすぐに、母の葬儀の様子が頭に浮かぶ。多分、最初に言われたのはその時だったんだろう。
遺影の中でほほ笑む母。黒い参列者。嗚咽。一定のリズムを刻んで鳴り続ける木魚とお経。俺のことを見る大人の眼。同情。憐れみ。そして何度も言われる言葉。
「まだ小さいのに、かわいそうに」
白い顔をした母は眠っているようで、しかしもう息をしていなかった。首元に残る、青紫の線。それを隠すように、棺の中を埋め尽くす白い花。その白い花の所為で、母の顔はますます白く見えた。それはまるで、陶器でできた人形のように。
当時5歳だった俺は、ほとんど何も理解していなかった。
「おかあさんはしんだ」
それを父から聞かされた時も、分かっているようで分かっていなかった。
退屈で、しかもよく分からないお経を聞きながら下を向いて、俺は母の最期の姿を思い出そうとしていた。幼稚園のリュックを渡してくれた手。細い指。鈴を転がすような声で「いってらっしゃい」と言った母は、あの時笑っていただろうか。
友達と夕方まで遊んでから帰宅した俺は、いつものように大きな声で「ただいま」と言った。だが、返事がなかった。そのことにまず不安になった。いつもなら、母が「おかえり」と返してくれていたからだ。
玄関で靴を脱いで、まずリビングへと向かう。しかし、誰もいない。綺麗に片づけられたリビングにある机の上に、封筒が置かれていたことにはその時気付かなかった。
とりあえず自分の部屋にリュックを置きに行こうと、階段を上がった。2階の廊下に出てみると、両親の寝室のドアだけが半開きになっているのに気づいた。母は、あそこにいるのだろうか。
……見てはいけない。
なぜかその瞬間、直感的にそう思った。あの部屋の中は見てはいけない。
しかし、母が家にいるのだとしたら間違いなくあそこだ、とも思った。寝ているのかもしれない。母は頭痛持ちで、たびたび寝室で休んでいた。俺はベッドに横たわる母の姿を想像しながら、ドアの隙間から部屋を覗いた。
母は、やはり部屋の中にいた。だが、ベッドの上ではなかった。
天井から伸びてきたような、茶色の縄。少しだけ揺れる、だらりとした母の身体。床についていない、足。
母の、顔は、
「人殺し」
低い声で、憎しみをこめたようにそう言った。響くお経。漏れる嗚咽。俺は顔をあげた。
人殺し、と呟いた父は、俺の方を見ていた。真っ赤に充血した眼。震える唇。血色の悪い肌。
俺は、人殺しの意味を考えた。ひとごろし。ひとごろし。……ヒトゴロシ?
「おとうさ「黙れ」
低く唸るような声で父は俺の声をさえぎり、母の遺影を見た。透明のしずくが、父の頬を伝う。それから、もう一度こちらを向いた。先ほどよりも、憎しみのこもった目だった。
「おまえが殺したんだ、お前が、」
俺が、母を、殺した。
家電量販店のディスプレイの前で、俺は足をとめた。俺の家にはテレビがない。新聞も取ってない。ラジオを聴くこともない。だから俺は、世間のことにひどく疎かった。政治はおろか、今流行っているものさえほとんど知らない。もちろん、刑事事件のことも。
量販店のディスプレイにある大型テレビのモニターに、見慣れた風景が映っていた。現代の建築物から、ひどく浮いたような造りの建物。まるで、ファンタジーに出てくるお城のような。名前は伏せられているが、俺はそのホテルの名前を知っていた。この近所だったからだ。
画面が切り替わり、先ほどまで画面の右上に小さく写っていた男の写真と名前がアップされた。
俺は、その男の名前を知らなかった。しかし、顔ははっきりと覚えていた。整った顔で、彼女と釣り合っていると思ったその顔。彼女と、城のような造りのホテルに入っていったその顔。
その顔の下に無機質なゴシック体で、死亡、と書かれていた。
遺体が切り刻まれていたこと。その遺体が、ナイフを握っていたこと。ただ、遺体の発見場所がラブホテルであったりと、自殺にしては不自然な点があること。
「警察は自殺、他殺の両面で捜査を進めている」
彼と一緒にラブホテルへ入っていく、彼女の姿。
人殺し、という単語が頭に浮かんだ。